今日の誕生日の花は・・・・スカシユリ
花言葉は・・・・・注目を浴びる

ユリは横向き下向きに咲く
スカシユリは上向きに咲く
シーボルトが欧州に持ち帰ると評判であった。
ゆえに花言葉

暑き日を 海に入れたり 最上川

祇園宵山が終える頃が梅雨明けといわれてるらしい。
17日お昼梅雨明け宣言。
地域では120ミリもの豪雨で
  9人が亡くなられてるという。
  ご冥福をお祈りしたい。
記憶では確か・・・・
バケツをひっくり返したの形容が30ミリぐらいで
50ミリは滝のようなであったと思う。
120ミリなぞゲリラどころか想像さえ出来ない。
台風銀座、自然災害の本家お家元の宮崎に災害が起きなくなった。こうてい疫のみで豪雨のお咎めなし。
神のなすことゆえ如何ともしがたい。

NHKテレビ7月17日午前9:25~午前9:55
「 世界遺産への招待状」
「ポルトガル 命の森に抱かれて~マデイラ島のラウリシルヴァ」
第47回は、ヨーロッパの人々から“大西洋の真珠”と呼ばれる
大陸より遠くはなれたポルトガル・マデイラ島の
世界遺産「ラウリシルヴァ=照葉樹林」。

ラウリシルヴァの特徴は「保水力」。
島に発生する霧から水滴を生みだし、地中に水を蓄える。
いわば“水を支配する森”。
島の人口は24万人。
9割が南側入植地に暮らす。
年間80万人の観光客が訪ねる。
島の人々は豊かな水を利用するため、上流関で南、北に井関でわける
その先には1400キロメートルを超える水路を造り、
島中に張り巡らせてきた。
600年間に渡り、管理水夫は年ごと130人があたる。
水の森・ラウリシルヴァと共に生きる人々の物語。
2月20日豪雨で42人が死亡し120人が怪我をした。
植林してラウリシルヴァ=照葉樹林を守ろうと
大地の保湿保水力回復にかける。

17日NHK19時のニュースではリアルな災害場面のみ流し
荒れた山河の急峻な列島のことには触れない。
田舎の山間地は過疎で山は荒れ放題。
随分と違いがあるもんだ。
新自由主義者は効率優先の国家間国士の競争しか頭にない。
その世事が吹き荒れ鳩山・小沢民主党政権で田舎復興に眼を向けてたのに
またもや小泉新自由主義路線を目指す菅新民主党売国内閣にある。
菅直人は「バカッ!となじった」霞ヶ関官僚の思いのまま。
<菅内閣>は草冠がとれた<官>僚内閣である。
本歌とりで爺目は言いたい。

うえからは 民主というけれど 主民(主が先で民があとでは)
民主党が逆転と下からは読む

明治維新は苦労して旧支配階級の武士排除に10年もかかった。
この明治の治世を狂歌が物語るように世情は混乱した。。

うえからは、明治などと言ふけれど 治明(おさまるめい)と下からは読む

国難にアル
鳩山後継新民主党にオーナーもドキドキのようである。
鳩山由紀夫前総理が引退表明いったん撤回、
結論は来春に・・・との17日記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100717-00000728-yom-pol
復活して鳩山家悲願北方領土返還に取り組んでもらいたい。

異邦人・飛んでイスタンブールの醸しだす中近東なり,トルコ、ペルシャの香り
団塊の世代はコレにやられた記憶がある。
その後に洲本のひとが一世を風靡していく
兵庫県津名郡鮎原村現在の洲本市五色町鮎原出身
洲本は淡路島である、

ノスタルジックな時代背景に似使わないほどの美女先生が監督の
「瀬戸内少年野球団」の映画原作者である。

阿久 悠(1937年2月7日 - 2007年8月1日)。
悪友からペンネームとした。多夢 星人としたときもある。

作詞家ばかりでなく放送作家、詩人小説家。
出生名 深田 公之
今は亡き人で長男は作曲家の深田太郎。
2007年(平成19年)8月1日午前5時29分
、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で逝った。

この医院創立者は宮崎のヒト・海軍医総監高木覚兼が創立者。
カッケの因を陸軍医官トップ・森鴎外と原因追求を競った。

森鴎外はドイツ医学を治めたヒト・陸軍軍医総監。
医学の功績より文学で名が知られる。
高木覚兼は漢方学から追求したビタミンンの父で海軍の医学トップ海軍医総監にあった。
見事にビタミン不足を証明したゆえの業績を称えビタミンンの父。

陸軍初代軍医総監・松本順については、伝記小説ゆえ高名に伝わる。
司馬遼太郎著「胡蝶の夢」
子母澤寛著「狼と鷹」
吉村治著「暁の旅人」
カッケ原因追求では高木覚兼の後塵を拝した文学者森鴎外。

おなじ日向の出の幕末明治の儒学者・安井息軒については
息軒夫人の作品を残している。
幕末黒船の来航での混乱の中、息軒は
水戸藩儒であった藤田東湖を介して幕府攘夷派の中心水戸斉昭に意見を求められた。、
『海防私議』『靖海問答』などを上書し答えた。
ただ斉昭は安政の大獄のさなかに没した。
ゆえこの意見が用いられることはなかった。
水戸受難の幕末史は語れることは少ない。
安井息軒明治9年(1876年)9月23日午後7時、77年の生涯を東京で終えた。
東京・千駄木の養源寺に埋葬され、東京都史跡とアル。

話を戻す
阿久 悠=出生名 深田 公之 。
実は深田 氏は洲本にはない。
巡査の父は宮崎のヒト。
川南での農業をやめ兵庫巡査になった。
ご迷惑をかけているあのこうてい疫発病の第一発病地・宮崎川南のヒトである。

阿久 悠の驚異的記録がある。

これまでに発売されたシングルの総売上枚数は6,821万枚
で作詞家歴代1位。
2位以下に大差をつけている[3]。

1位 - 6,821万枚 阿久悠
2位 - 4,948万枚 松本隆
3位 - 4,218万枚 小室哲哉
4位 - 3,611万枚 秋元康
5位 - 3,600万枚 稲葉浩志
6位 - 3,463万枚 桑田佳祐
7位 - 3,349万枚 つんく♂
8位 - 2,767万枚 桜井和寿
9位 - 2,595万枚 なかにし礼
10位 - 2,472万枚 山上路夫

なお、阿久悠が作詞した曲のシングル売上枚数上位は
、1位「UFO」、2位「サウスポー」、3位「北の宿から」多彩である。
記録を挙げると霧がない。

日本レコード大賞での大賞受賞曲は作詞家として最多の5曲

1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦
1976年「北の宿から」都はるみ
1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
1978年「UFO」ピンク・レディー
1980年「雨の慕情」八代亜紀

日本レコード大賞の作詩賞受賞は7回で最多記録

1973年「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス。「じんじんさせて」山本リンダ
1975年「乳母車」菅原洋一
1985年「夏ざかりほの字組」Toshi & Naoko(田原俊彦・研ナオコ)
1986年「熱き心に」小林旭
1990年「花(ブーケ)束」八代亜紀
1994年「花のように鳥のように」桂銀淑
1996年「螢の提灯」坂本冬美

日本作詩大賞は8回受賞。
日本レコード大賞作詩賞と同じく、最多記録となっている。

1974年「さらば友よ」森進一
1976年「北の宿から」都はるみ
1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
1981年「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行
1982年「契り」五木ひろし
1984年「北の螢」森進一
1988年「港の五番町」五木ひろし
2002年「傘ん中」五木ひろし

11日大河ドラマの龍馬伝。
♪言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳ぎより ♪♪
の捕鯨の国土佐藩主・山内容堂公。
ついに宮廷を代表してお江戸に上りお国を一時期仕切った土佐勤王党に断が下された。
土佐藩は長宗我部が廃家され一豊の代に山内家が入府。
上士、下士の厳しき身分制度のお国。
藩内が佐幕派VS勤皇派で揺れた時代背景に翻弄された。
家老吉田東洋惨殺を明治に活躍する甥・後藤象二郎を対比させる
江戸まで上って将軍を上洛させた勤皇派武市半兵太に切腹を命じる
ある意味切腹は名誉でさえある。
龍馬とも岩崎財閥をなした岩崎を介して牢にいる武市半兵太に会わせる。
曼荼羅の国は絶望の中に一抹の希望を与えさせた演出。

この国の善悪でない祖先を尊ぶ美徳文化である
「日本一の幸せモン」
といって白装束を決める武市半平太。
主の命による切腹、敢然と腹を切る。
その姿勢や潔し。

明治万博パリ公演の川上音二郎
「ハラキリ」が好評を博した。
世界唯一の日本民族の美学「ハラキリ」
潔しの再出発の儀式。
為政者のポストにあるゆえの責任の処し方。

政治責任で自民党65年の政治美学・常識に貫かれてきたもの。

笑わす出ない。
ソレさえ解らぬ菅新民主党
CIAに操られた小泉純一郎亜流の正体を現しつつある。

自主独立を理念でも目指した鳩山・小沢の後継内閣の姿勢は微塵もない。
政治主導の象徴の戦略室も地位低下、
CIAそのもである検察・外務省を代表とする霞ヶ関に屈服、対米従属に寝返った。
6・2クーデーターの卑しき輩の菅奇兵隊内閣。

落選した千葉大臣さえ「民間人の立場での法務大臣」とほざく。
ソレが解らないお子ちゃま内閣。
北沢防衛大臣、原口大臣のみが
政治家の掟を知っている。

醜いのは小泉亜流の前原国交大臣。
「小沢一郎は国会で証言しろ」
と参議院選挙敗北の責任を小沢一郎に転嫁し
トンチンカンンな言い回しでケムに巻いている。

「腹を斬れ」「首を差し出せ」
は最大の政治決着。
ソレすら解らぬ
菅奇兵隊内閣には政治家は存在しない。

さてその切腹であるが・・・
最後に行われたのはこの阿久 悠の生誕地の淡路島・洲本である。
淡路島を治めていた蜂須賀家・家老稲田ゆえ稲田騒動の顛末。

事件のおこった年が明治3年庚午の年だったので
この大事件のことを「庚午事変」(こうごじへん)
と歴史家は名づけよんでいる。

庚午(かのえうま、こうご)は、干支の一つ。
西暦年を60で割って10が余る年が庚午の年となる

1810年
1870年
1930年
1990年
2050年
2110年
2170年
干支の組み合わせの7番目で、前は己巳、次は辛未である。
陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の午は陽の火で、相剋(火剋金)である。

NHKはテレビドラマ「お登勢」で放映した。
お登勢とは
「庚午事変」をモデルにした船山馨原作の小説「お登勢」の主人公
舞台の「稲基神社」とは稲田家の守護神

この事件がもとで家臣共々稲田氏は北海道の日高町静内へと開拓移住する。
先日名馬がなくなったあの町である。

淡路島は三好氏以来からの阿波の管轄から、兵庫県の管轄に移行する。
当時の淡路の稲田侍は、士族730人、卒族2千余人。

このとき淡路の庄屋らは「徳島藩のままにしておいて欲しい」との訴え
を起こした
しかしその後の淡路島は阿波、讃岐が合併して名東県となり一時阿波に戻るが、
さらに名東県はまた分離され淡路は兵庫県に収まる。
このとき淡路島の人々に、徳島と兵庫とどちらの所属になるのがよいか調査したりもした。
その結果、京や大阪に近い近畿圏に入る方がよいだろうという意
見が圧倒的。
今度はその地元の意見が反映されたのだろうか、而して淡路島は永遠に徳島県
から離される事になる。

そのような歴史的背景もあり、淡路島の方言は今でも阿波弁的なところがある。
といっても、地元以外の人が聞いてもその違いは分からん程度
九州宮崎人が聞く秋田弁と岩手弁のようなもの。
そのまんま知事言う
「どんげかせんといかん」
宮崎弁か鹿児島弁かの違い程度。 
 
長宗我部盛親は関が原の合戦で西軍につき改易された
蜂須賀家が入府して治めた。

伊予之二名島(伊予二名洲、いよのふたなのしま、いよのふたなしま)
または単に伊予島(伊予洲、いよのしま、いよしま)、
二名島(二名洲、ふたなのしま、ふたなしま)と呼んだ。
「フタナ」は二並びの意。
五畿七道の南海道のうち、紀伊国と淡路国を除いた
阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから、
近世以降は「四国」と呼ばれた。
陰徳(太平)記序に、「山陰山陽四国九州」と記載がある。

今日では、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの県
、阿波国と淡路島を領土とする蜂須賀氏の徳島藩、
 水戸徳川家の分家の高松藩、
 山内氏が治める高知藩、
 加藤氏や久松松平家(親藩)などが領した伊予松山藩、
 仙台伊達氏の分家が治める宇和島藩などであった。

淡路島は蜂須賀氏の徳島藩
兵庫ではない。
爺目の小学生社会科地理の時間の直感は正しかったんである。
瀬戸内は四国さ~~。

稲田氏は家老でありながら大名並みの1万4千石もの禄高。
稲田家臣たちにとっては洲本藩として独立する大望。
稲田家の祖とされる稲田植元(たねもと)は、
1545年尾張岩倉生まれ、1628年阿波脇町没。
尾張岩倉城、織田本家の家老筋の稲田大炊助貞祐の三男。
蜂須賀小六と義兄弟の契りを約し共に行動し、
阿波蜂須賀藩筆頭一番家老的立場となり阿波脇城番を勤める
ところが明治になって、阿波藩から独立しようとの動きをみせる稲田家臣たちに対し、
蜂須賀家の家臣が襲撃するという大事件がおこった。
これには伏線がある。

徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、徳島本藩との様々な確執が以前よりあった。
幕末期、
本藩側は佐幕派に対し
稲田側では尊王派であり、
稲田側の倒幕活動が活発化していくにつれ本藩側との対立をさらに深めていく

そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島本藩の家臣は士族とされた
、陪臣(徳島本藩の家臣)である稲田氏の家臣は卒族とされた事に
稲田氏の家臣は納得できず、自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。
それが叶わないとみるや今度は洲本を中心に淡路を徳島本藩から分藩独立させて
稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指す
そうすれば自分達は士族になるようになり、
明治新政府にも独立を働きかけていくようになる。
稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていた。
稲田側こうした一連の行動に怒った本藩側の一部過激派藩士らが、
明治3年5月13日(1870年6月11日)、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃した。

またその前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、
脇町(現:美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍。
これに対し稲田側は一切無抵抗でいた。
これによる稲田側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。
他に投獄監禁された者は300人余り。焼き払われた屋敷25棟。

政府は一部の激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で激派を煽動していたりはしなかったか調査した。
少なくとも洲本では意欲的に緊急の措置を怠った疑いがある。
そのような事実が少しでもあれば容赦なく蜂須賀茂韶を知事から罷免するつもりであった。

政府は版籍奉還後も藩主が藩知事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない。
中央集権化を推進していくうえで、この問題は是非とも克服してゆかねばならない。
だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねない。

結局、政府からの処分は、徳島藩側主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首
(のちに藩知事の嘆願陳情で切腹になる)。

これは日本法制史上、最後の切腹刑となる。

八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。
藩知事や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの、
洲本を含む津名郡は明治4年5月に兵庫県に編入されている。

稲田側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で
兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。
この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、
2005年1月公開の映画『北の零年』でも描かれている。
なお、洲本市立淡路文化史料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示され、
事件当時の事を綴った稲田氏の家臣の手記などが展示されている。
この事件がなければ淡路島は今も徳島県であった可能性が高い。
これら記述はWIKIの次にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E5%8D%88%E4%BA%8B%E5%A4%89

維新の元勲・岩倉具視の家士の海部親子は阿波藩士でアル。??
海部閑六は阿波の海部郡から京都に出る。
岩倉具視の護衛をしていた長州出身の玖珂周治と親しくなり、
玖珂の紹介で岩倉具視に仕える
閑六は岩倉家の諸大夫に取り立てられる。
岩倉が刺客に襲われたのを、一刀のもとに斬り棄てたことから岩倉に重用されるようになったという。
その後、どういった分けか玖珂は閑六の養子となり海部六郎と改名した。
そしてともに稲田騒動に関係したため八丈島に流罪
閑六は妻を同伴して八丈島に渡った。
しかし閑六も六郎も徳島側に加わらなくてはならない動機は明白ではない。
しかも藩兵有志のなかでも、かなり指導的な役割をしていることからすると、
どうも岩倉が黒幕ではなかったかと思われる。
稲田方の運動は、分藩要求までに達していた
、それは1871年の廃藩置県の断行を控えた太政官にとっては容認できなかったはずである。
もし分藩を認めれば当時全国に273藩あった諸藩にも同じような運動が噴出しかねない。
何としても幕末の討幕運動に貢献した稲田方を納得させ、
北海道日高町静内移住を順調に実現したかった。
そのためには藩有志をそそのかし騒擾事件を起こさせば
その事後処理が容易になると、閑六と六郎を送り込んだと思われる。
ここでもあの岩倉具視の謀略がおこなわれていた・・・ようだ。
[太政官による西川一平に謹慎を命じた状]でよみとれること。

あの121代 孝明天皇の将軍家ともどもの不可解死も
岩倉具視の関与が史実資料ともども囁かれている。
いずれ興してみたい。

歴史は為政者が作り変え書く
歴史好きも蜂須賀家は評判に欠けるので名誉回復。
何故そうなってるのか。
太閤記に因がある。
多くの川筋の岐阜穀倉地帯
地形ゆえ小領主、土豪たちが割拠した
その総大将が蜂須賀小六。
秀吉の交渉ごとの知恵どころ。
温厚な人であったという。
交渉ごとにあたる人はそうでないと務まらない。
これを盗賊のように書いてる太閤記
17日までの大降雨に輪島の村には被害が報道されていない。

蜂須賀家大名は後々まで盗人が大名になったと言われ続けている。
、明治天皇までもそれを信じてたのであろうか他の理由か?、
明治の始め蜂須賀茂韶当主に会った時、
そのことを言って、からかった逸話がアル。

宮中晩餐会で出された盃を蜂須賀茂韶が持ち帰ろうとした。
この手の晩餐会では出された盃は持って帰るのが慣習。
そのとき明治天皇が言う
「蜂須賀よ、先祖の血は末代までも受け継がれているものよのう」
120代 仁孝天皇
121代 孝明天皇
122代 明治天皇

岩倉具視の護衛が蜂須賀家阿波藩士であったのを知っての発言かは定かではない。
ましてや先帝孝明天皇の不可解死は
宮中で囁かれていたのを聞いてたさえ確認できない。

仙谷由人は徳島の人である。
阿波の国は千石?しかなかった?
字数が越えるので次回にゆづる

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