きょうの誕生日の花は・・・・スイセン
花言葉は・・・・・・・自己愛・崇高
ヒガンバナ科の水仙はギリシャ神話にも出てくる
入水死滅後に水辺に咲いたのがこのはな
極寒の頃に白と黄色の花をつける清清しき花。
あかるさよ うみよりのもの のすいせん
坂之上の雲はこの国の未来を志向する憂国の情あるものはあらゆる視点から見逃せない手ごたえある
ドラマである。
早乙女貢著「志士の肖像」上、下東京新聞出版局、集英社文庫を併せればなお面白い。
論議に上る南京虐殺や戦犯から皇族が除外されてることも含め興味ある。
日本軍騎馬隊の生みの親秋山好古を追うのも面白い。
当時ドイツより指導を受けていた陸軍大学校
ところがこの国は神の国。まさにそれでしか説明できないことが起きるのである。
歴史の偶然が秋山好古をフランスに向かわせる。
この時点でたった一人の出世街道からのおちこぼれを暗示する出来事である。
ところがこのことが大陸侵攻における日本軍を興す事になる。
第二回放映に興味深いところが描かれた
児玉源太郎学長の陸軍大学校はドイツより指導を受けていた
世界の軍事学は普仏戦争で勝利したゆえ最高の戦術はドイツにあった。
日本軍高等指揮官が生まれ行く課程の明治初期、
陸軍大学校でプロイセン・ドイツ軍からの招聘教官メッケルなどから学んだ基本戦略
現場での出来事を教練書から筋だてるのでなく頭においてる常識で即対応すると教える。
テレビ画面で緊迫が走った授業風景があった。
大師団が敵前方に現れたら700メートル
中師団、小師団とその場で敵に対応する。
この教えが開戦の火蓋を切ることになる満州事変にも採用される。
国民党を率いる蒋介石軍を撃破する。
ところがこのときの教えが逆にあの大虐殺を生み出す。
第三回では授業内容は触れないだろうから爺が授業風景を読み解きたい。
もちろん司馬遼太郎原作に当たっても原点にもないことをお断りしておきたい。
ブログではないか。
そう目くじら立てる出ない。
メッケル教授は教える。
・・・早期での敵国戦闘力の殲滅と、これによる戦争終結・・・
この授業でのその伝統を引き継ぎ、松井軍司令官ら高等指揮官の戦略は早期に中国守備軍を殲滅し
、戦争を終結させることで一貫していたと思慮されるゆえの大虐殺と考えられるフシがある。
12月7日、国家元首、中華民国総統蒋介石は南京から脱出した。
9日松井石根軍司令官は、南京城に残った南京防衛司令官唐生智へ降伏を勧告したが応じなかった。
10日松井軍司令官は全軍へ南京城への総攻撃を命令
13日これを占領した。
12日南京防衛司令官唐生智は中国守備軍へ徹底抗戦を叫びつつも、自分自身は南京城から逃亡。
唐の下位の、南京に残った司令官は降伏文書調印が不可能になった。
このため松井軍司令官は降伏文書を調印させるべき相手を失った。
もしも唐生智が首都南京から逃亡せず、降伏文書に調印したならば、
中国軍は整然と投降し、捕虜としての保護を受け、後の南京大虐殺は起きなかったであろう。
現場では国軍の司令官唐生智が逃亡したため烏合の衆となった中国軍敗残兵は街のあちこちに潜伏する
、松井軍司令官は凄惨な殲滅戦を遂行。
、膨大な数の捕虜が生じたのが満州事変にある
昭和20年の敗戦後蒋介石に引き渡されその裁判で唯一裁かれ死刑判決を受けたのは
岡山の農民の出の陸軍中将谷寿夫( ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)
第6師団長のみ。
蒋介石裁判で陳述する谷中将
南京大虐殺は、中島今朝吾 師団長の第16師団が起こしたもの
第6師団の関与を否定した。
但し、谷中将は南京大虐殺があったことそのものは否定しなかった。
南京攻略戦をおこなったは二つの軍隊である。
軍司令官松井石根大将の中支那方面軍は
軍司令官中将朝香宮鳩彦王の上海派遣軍と、
軍司令官中将柳川平助の第10軍との、2個軍で編成されていた。
これに独立野戦重砲兵旅団や、他師団の支隊=歩兵旅団レベルで指揮官は少将などが加えられた。
参戦部隊は次のとおり
中支那方面軍司令官 松井石根大将○
参謀長 塚田攻少将×
参謀副長 武藤章大佐○
上海派遣軍司令官 朝香宮鳩彦王中将○
参謀長 飯沼守少将○
参謀副長 上村利道大佐○
金沢第9師団長 吉住良輔中将○
参謀長 中川広大佐○
京都第16師団長 中島今朝吾中将×(砲兵科)
参謀長 中沢三夫大佐○
(以下略)
第10軍司令官 柳川平助中将×(騎兵科)
参謀長 田辺盛武少将○
熊本第6師団長 谷寿夫中将○
参謀長 下野一霍砲兵大佐○
下野の谷逮捕時の生存は井上久士訳『南京事件資料集 2中国関係資料編』p297~306、で谷が証人として
出頭許可を求めているので確認可能
宇都宮第114師団長 末松茂治中将○
参謀長 磯田三郎砲兵大佐○
久留米第18師団長 牛島貞雄中将○
(以下略)
(砲兵や騎兵など兵科の記載がない者は歩兵科出身)
坂之上の雲の映像化を司馬遼太郎は遺言で拒否している。
その最大の理由は戦争美化に映像化されるのw恐れてのこと。
総理にもなった安倍や中川昭一はNHKに圧力をかけ番組が改編されてることを
承知していたかでもあろう。
ところで月の第一第二の火曜日はNHKラジオ新話の泉放映日で爺の楽しみの日。
8日がその火曜日である。
ユーモア溢れる知の巨人たちのッ出演者メンバーに立川談志師匠がなく火が消えたようである
メンバー一人に嵐山光三郎 がいる。
この人は渋谷の国学院の出。
この神学はこの国には二つがつとに有名で三重伊勢の皇學館と二つの大系が双璧をなす。
設立者は維新の立役者山口萩の人山田 顕義。
初代校長はその意を受けた青山霊園に眠る維新の立役者高崎正風初代國學院院長
薩摩の出であるが旧勢力徳川軍に対して武力制圧に異を唱え西郷隆盛から遠ざけられた。
学もなし御歌所派とも呼ばれる旧派和歌の中心。
昨日真珠湾で触れた海軍の意志たる♪水漬く屍~♪の作詞者。
「紀元節」(作曲:伊沢修二)、「勧学の歌」(作曲:奥好義)、「水漬く屍」などの作詞はこの人の手になる。
その薫陶を受けてか卒業者に爺は好感を持てる人が多い。
折口信夫は歌人であり民俗学者
海音寺潮五郎 爺の最初に触れた西郷隆盛をあらわした歴史作家で鹿児島の人直木賞受賞者
山口瞳 サントリーの代表的書き手の直木賞作家。
角川源義 富山の人で 角川書店 創業者、俳人でもある。
榎本滋民落語論に詳しき 劇作家
さだまさし不思議と不定期放送の今夜はさだまさしを総てみている。今年も年越し番組でもある。
東儀秀樹 雅楽の人気者。
中村勘三郎 =18代目
秋山浩志 NHK野球アナ
あまり爺の生き様に会わない対極にある人
江原啓之 - テレビでご存知スピリチュアルカウンセラー
影山正治 - 大東塾塾長右翼活動家
三宅理一郎 - 宮崎日日新聞社社長
この国は出雲族と隼人族と大和朝廷にあると爺は思っており魏志倭人伝で卑弥呼の国は
最近奈良のあしはかの出土でまた話題になっているが地理的には九州説が無難であろう。
かといって出土品から吉野ヶ里は無理であくまで中華の国に対する前線国家としての威圧的意味での
巨大国家としての吉野ヶ里ではないのだろうか。
卑弥呼の国はみせづとも中華の国の国使はそれだけでも驚いたことであろう。
卑弥呼の国はもっとおおきいだゾウとのけん制にもなったのとの前線基地が吉野ヶ里。
話を戻す。
二つの神学だが歴史的には皇學館の方が伝統と権威がある。
皇族の幕末は一人の皇族にある。
久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)
は伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。歴史好きには通称の中川宮が通りがいい。
何故中川宮なのか。
日米修好通商条約の勅許に反対
将軍徳川家定の後継者問題では一橋慶喜を支持
よって大老井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)安政の大獄で「隠居永蟄居」
もうひとつは動乱期ゆえ両派から注目され嫌われた悲しき存在の人の認識がある。
公武合体派の領袖であった尊融親王は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、
真木和泉らの画策によって薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える
この人が興したのが三重伊勢の皇學館
ゆえのこの国のお正月の定番行事の社は二派に大別されている。
皇大系
熱田神宮
多度大社
椿大神社
愛宕神社
松尾大社
八坂神社
今宮戎神社
住吉大社
伊弉諾神宮
射楯兵主神社
長田神社
多賀大社
国学系
出羽三山神社
志波彦神社・鹽竈神社
香取神宮
鶴岡八幡宮
出雲大社
筥崎宮
鵜戸神宮
石清水八幡宮
賀茂御祖神社
北野天満宮
吉田神社
伏見稲荷大社
この大別があれば初詣の時に神官は渋谷の國學院か
伊勢の皇學館かすぐに判別できるわけである。
山田顕義は伊藤山形内閣と何度となく司法卿になっている。
日本大学(日本法律学校)、國學院大學(國學院)の学祖でもある
日大90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられ山田顕義先生之像がある。
藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになって頭角を現した吉田松陰門下生
高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(のちの井上馨)、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書=御楯組血判書に名を連ねたた
吉田松陰門下から普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ。
禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの参陣。多くが打ち死の中生き延びた。
長州は多くの人材を失い長州征伐を受ける。
8月18日の政変の7公卿都落ちで長州の威信
は落ちる。
維新戦争では大村益次郎の後を受け全般を指揮した。
新政府では板倉使節に参加。
、「兵は凶器なり」と指摘した上申書=理事官功程を提出
、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた。
東京鎮台司令長官に任命されるが罷免される。
明治25年(1892年)1月、枢密顧問官に就任。
同年11月、但馬・生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま立てずに死去。享年49。
葬儀は仏葬で営まれた
墓所は東京都文京区大塚の護国寺=日本大学豊山高校所在地にある。
本人は生前から神葬を希望していたゆえか、皇典講究所の有志によって「皇典講究所葬」として神式の葬送も行われた。葬儀が二度はこの人ゆえのことであろう。
頭蓋骨の情況からはどうも殺害されている。
○民主党政権ももすこしづつ生権力を見せつつある。
押尾事件でマスメデア集中攻撃をカムフラージュしつつある。マンションのカメラとか他の人に渡した携帯情報とか
今頃ニュースに出ている。時間を稼ぎ
そのうち政権を立て直せばいい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091208-00000178-jij-soci
↓ ↓ ↓
http://blog.with2.net/link.php?62076
↑ ↑ ↑
・よ・ろ・し・く
つづく
花言葉は・・・・・・・自己愛・崇高
ヒガンバナ科の水仙はギリシャ神話にも出てくる
入水死滅後に水辺に咲いたのがこのはな
極寒の頃に白と黄色の花をつける清清しき花。
あかるさよ うみよりのもの のすいせん
坂之上の雲はこの国の未来を志向する憂国の情あるものはあらゆる視点から見逃せない手ごたえある
ドラマである。
早乙女貢著「志士の肖像」上、下東京新聞出版局、集英社文庫を併せればなお面白い。
論議に上る南京虐殺や戦犯から皇族が除外されてることも含め興味ある。
日本軍騎馬隊の生みの親秋山好古を追うのも面白い。
当時ドイツより指導を受けていた陸軍大学校
ところがこの国は神の国。まさにそれでしか説明できないことが起きるのである。
歴史の偶然が秋山好古をフランスに向かわせる。
この時点でたった一人の出世街道からのおちこぼれを暗示する出来事である。
ところがこのことが大陸侵攻における日本軍を興す事になる。
第二回放映に興味深いところが描かれた
児玉源太郎学長の陸軍大学校はドイツより指導を受けていた
世界の軍事学は普仏戦争で勝利したゆえ最高の戦術はドイツにあった。
日本軍高等指揮官が生まれ行く課程の明治初期、
陸軍大学校でプロイセン・ドイツ軍からの招聘教官メッケルなどから学んだ基本戦略
現場での出来事を教練書から筋だてるのでなく頭においてる常識で即対応すると教える。
テレビ画面で緊迫が走った授業風景があった。
大師団が敵前方に現れたら700メートル
中師団、小師団とその場で敵に対応する。
この教えが開戦の火蓋を切ることになる満州事変にも採用される。
国民党を率いる蒋介石軍を撃破する。
ところがこのときの教えが逆にあの大虐殺を生み出す。
第三回では授業内容は触れないだろうから爺が授業風景を読み解きたい。
もちろん司馬遼太郎原作に当たっても原点にもないことをお断りしておきたい。
ブログではないか。
そう目くじら立てる出ない。
メッケル教授は教える。
・・・早期での敵国戦闘力の殲滅と、これによる戦争終結・・・
この授業でのその伝統を引き継ぎ、松井軍司令官ら高等指揮官の戦略は早期に中国守備軍を殲滅し
、戦争を終結させることで一貫していたと思慮されるゆえの大虐殺と考えられるフシがある。
12月7日、国家元首、中華民国総統蒋介石は南京から脱出した。
9日松井石根軍司令官は、南京城に残った南京防衛司令官唐生智へ降伏を勧告したが応じなかった。
10日松井軍司令官は全軍へ南京城への総攻撃を命令
13日これを占領した。
12日南京防衛司令官唐生智は中国守備軍へ徹底抗戦を叫びつつも、自分自身は南京城から逃亡。
唐の下位の、南京に残った司令官は降伏文書調印が不可能になった。
このため松井軍司令官は降伏文書を調印させるべき相手を失った。
もしも唐生智が首都南京から逃亡せず、降伏文書に調印したならば、
中国軍は整然と投降し、捕虜としての保護を受け、後の南京大虐殺は起きなかったであろう。
現場では国軍の司令官唐生智が逃亡したため烏合の衆となった中国軍敗残兵は街のあちこちに潜伏する
、松井軍司令官は凄惨な殲滅戦を遂行。
、膨大な数の捕虜が生じたのが満州事変にある
昭和20年の敗戦後蒋介石に引き渡されその裁判で唯一裁かれ死刑判決を受けたのは
岡山の農民の出の陸軍中将谷寿夫( ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)
第6師団長のみ。
蒋介石裁判で陳述する谷中将
南京大虐殺は、中島今朝吾 師団長の第16師団が起こしたもの
第6師団の関与を否定した。
但し、谷中将は南京大虐殺があったことそのものは否定しなかった。
南京攻略戦をおこなったは二つの軍隊である。
軍司令官松井石根大将の中支那方面軍は
軍司令官中将朝香宮鳩彦王の上海派遣軍と、
軍司令官中将柳川平助の第10軍との、2個軍で編成されていた。
これに独立野戦重砲兵旅団や、他師団の支隊=歩兵旅団レベルで指揮官は少将などが加えられた。
参戦部隊は次のとおり
中支那方面軍司令官 松井石根大将○
参謀長 塚田攻少将×
参謀副長 武藤章大佐○
上海派遣軍司令官 朝香宮鳩彦王中将○
参謀長 飯沼守少将○
参謀副長 上村利道大佐○
金沢第9師団長 吉住良輔中将○
参謀長 中川広大佐○
京都第16師団長 中島今朝吾中将×(砲兵科)
参謀長 中沢三夫大佐○
(以下略)
第10軍司令官 柳川平助中将×(騎兵科)
参謀長 田辺盛武少将○
熊本第6師団長 谷寿夫中将○
参謀長 下野一霍砲兵大佐○
下野の谷逮捕時の生存は井上久士訳『南京事件資料集 2中国関係資料編』p297~306、で谷が証人として
出頭許可を求めているので確認可能
宇都宮第114師団長 末松茂治中将○
参謀長 磯田三郎砲兵大佐○
久留米第18師団長 牛島貞雄中将○
(以下略)
(砲兵や騎兵など兵科の記載がない者は歩兵科出身)
坂之上の雲の映像化を司馬遼太郎は遺言で拒否している。
その最大の理由は戦争美化に映像化されるのw恐れてのこと。
総理にもなった安倍や中川昭一はNHKに圧力をかけ番組が改編されてることを
承知していたかでもあろう。
ところで月の第一第二の火曜日はNHKラジオ新話の泉放映日で爺の楽しみの日。
8日がその火曜日である。
ユーモア溢れる知の巨人たちのッ出演者メンバーに立川談志師匠がなく火が消えたようである
メンバー一人に嵐山光三郎 がいる。
この人は渋谷の国学院の出。
この神学はこの国には二つがつとに有名で三重伊勢の皇學館と二つの大系が双璧をなす。
設立者は維新の立役者山口萩の人山田 顕義。
初代校長はその意を受けた青山霊園に眠る維新の立役者高崎正風初代國學院院長
薩摩の出であるが旧勢力徳川軍に対して武力制圧に異を唱え西郷隆盛から遠ざけられた。
学もなし御歌所派とも呼ばれる旧派和歌の中心。
昨日真珠湾で触れた海軍の意志たる♪水漬く屍~♪の作詞者。
「紀元節」(作曲:伊沢修二)、「勧学の歌」(作曲:奥好義)、「水漬く屍」などの作詞はこの人の手になる。
その薫陶を受けてか卒業者に爺は好感を持てる人が多い。
折口信夫は歌人であり民俗学者
海音寺潮五郎 爺の最初に触れた西郷隆盛をあらわした歴史作家で鹿児島の人直木賞受賞者
山口瞳 サントリーの代表的書き手の直木賞作家。
角川源義 富山の人で 角川書店 創業者、俳人でもある。
榎本滋民落語論に詳しき 劇作家
さだまさし不思議と不定期放送の今夜はさだまさしを総てみている。今年も年越し番組でもある。
東儀秀樹 雅楽の人気者。
中村勘三郎 =18代目
秋山浩志 NHK野球アナ
あまり爺の生き様に会わない対極にある人
江原啓之 - テレビでご存知スピリチュアルカウンセラー
影山正治 - 大東塾塾長右翼活動家
三宅理一郎 - 宮崎日日新聞社社長
この国は出雲族と隼人族と大和朝廷にあると爺は思っており魏志倭人伝で卑弥呼の国は
最近奈良のあしはかの出土でまた話題になっているが地理的には九州説が無難であろう。
かといって出土品から吉野ヶ里は無理であくまで中華の国に対する前線国家としての威圧的意味での
巨大国家としての吉野ヶ里ではないのだろうか。
卑弥呼の国はみせづとも中華の国の国使はそれだけでも驚いたことであろう。
卑弥呼の国はもっとおおきいだゾウとのけん制にもなったのとの前線基地が吉野ヶ里。
話を戻す。
二つの神学だが歴史的には皇學館の方が伝統と権威がある。
皇族の幕末は一人の皇族にある。
久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)
は伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。歴史好きには通称の中川宮が通りがいい。
何故中川宮なのか。
日米修好通商条約の勅許に反対
将軍徳川家定の後継者問題では一橋慶喜を支持
よって大老井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)安政の大獄で「隠居永蟄居」
もうひとつは動乱期ゆえ両派から注目され嫌われた悲しき存在の人の認識がある。
公武合体派の領袖であった尊融親王は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、
真木和泉らの画策によって薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える
この人が興したのが三重伊勢の皇學館
ゆえのこの国のお正月の定番行事の社は二派に大別されている。
皇大系
熱田神宮
多度大社
椿大神社
愛宕神社
松尾大社
八坂神社
今宮戎神社
住吉大社
伊弉諾神宮
射楯兵主神社
長田神社
多賀大社
国学系
出羽三山神社
志波彦神社・鹽竈神社
香取神宮
鶴岡八幡宮
出雲大社
筥崎宮
鵜戸神宮
石清水八幡宮
賀茂御祖神社
北野天満宮
吉田神社
伏見稲荷大社
この大別があれば初詣の時に神官は渋谷の國學院か
伊勢の皇學館かすぐに判別できるわけである。
山田顕義は伊藤山形内閣と何度となく司法卿になっている。
日本大学(日本法律学校)、國學院大學(國學院)の学祖でもある
日大90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられ山田顕義先生之像がある。
藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになって頭角を現した吉田松陰門下生
高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(のちの井上馨)、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書=御楯組血判書に名を連ねたた
吉田松陰門下から普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ。
禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの参陣。多くが打ち死の中生き延びた。
長州は多くの人材を失い長州征伐を受ける。
8月18日の政変の7公卿都落ちで長州の威信
は落ちる。
維新戦争では大村益次郎の後を受け全般を指揮した。
新政府では板倉使節に参加。
、「兵は凶器なり」と指摘した上申書=理事官功程を提出
、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた。
東京鎮台司令長官に任命されるが罷免される。
明治25年(1892年)1月、枢密顧問官に就任。
同年11月、但馬・生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま立てずに死去。享年49。
葬儀は仏葬で営まれた
墓所は東京都文京区大塚の護国寺=日本大学豊山高校所在地にある。
本人は生前から神葬を希望していたゆえか、皇典講究所の有志によって「皇典講究所葬」として神式の葬送も行われた。葬儀が二度はこの人ゆえのことであろう。
頭蓋骨の情況からはどうも殺害されている。
○民主党政権ももすこしづつ生権力を見せつつある。
押尾事件でマスメデア集中攻撃をカムフラージュしつつある。マンションのカメラとか他の人に渡した携帯情報とか
今頃ニュースに出ている。時間を稼ぎ
そのうち政権を立て直せばいい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091208-00000178-jij-soci
↓ ↓ ↓
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