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今日の誕生日の花は・・・キキョウ
花言葉は・・・・・・・・変わる愛貴賓

キキョウはその花つぼみの形からバルーンフラワーと別称がある。
青紫の凛とした花色は平安のころから親しまれている。
フックリとののつぼみは五角形
年に一度訪問される富山の入れ薬の唯一の文化の香りの紙のオモチャ
紙風船もあった。
このはなのつぼみを見ると幼少時のこのときを思い出す。
あのときの紙風船みたいな蕾で夢が詰まっている。

ふっくりと ききょうのつぼみ 角五つ

爺の世代は固定観念が抜けずの嫌いがある。
自戒と自責の念反省多謝である。
このブログを日々付狙ってる輩はサヨクと位置づけ攻撃するが憂国の士に過ぎない。
どうしても育った環境思想から脱皮には科学的態度がないと抜けきれないヒトの宿命ゆえだ。
爺の世代は中国はかっての植民地国のアカの国
中国経済は国家の品格も含め三流国認識である。
ところが驚くべきブログを拝見させていただいている。
かの国が技術指導で受け入れた科学者の扱いは国賓級で日本国内での待遇とまったく違う。
こんな国富の国といざ!開戦!
戦争となった場合に勝てるのだろうか。
科学者の視点で国情をさりげなくお伝えいただいた。
日本は米軍配下にあるため防衛庁の仮想敵国に中国ソ連はいまだある。
この国家思想の爺の世代の大方は大いに満足である。
「北」の脅威なんぞより本音の敵国中国である。
その国からこの国は多くを教えいただきこの国の文化として進化させた。
日出る国から日滅るづ国へと高飛車に出た時期もあった
中華の国のくにからすれば建国して60年でも日本に対しては
所詮チベットダライラマ扱いでありウルグイ騒乱のたぐい。
中華思想から根底は抜け出ていない。
中国からの呼び名には「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」のほか、
扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」がある。
ほかにも「蓬莱」「東海姫氏国「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがある。
フジ産経グループはこの国をかっての大東亜共栄圏へと国家を誘うことしきりである。
右思想の論壇誌の諸君が昨年廃刊され驚いたが雑誌正論は爺の参考の購読書である
フジ産経グループの出版元扶桑社カラ出ている。
新しき認定の教科書なぞでトラブルを起こしてるのが扶桑社版元。
扶桑の意味にはこの国家の概念を持たせている。
あのカルト集団のオーム真理教団と同じであり、日本支配を目指すカルトの創価と同根。

自民再生議論に真正保守で再建策が議論されている。
安部普三元総理に見出されたお粗末な電通出身の世耕参議院議員の演出したネガティブキャンペーン。
日本で始めてのこの選挙手法は票は自民にこなかったようである。
ささえたのはフジ産経グループである。

ただこのグループの今日があるのは岡山倉敷紡績=クラレに行き着く。鹿内もクラレに務め大原が救った。
この国の多くが源流は大原孫三郎に始まる。
後で述べる。

ひとつは偲べるのは倉敷大原美術館である。
昭和5年に設立した、日本最初の西洋美術中心の私立美術館のことだ。

キリスト教国が唯一日本を尊敬することで頭があがらないものがある。
世界の国宝級である。
あのモナリザどこではない。
この一枚のみで私立美術館が世界一であるのは論を待たない。
世界が何故日本にあるのかと不思議がる
エル・グレコの「受胎告知」。

ほかに参考で挙げるとセザンヌ「水浴」、モネ「睡蓮」ルソー「牛のいる風景-パリ近郊の眺め,バニュー村」
ロダン「カレーの市民―ジャン=ダール」・・・
画家児島虎次郎の新眼力で現地で買い集めたものである。

日本美術のコレクターでもあった孫三郎は、友人虎次郎の才能と、美術に対する真摯な姿勢を高く評価
、三度にわたる渡欧をうながす。
虎次郎は、そこで制作に励むかたわら、孫三郎の同意のもと、
日本人としての感覚を総動員してヨーロッパの美術作品を選び取るという作業に熱中。
明治の気骨を持つ虎次郎の選択は、東洋の感覚と西洋美術の精華との真剣勝負
エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び
倉敷美術館にもたらす。
同時に進めた中国、エジプト美術の収集にも、東西の狭間で悩みつつ集め現在にある。

宮崎に世界に誇る孤児院がある。
なにも世界のモデルの孤児の父石井十次の力のみではない。
クラレの大原孫三郎の財力でなされえたもの。
今も存在し館長の児島虎次郎DNAの方々
子息の威一郎ご存命の折は道路工事で仕事上でお会いしたものである。
ただビジネスのみに徹したのが今では惜しまれる。
世界のコケ大家服部新佐ともども爺の可笑しな律儀さで貴重な話を伺うを失っている。

ほかには法政に見れる。
何のことか
この国の社会資料の全般である。
経済企画庁にあるべき経済資料群である。
この国の経済学部の曙の東大経済学部は小野塚喜平次高野岩三郎らが初期の教授陣
大原社会問題研究所は官立経済学部勃興期より早く作られた。
岡山のクラレ大原孫三郎が設立した。

大原孫三郎の学生時代は破天荒でくくれない人格破壊者的で財産食いつぶしの放蕩学生。
立ち直らせあの大人物にしたのが世界の孤児の父・石井十次がアッたればこそ。
石井十次は医学生で孫三郎の学友
ともに学び遊んだが常に叱り付け孫三郎を校正させた恩人である。
‌孤児の父石井十次は宮崎秋月藩現高鍋町の人である。
日本に世界に冠たる経済学の興隆はなかったといっても過言でない

東京帝大で法学部からの経済学部独立し初代学部長の長崎ノヒト高野岩三郎。
後継者も育成し大内兵衛、舞出長五郎と輩出した。
横浜商大=一ツ橋も商学部としてその後の大学設立発展につながることになる。

大学教授陣の知の巨人たちは大原社会問題研究所で経済学発展の研究を続けた帝大を辞任した高野岩三郎を迎えた。
大内兵衛、森戸辰男、も所員として尽力した。
孫三郎と幼少時の同郷同年代の山川均、櫛田民蔵ら挙げれば人材のほとんどを網羅する。
堺利彦の初めての新聞や売文社につながっていく
宇野弘蔵なぞは高野岩三郎の娘を妻としている。

業績の日本労働年鑑そなど事業成果は法政に引き継がれている。

鹿内 信隆は北海道の人陸軍主計少尉。
ここで日清紡の専務で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと需給計画を通
じて知り合う事になる。

軍務時代慰安所設置に尽力していたのは自著「いま明かす戦後秘史」似記録を残す。
ニッポン放送にあつた鹿内信隆水野成夫と関わりを持ち
これらが鹿内と財界人脈を結ぶ接点となる。
鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立に参加。
戦時下におけるこうした産軍複合人脈が戦後、日経連の初代専務理事に推される要因にある。クラレにも籍を置いた。

信越化学工業=信毎と資本的には同系列常務だった自民党の幹部になる小坂徳三郎と旧知になる。
この信濃人脈は大阪にあった産経新聞の経営にもあった

これらの鹿内 信隆のこのつながりがなければフジテレビ・産経新聞社の社長にもなれなければ
フジサンケイグループ「ニッポン放送、フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビル」を作って初代議長にもなれなかった

事業は長男の鹿内春雄に引き継いだが1988年、春雄は42歳で亡くなり変遷を経て娘婿鹿内宏明が継いだ。
鹿内春雄の妻が先日なくなったNHKアナの頼近美津子で春雄との間に2児を儲ける
1996年のNHK大河ドラマ『秀吉』に出演しビデオで偲べる。
国鉄から球団を得てステータスにあったのが
時のヤクルトの経営者は旧来からの水野の盟友である南喜一。
以前このブログで触れてるこれら水野成夫南喜一みな東大時代は共産党党員。
電波を争った読売の渡辺恒夫=ナベツネも東大時代の共産党員。

この国真正保守が聞いてあきれる。
映画界を席巻した五社英雄も鹿内信隆シンパ
戦争を経て思想変更で成り上がったものたちのみである。

フジ産経グループはクーデターが発生する
戦後の労働組合結成ブームのGHQ下でもその後も労組を認めず
鹿内信隆方式の「恐怖政治だった。」ゆえである。

何故か事例を挙げるとこうである。
1973年6月に、当時のフジテレビの人気歌謡番組「夜のヒットスタジオ」
総選挙開票で「共産党バンザイ」発言を行った
神のごときパーソナリティ前田武彦が降板
当時学生から支持を集めつつあった大橋巨泉は足元に及ばない存在の前田武彦がである。

現在クーデター成功したのっとりの日枝久がトップにある。
政治の場面場面に渡辺恒夫と日枝久は登場する。
この国のマスメデアの真実の状況の証左である。
女史アナは25歳での結婚退社を強制。
1988年は男女雇用機会均等法まで続いた。

そのお台場の放送局が爺を泣かせっぱなしであった。

成田一樹プロデューサー
編成部の立松嗣章
3年まえに続きこのコンビがよくぞやったものである。
そのときはまだ世界の威信があった。
クリント・イーストウッド監督作品「硫黄島からの手紙」映画が公開される、
フジテレビは硫黄島のもうひとつの
感動ドキュメンタリードラマ「戦場の郵便配達」(土曜後9・0)を放送した。
そのときの根本少尉は、ちなみに安倍晋三内閣の根本匠首相補佐官(経済財政)の父である。

そして・・2009・9・12・・
フジテレビ系スペシャルドラマ「戦場のメロディ~108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌~」9・00~1100
薬師丸ひろ子、が渡辺はま子を演じた。
1951(昭和26)年の第1回NHK紅白歌合戦で紅組のトリを務めた歌手、渡辺はま子その人である。
ただしラジオ番組である。
何故か。
この当時日本にはテレビなぞありません。
食いモンさえありません。
農家育ちでさえ米は満足に食してなく芋入り飯。
平和が一番!です。「
爺は県内老人施設を慰問して回りました
フルバンド12名の総合司会者。歌い手は15人ぐらい。
17年間以上200回を越える活動でした。

「支那の夜」や「蘇州夜曲」などは定番の曲
昔の歌はイントロが長い。
その部分に玉置宏風に紹介して歌に入ります。
歌い手はわずか3分のため遠方は片道3時間もかけてのボランテア慰問。
、テレビはその当時のテープも流れていた
「三分でもフイリッピンで歌いたい。」
爺は泣きっぱなし

名前の通り横浜育ちの「ハマっ子」。
、武蔵野音楽学校=武蔵野音大を出て昭和8年(1933年)にデビュー。
1952(昭和27)年の現地の刑務所で作詞作曲された曲が「ああモンテンルパの夜は更けて」
これをレコーデングした。
国民はモンテンルパ刑務所をはじめて知った。
国家が動かない。
国家予算の四分の一の賠償要求に動けなかったんである。

ここに岡山の人僧侶・加賀尾秀忍が立ち上がる。
さらに現在87歳の植木信吉が助力する。

ビザもでない国交ないフィリッピンの国
27年12・23出国。12・25現地慰問。
じつはこれが感動の嵐。
そっくりビデオテープが残されてたんである。
あの当時のNHK放送はほとんどテープはない。
渡辺はま子がなきながらの挨拶。
「やっとつきました」「本当に……、一生懸命来ました…」
いま爺は泣いている。

フィリピンの首都マニラの南に隣接するモンテンルパ市
死刑囚59名も含まれている

モンテンルパ刑務所の死刑囚を、日本へ返す決断をしたキリノ大統領
、日本兵に自分の目の前で奥様と子供を殺されたという事実の恩讐を彼方に押しやった英断特赦。
選挙が近づいていたのにである。
日本兵に対して、憎しみに近いものを持っていての国民感情・・。
「恨みを恨みで返してはいけない

キリノ大統領に鎌倉彫りの富士山桜を描いたその曲のオルゴールを送る・・コレが大統領を揺り動かした

減刑・釈放を訴え続け、翌年に大統領は死刑囚59人を含む戦犯108人全員の釈放を決断-。

「渡辺さんは信念をもって人を助けること、自分が正しいと思ったことにまっすぐ突き進んでいける強い人」
と薬師丸。
あのおちゃまな「セーラー服と機関銃」の人ではない。
歌手役を演じ劇中で歌うのはドラマでは初めてで、改めて1カ月間レッスンに通って役作り。
そしていままた爺を泣かす感動の絶唱シーン・・・

ところがどうだ!

外務省は11日、在フィリピン・マニラ総領事館のフィリピン人男性職員(31)が
2008年7月から約1年間で97人に対し、短期滞在査証を不正発行したと発表した。
8月26日付で桂誠大使と側嶋秀展総領事ら5人を訓戒などの処分とした。
男性職員は9月3日付で懲戒解雇した。
いまごろ発表するな!汚らわしき麻生太郎政権。
前段が長いのはフジ産経グループでさえこれであることをいいたいがため。

「ザイゲン」がいっぱい出てきた。
朝6時日曜討論後藤キャスターが出っ張りけしかけ武村正義がザイゲンといっている。
馬鹿やろう!
マスメデアはまったく報道しない。
アップを一日ずらしたい。

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