坂之上の雲 中

2009年12月10日 お仕事
今日の誕生日の花は・・・フユサンゴ
花言葉は・・・・・・神秘的

ナス科フユサンゴの花は7月から8月に小さな目立たない花を付ける。
可愛い身が冬から夏まで目立つゆえ実を楽しんでの今日の花なんであろう。
明治中期に渡来したブラジル原産だが寒さに強い
鮮やかな色の丸い実を いっぱいつけるので、その姿を珊瑚に見立て、 時期と合わせて「冬珊瑚」という名前に なったのだろう。
実の色の遷移がおもしろく花を咲かせたあとで緑色の実になりそれが順々に緑 → 黄 → 橙、に色づく。
いろんな段階の色の実が同居して 緑色の実、黄色の実、橙色の実が ほぼ同時に楽しめる。
実はきれいだが毒があるらしく食用にはならない。
別称ビッグボーイ クリスマスチェリー玉珊瑚
いずれも実の形からの命名のようです。

冬さんご 究極の赤 こぼしけり

9日は皇太子妃のご誕生日だったらしい。、
いやさかの皇族系統にゆれる不安の解消にはない。
第三の皇位継承者は学習院幼稚園でないところにお決まりとの先週ニュースがあった。
テレビは実況にこそ、その意義を認める。
編集なしのブッチキリ本番がいい。
スタジオ・パークから今日は、というサラリーマンに時間的縁のない番組がある。
深読みしすぎで創価の広告塔・柴田理恵が出演。実に越中人は多種多彩人材が多い。
アグネスや久本雅美もどこかに出てるのであろうか。
国難のひとつに国家が憲法違反の創価に乗っ取られるつつあることがある。

10日NHKラジオ深夜便1時すぎから2時
半藤一利作家が100年インタビューで第一回放送があった
11日の第二回放送が楽しみである。
ブログアップする書き溜めはできたがいずれの機会としたい。
昨日と関連で皇太子妃のご誕生をお祝いしたい。
昨日上としたので仮に顛末をつけ皇室に触れたい。

江戸の三大橋との言葉がある。
両国橋、千住大橋とここまではわかるが三つ目は六郷大橋
江戸期の国をつなぐことゆえ日本橋は出てこない。
さてこの橋である。
六郷橋は大田区東六郷と川崎市川崎区本町との境の多摩川に架かる、
国道15号=第一京浜国道の橋である。
大師橋と多摩川大橋の間に位置し、河口から数えて2番目にある。
多摩川に架かる橋としては一番南に位置している。
上流側に、京急本線と東海道本線の鉄道橋が平行して架かっている。

ここが歴史の舞台に関わっている。
この人を語る逸話がある。

中島今朝吾(1881年6月15日 - 1945年10月28日)は陸軍中将は大分宇佐のひと。第4軍司令官、
1903年に陸士15期日露戦争に従軍。
1913年11月に陸軍大学校25期、
1918年7月フランス駐在、1923年5月帰朝。
1937年8月に第16師団長となり、第二次上海事変では河北省に進軍し、上海陥落後には南京攻略戦と武漢作戦に参加。
1938年7月には第4軍司令官を歴任
憲兵司令官在任時、宇垣一成大将が組閣の大命を受け参内途中の車を
多摩川六郷橋で停め、宇垣を脅迫して組閣を妨害した。
第16師団長として南京攻略戦に参加した時の日記を残した。
捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと、捕虜を一ヶ所にまとめて銃殺した記述があり
南京事件における中国兵捕虜の違法処刑が事実であることを証明する重要な証拠の1つとされる。

真珠湾で爺はこう書いた。
自身の理解の誤解を訂正するためも含め陸軍に戦争の責はすべてありが通説の日本人常識であること。
そうではなく開戦をしたのは海軍である。
陸軍だけとなぜそうなったか
海軍上げて之からが戦争であるとして極東裁判に臨んだ海軍総組織と
トップに伏見宮擁護があった故である。
GHQが皇室に戦争責任は及ばないとしたばかりではないということである。
http://36488.diarynote.jp/200912081050161936/

半藤一利と澤地久恵の海軍400時間テープをみての鼎談
戦争のことは素人ですがと断り一刀両断に切り捨てる澤地。
・・テレビをみ終ってしばらく考えました。・・
・・半藤さんに教えてほしいんですけどね。・・
澤地「軍令部10人はまったく戦争をしりませんね。」
半藤「軍令部には日露戦争を経験した人は誰もいません。日露に従軍した人は伏見宮だけですね。」

昨日の日本軍の部隊にある俗人の後にある○×は
蒋介石裁判で唯一谷中将が死刑になった時の生存していた人たちである。
主力の二つの師団長も裁かれていない。
軍司令官中将朝香宮鳩彦王(明治20年)10月20日 - 1981年(昭和56年)4月12日)の上海派遣軍と、
軍司令官中将柳川平助の第10軍との、2個軍で編成されていた。
皇室は放免。
皇室の系統を守ることが未来ある国家に先人が託したのであろう。

國學院大學には神社本庁の神職の資格が取れる神職課程がある。
大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学のみ。
ゆえに初詣でお参りする神社ほどちらかの出のひと。
先日アップの神社区分けしてある国学系と皇学系で解るわけだ。

久邇宮朝彦親王(くにのみや 文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)は
、幕末から明治時代初期の皇族。1910年(明治43年)に明治天皇皇女允子内親王と結婚する。
伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。
歴史好きの方々の通称・中川宮。
素晴しき幕末の行動が帰ってそれぞれの派から煙たがられた。
有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美・岩倉具視ら討幕・尊攘派公卿は、朝彦親王を明治元年(1868年)
、広島藩預かりとした。
明治5年(1872年)正月、伏見宮に復籍。
明治8年(1875年)、新たに久邇宮家を創設。
維新前後の経緯から新政府の中枢には入らず、また東京へ移住することもなかった
公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。
平成天皇の今上天皇以下の皇族は昭和天皇の良子皇后=香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいる
後で詳しく触れたい。
雲の上の人中としたい。
他に触れたいことがあるためである。

谷寿夫は蒋介石裁判の南京軍事法廷で、南京大虐殺を実行したのは、その上海派遣軍朝香宮鳩彦王司令官麾下の、
第16師団長中島今朝吾中将だとした。
当時中島師団長の第16師団が南京城内の掃討を担当していた。
発生したすべての結果は、松井・中島・牛島・末松・柳川の各軍事指導者が共同で責任を負うべきものであるハズ。
「百人斬り」競争として日中戦争当時新聞報道されていた
、中島今朝吾第16師団第9連隊所属の野田毅陸軍少尉と向井敏明陸軍少尉
、および難民や捕虜など非戦闘員300人を斬殺したとして、谷寿夫第6師団の歩兵第45連隊中隊長だった
田中軍吉陸軍大尉が、BC級戦犯として死刑判決、銃殺。
東京裁判での東条英機・板垣征四郎(A級戦犯)や、松井石根(B級戦犯)らの絞首刑
実際には、生存していた牛島貞雄師団長、および下野一霍参謀長らは、南京軍事法廷へ訴追されなかった。
谷寿夫著「機密日露戦史」原書房、2004年に復刊されている
今日でも日露戦争を研究する際最も重要な文献の一つ

第16師団長中島今朝吾中将の上官であり、南京大虐殺の原因をつくった疑いのある朝香宮鳩彦王中将は
、南京軍事法廷でも全く名前が上がらず、不問とされた。

1947年(昭和22年)の皇籍離脱後は自宅の港区芝白金台町の朝香宮邸を外務省に貸し出し現在は東京都庭園美術館になっている
自身は熱海の別荘に隠棲してゴルフ三昧を嗜む日々を送った。
1882年に伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦親王は皇學館を設立する。
数多くのゴルフクラブの会長・名誉会長を務めた
1930年(昭和5年)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した
移転先の膝折村が朝香宮にちなんで1932年(昭和7年)5月1日に朝霞町と改称された。
いまの朝霞市であり、ピッタリそのままでないのは、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えたゆえ。

その生まれ変わりなんであろうか。
18歳の高校生に還暦前の爺はひれ伏して師匠と崇めるお恥ずかしさ。
あのインタビュー応対は神業の如しで非の打ち所がない。
マスメデアがチヤホヤと冷たく見ていたが誤解であった。
石川遼は賞金王となった
宮崎ダンロップの後の最終戦の高知でTBS取材陣のカート事故を現認した。
おそらく日本のゴルフ大海の始めての不祥事であろう。
それからのスコアーの崩れ。
逆に爺は人間的に好きになった。

昭和天皇の皇后に一番近い人は最後の韓国李王朝・李垠(イ・ウン)皇太子に政略で嫁いだ方子(まさこ)妃
久邇宮朝彦親王の第4王子梨本宮が父君母君は鍋島家の伊都子 「三代の天皇と私」を残した。、
皇太子と正田美智子の婚約発表の当日の日記
「朝からよい晴にてあたたかし、もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、
なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考えた」
と記している。

昭和天皇の良子皇后の従姉妹。
15歳の時の「日韓の架け橋」
李垠皇太子は11歳の時(1908年)日本に連れて行かれ、日韓併合されそのまま李王朝は滅んだ。
来年は日韓併合100年である。
、二人の間に生まれた長男は幼くして死亡。
どうにも血を絶やされたフシがある。
二番目の子は「李玖(イ・ク)」と名付けられた日本で独身のまま過ごし2005年死去。。

明治天皇が久邇宮家を気にかけていたことで昭和天皇皇后良子皇后が嫁したフシがある。

平成天皇の今上天皇以下の皇族は、昭和天皇の良子皇后=香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいる
良子皇后の
父は久邇宮邦彦王、母は十二代薩摩藩主公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。
祖父久邇宮朝彦親王、東久邇宮稔彦王は皇后の叔父。
曾祖父母 - 邦家親王(伏見宮) - 鳥居小路信子
曾祖父母 - 島津久光 - 島津千百子
  五女島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。
良子皇后は
明治36年(1903年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一女子として誕生。
大正7年 (1918年)1月14日に皇太子裕仁親王の妃に内定。

大正10年(1921年)母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退をせまっ
たいわゆる"宮中某重大事件"。
事件の内容は極秘扱いされたが、爺のは幼い頃聞いて覚えている。
爺が家に白内障の血統があるのではとの話のときいった。
「ナにいうか天皇様んとこでさえ色盲・・」聞いた三つ子の魂百までである。

世上さまざまな憶測が流れ、なかでも宮中に影響力を
保持しようとする山県の策略とする見解が強かったため良子女王に同情があつまり
、原敬らの反山県勢力が山県追落しにこの事件を利用したこともあった。
大将11年2月10日宮内省
「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」の発表
が行われて事件は決着した(翌日づけで新聞記事解禁)。
最終的な決め手のひとつが、生物学者でもあった裕仁親王の決断であったといわれている。
、宮中某重大事件、さらに関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。
大正13年(1924年)1月26日に結婚。

皇太子と平民出身である美智子との婚約が決定された際には秩父宮妃勢津子及び高松宮妃喜久子、側近の松平信子らと共に強い不快感を示している。
入江相政日記においては、松平信子が宮崎白蓮などと示し合わせて右翼団体を動かし婚姻反対を運動させようとしたと記されている。
、この問題は後々まで尾を引くことになった。
香淳皇后は成婚以後は表だって美智子妃に反感を示すことはなかった
昭和50年(1975年)の訪米に際して空港で挨拶する美智
子妃を無視する映像が残されている。

神徒の天皇家の日々は宗教を尊っとぶ安寧の祈りにある。
これは幼児体験からよく理解できる。
両親とも明治期の人。
大戦をはさんで野球チームができるに一人足らない多くの子を育てた。
ヤクザになる奴ひとりもなく大人になりえたのか。
厳しき日常の単純なる生活の信仰心まではいかない日々の慣習にあったと思う。
山間部に育った爺の幼き頃の食事前の儀式は大変ッ!。
家屋内の仏間床の間大黒様火の神水の神味噌部屋風呂場の水火の神に厳かに炊き立て米を奉げ両脇の花瓶の水を替えて祈った。
ところがそれでは未だ食事にありつけない。
家屋外にも氏神、井戸の水神、厩の馬頭観音三対、肥料小屋の農耕の神
屋敷の四方に鎮座なさる神々に杯にチョッピリの炊きたてのご飯を奉げシャカ木の水を新水とした。
氏神以外はほとんど高い所にあるので背が届かない。
いちいちみかん箱がいる。
板のささげが刺さり乱暴に扱うとコトである。
其れがすんでなく食事にあり付こうものなら大変。
雷どころではない。

皇太子雅子妃の実家の大和田家も早朝が早い宗教の創価である。
その分の苦労はないはずである。
宗教的観衆から来る心の忌避は絶するものがあっての精神的病にあると察している。
ただこれは避けられないものでこの国の古来からの慣わしにある。
時代がどのようにIT化しようと心にある民族の起源国家存立からは避けえられないもの。
まったく貧乏、庶民で官位なきものもついこないだまでは述べてる生活環境にあった。
天皇家がグチャグチャでは伊勢の大社も靖国も何も存立基盤がなくなる。
初詣の慣習がどうなろうともこの国からなくなる事はあるまい。

皇太子妃の精神的ご病気はここに起因していると爺は見ている。
実家が創価の宗教にあることの乖離が心理の安定をそいでいるのに一因があるのだろう。
外務省時に飛び回っていたのにそろっての外遊もできないでいる。
もうひとつお世継ぎの男子出産のプレッシャーもあろう。
歴史は繰り返すにある。
静かに家の歴史を学ばれれば良かろう。
まずは平成天皇の美智子皇后と会話することである。

実は昭和天皇の良子皇后も女腹と揶揄されてたときがある。
後に掲げる成された家族構成を見れば解る。
まだ乳人側女制度があったときである。
なかなか男児を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、
側室制度の復活が本格的に検討された。
心労とプレッシャーに苦しむが、この案は昭和天皇が自ら「良子でよい」と話し、これを拒否した。
昭和8年(1933年)12月23日、継宮明仁親王が誕生。
待望の皇子誕生とあり、日本全体から盛大に祝賀を受ける。
国民栄誉賞の何日もしないうちの平成天皇20年の奉祝とき
森光子が平成天皇生誕の逸話を♪生まれたお生まれになった皇太子様♪歌で披露したニュースがあった
いかに昭和8年の時節を表しているかである。

昭和天皇は卜部日記の侍従長の方より
入江相政侍従長の入江相政日記に爺らの世代は馴染める。
昭和40年代前半から半ばの皇室に重大事件があった。
当時は女性セブン以外は菊の関係記事は時代が許さなかった。
昭和天皇の良子皇后=香淳皇后が絶大な信頼を置いた今城誼子の問題がおきた。
新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙をかっていたことから今城は「入江日記」で「魔女」として登場する。
一面では明治回帰で正しいんではある。
今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた宮中祭祀に口を挟む、
天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなど、入江相政侍従長等の側近たちはこの問題に頭を痛めた。
天皇の同意を取り付けて、昭和46年(1971年)に今城を宮内庁から事実上追放した。
皇后は解任を最後まで惜しんでいる。

昭和46年(1971年)には天皇と共に訪欧。
皇后にとって、これが初めての外国訪問。
1975年訪米時の、昭和天皇、香淳皇后とフォード大統領夫妻と会談が実現できた。
昭和49年(1974年)には金婚式を迎え、記者団の楽しかった思い出という問いに、天皇・皇后ともに先の欧州訪問とあげている。

大正14年(1925年)12月6日
第一皇女・照宮成子内親王が誕生する。
良子妃は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。
子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。

雅子皇太子妃はこれらからすればなにも苦難ナル環境障害にはない。

照宮成子内親王(しげこ、1925年-1961年) - 東久邇宮盛厚王妃 ガン逝去
久宮祐子内親王(   さちこ、1927年-1928年) - 敗血病夭折
孝宮和子内親王(   かずこ、1929年-1989年) - 鷹司平通夫人
順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年-) - 池田隆政夫人
継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、1933年-) - 第125代・今上天皇
義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年- ) - 常陸宮
清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年- ) - 島津久永夫人
○ヒトラー化に設立されたワーゲンが鈴木と協定。世界一になる。
○朝5時15分ごろ通過した希望は雨空でダメでした。

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・よ・ろ・し・く
つづく


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