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今日の誕生日の花は・・ タマスダレ
花言葉は・・・・・・・ 純白な愛
ヒガンバナ科細かな葉さきに白い花ゆえの花の名
明治期に外来種で元は庭先のものが野生化したらしい。
白い花がこの頃咲く彼岸花と同じ処に咲いている。
白と赤のコントラストはきれいだが墓地などに多く見られる印象で何となくいやがられる
ゆえに庭の片隅に植えられている
球根で増えるゆえ絶えることはない。
宮崎の砂浜はウミカメの産卵地。
満月なのに多くの星空が見える。
癒しに丁度いい田舎の特権と強がりを言う。
ウミガメは 海へ戻れぬ 天の川
7日宮崎は真夏日が帰ってきた。
アスファルトは湯だって蜃気楼状態。
仕事の成果は上がらないはずである。
まぁ~ブログ話題の政治傾斜も繰り返されて熱すぎる。
どちらサマかの7日ブログに政治問題に飽きたとある。
ご同感である。
深夜3時過ぎ少しは睡眠時間がほしいがテレビはヤンキースとメッツを見ている。
松井はスターティングに名はない。
7日イチローが大リーガー9年で2000本安打を放った。
WBCの活躍がたたり故障者リストからのスタートで195本の安打。
9年連続200本記録もかかっている。
WBC後遺症で松坂が苦しんでるのとは大違いである。
13日日曜日朝8時大沢親分張本は果たして「アッパレ!」何個あげるんであろうか。
総てがイチローの天性とたゆまずの努力のたまものにある。
タダ忘れていけないことがある。
決してイチロー一人でなしたモノでなく日本人への感謝の気持ちである。
当面は球団オーナーである京都任天堂があるゆえ監督も使ってる部分も成功話しの裏にある。
歴史的には日本人の祖先の英霊にである。
日本人と西海岸は積み上げれた先人のご苦労がある。
スタートとなったイチローだが日本人最初のスターは早川雪舟をおいてない。
101本の映画に出演した雪洲だが無声映画時代と戦争での排日で1922年ハリウッドを去りパリへ。
無声映画の「チート」(1915年米)などをビデオ残すのみ。
現在ビデオ等で観ることができる作品はほんの一部である
映画ファンはデビッド・リーン(1908~91)監督の「戦場にかける橋」(1957年英/米)
アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞(ギネス)など計7部門で受賞した。
タイの捕虜収容所長・斎藤大佐に扮している早川雪舟にご記憶があろうか。
撮影された1956年頃といえば太平洋戦争の記憶もまだ生々しく、日本人も残忍で卑劣なイメージを持たれていた頃にも関わらず斎藤大佐は、憎まれ役ではあるものの、武士道精神に満ち、血の通った人物として描かれていること が脚本的にも注目される。
そして、イギリスの騎士道精神を持つニコルソン大佐演じるアレック・ギネス(1914~2000)との男の意地の張り合いもまた見所の一つ。
アメリカ人シアーズ少佐(ウィリアム・ホールデン)のほうがむしろいい加減な人物として描かれている点が面白い
肌色差別のあの頃のアノ英米の国にでである。何故だろう。
雪洲も助演男優賞にノミネートされたが、日本を舞台にした「サヨナラ」(1957年米)のレッド・バトンズ(1919~2006)に惜しくも破れ、受賞は逃している歴史の皮肉。
イチローの活躍を知るためには、アメリカにおける日系移民の歴史を見ていく必要があるだろう。
さらにはハリウッドにおける日本人の活躍にまで及ぶ。
日本人移民がアメリカの統計移民に現れる最初は、1861(文久元)年の1人。、
1860年代には合計186人がアメリカに渡っている。
1868(明治元)年にはイギリスの商船で当時独立国であ ったハワイに153名、
1869(明治2)年には会津若松からサンフランシスコに 移住した家族が「若松コロニー」という開拓村を築いた
1910(明治43)年には7万2000人の、アメリカに在 住する日系人
1920(大正9)年には11万人を突破。
彼らの大半は西海岸のカリフォルニアに居住し、主に農業で成功を収める。
今日でもロサンゼルスのリトル東京は世界最大の日本人街である
そこは映画の都ハリウッドからもほど近い。
1911年に最初の映画スタジオが建設されると映画の都として発展したハリウッドに
多くの日本人が入っていった
アメリカで最初に映画に出演した日本人は、歌舞伎出身の 玉木。
1912年頃にエジソンの短編映画での主役。
同じ頃栗原トーマス(1885~1926)がカレム社で西部劇に出演している。
女優は、青木鶴子(1891~1961)がやはり1912年にマジェスティック社の喜劇映画「お鶴さんの誓い」に出演し日本の異国情緒をコミカルに描き演じた。
1913年撮影所に日本人村を作ったのがプロデューサーのトーマス・H・インス(1882~1924)、
当時増加する日系移民を市場として目をつけ、日本劇を製作するために興した。
その彼の下に鶴子や栗原、サンフランシスコで舞台に立っていたヘンリー小谷(小谷倉市/1892~1972)らが集結する。 、青木鶴子(本名・青木ツル)は、川上音二郎(1864~1911)の姪。
その後音二郎、貞奴(1872~1946)夫妻の養女となった。
1899(明治32)年、8歳であった鶴子は、総勢19名で欧米巡業する川上一座に加わり、アメリカへと渡る。
一座で鶴子は「楠正成」の子別れの場面で正行に扮したり、「道成寺」に母と共演した。
アメリカでは子役の労働条件に厳しい制限がったりで鶴子は、一座と別れサンフランシスコに留まる
鶴子は日本人画家の青木瓢斎(年雄)に預けられ養女となる。
その後養父の瓢斎が亡くなると「ロサンゼルス・エグザミナー」という新聞の白人女性記者に引き取られ、彼女の下からロサンゼルスのイーガン・ドラマチック・スクールに通い本格的に演劇を学びインスに見出されるわけである
引用が長くなったが他からつづける。
後に早川雪洲をインスに紹介したのもこの鶴子である。
早川雪洲は本名を早川金太郎。
裕福な網元の末っ子として現在の千葉県千倉町に生まれた。
海軍大将に憧れ、海軍予備校(現・海城高校)を卒業する。
だが、海軍兵学校への入学直前に、素もぐりで鼓膜を破っって体格検査で海軍兵学校断念。
同じ年の11月、千倉の沖合いでアメリカの汽船ダゴタ丸が座礁。
英語が得意であったので村に上陸したアメリカ人達の通訳。。
このことが契機で1910(明治43)年、雪洲は単身アメリカに渡り、シカゴ大学に入学
シカゴ大学を卒業した1913年に父親が死去。
雪洲は日本に帰国しようとロサンゼルスへ行ったリトル東京でたまたま日本劇場に立ち寄ったことがきっかけで、
常盤操=藤田東洋劇団の演劇の世界に入ることになる。
経験ナイのに最初の芝居では徳富蘆花(1868~1927)の「不如帰」を自ら脚色して主役の川島武男を演じ、天性の才能を発揮。。
「早川雪洲」という芸名を名乗る。
何故か。
崇拝していた南洲翁=西郷隆盛(1827~77)からとって「北洲」。
同名俳優がいるのが解りと北には雪が降っているから「雪洲」
雪舟(1420~1506頃)のことは知らなかったそうである。
この日本人劇団時代にのちの妻となる青木鶴子と出会う。
二人は雪洲が映画界に入った後の1914年に結婚している。
雪洲と鶴子の間に子供はいなかったが、雪洲は女優ルース・ノーブルの間に息子の雪夫(1929~/現・放送作家)を設けたのを始め、計3人の子供を外に作っている。
3人は鶴子の元に引き取られて戦時となり帰国。
中でも雪夫は外国人そっくりの容貌であったため、鶴子は戦時中そのことで苦労する羽目になる。だが当の雪洲は戦時中はパリ
早川雪洲は日本人のハリウッドスターである。
「砲艦サンパブロ」(1966年)のマコこと岩松信(1933~2 006)
「ベスト・キッド」(1984年)師匠役ノリユキ・パット・ モリタ(1932~2005)
活躍したヒトはいるが比ではない。
無声映画第一次大戦太平洋戦争の日本排外時代に飲まれながらも華々しく生き抜いた。当時のアノ人種差別の国で。
雪洲の自伝は1959年に書かれた「武者修行世界を行く」1999年2月に日本図書センター再版にある
日本人が主人公の「颱風(タイフーン)」(ウォーカー・ホワイトサイド作)を上演し、やはり好評をもって迎えられる。これがインスの目に止まって、1914年に映画界入り。101本の映画に出演した
「火の海」で人気を博し翌1915年にパラマウントに移る。
そこでの4作目の「チート」(1915年)が大ヒットし、彼はスターの仲間入りを果たす。
1918年には自らのプロダクション、ハウアス・ピクチャーズ(1920年ハヤカワ・フューチャー・プレイに改称)を設立し、1922年まで22本の映画を製作。
その人気ぶりは1917年当時、週7500ドルを稼いでいたことからも明らかである。
当時、最も稼いでいたチャップリンでさえ週1万ドルであったそうだ。
雪洲は1917年、ハリウッドの一角にお城のような豪邸を買ったが排日で1922年ハリウッドを離れた。
ディズニーのファンタジー映画「続ラブ・バッグ(ハチャメチャワーゲン大騒動)」(1973年米)には、解体建築会社の社長が、地上げに最後まで抵抗する老婆に対し、代償として一流老人ホームの一室を提供してあげようと言う。
そのセリフ中に
「古いルドルフ・ヴァレンチノや早川雪洲の映画を上映するような…」なんて言葉が出てくる、このことからも雪洲がサイレント映画の代表的な俳優であったことがわかる。
1920年代は、全米で排日感情が高まっていた時代。
1913年には外国人土地法が施行され、日本人の土地所有 が禁止される。
1924年には移民制限法によって日本人の移民は全面的に 禁止。
1922年に自身のプロダクションを解散し、ハリウッドを 去りヨーロッパへ。
1932年には自身の監督で「太陽は東より」(松竹)に出演、日本映画デビューを飾る。
1937年以降はフランスのパリに拠点を構え、そこに自らのプロダクションを設立している。
フランスでは1938年に「マカオ」を製作
、この映画にはナチスを嫌ってアメリカに渡ったオーストリア出身のエリッヒ・フォン・シュトロハイムが出演していたことから、占領下のフランスでは公開することができなかった。
後にシュトロハイムの出演部分をピエール・ルノワール(1885~1952*2)で撮り直し、1942年にようやく公開することができている。
雪洲は、1937年に日本・ドイツ合作の国策映画「新しき土」に出演している
、当時フランスにいた多くの日本人がドイツにベッタリであったのとは異なり、彼はナチスとは距離を置いていた。
そのため、1945年にパリが解放された後も、逮捕されていない。
1949年、ハンフリー・ボガート(1899~1957)は自ら主催するサンタナ・ピクチャーズが製作する「東京ジョー」の共演者に雪洲の起用を切望。
、雪洲は16年ぶりにハリウッドにカムバックする。
同時期にハリウッドで活躍したチャップリンやヴァレンチノ、フェアバンクスの作品は、現在その作品の多くをビデ
オで簡単に観ることができる。
雪洲の場合、サイレント期だけで56本もの作品に出演していながら、1915年の「チート」一本きり作品の大半は失われてしまい、もはや永久に観ることができないらしい。「ヨシワラ」(1937年仏)や、戦後の「東京暗黒街・竹の家」(1955年米)、唯一観ることのできる「チート」
この作品で雪洲が演じているのは日本人古美術商のヒシュル鳥居。
株仲買人の夫の窮状を救うためにその妻(ファニー・ワード)は、鳥居に借金を申し込む。
だが、彼女は鳥居に身を任せなかったことから、彼によってその肌に焼きごてを当てられる…。
この映画は、和服に身を包み、焼きごてを取り扱う鳥居の姿で幕を開ける。
彼の部屋は障子張りで、東洋美術が乱雑に置かれている。雪洲はこの鳥居を表情少なく冷たげに演じている。
雪洲の好演ぶりは、アメリカにおける排日の機運を高める要因となってしまったと言われている
1918年の再公開の際には設定がビルマの象牙王と変えられている
ビデオ化された「チート」でも雪洲の役名はビルマ人ハカ・アラカウとなっている。
ヘップバーン59年作品「緑の館」はなぜかヒッチコックの40年作品「レベッカ」と二本立てで見た。
雪舟は現地人の酋長役でキャサリンとの会話が不思議であった。原作が有名で映画化だったんだろう。
アノ多忙な時期浜砂嬢とお嬢那須と豪華な三人組であった。
ハンケチの「R」からの展開。
ただあの頃もそうだったが睡眠時間が日々ないゆえ居眠り半分であったが記憶はしっかりしている。、
雪舟の映画は日本映画「日本敗れず」(1954年新東宝)、「怒れ!力道山」(1956年東映)の5本だけみれる。
「戦場にかける橋」で面白いことに同じ役を、もう一人の国際的日本人スターである三船敏郎(1920~97)が「日本のいちばん長い日」(1967年東宝)で演じている。
それらを見比べてみるのも一興といえよう。
「ラスト・エンペラー」(1987年伊/英/中)で甘粕大尉に扮した坂本龍一(1952~)が、流暢な英語を喋っていたのが、逆にリアリティを欠いていた通りである。
アメリカや日本の映画界では踏み台のことを「セッシュウ」と言うそうである。
これは背の低かった雪洲が、背の高いアメリカ人女優とラブシーンを演じる際に、身長をごまかすために踏み台を使ったことに由来しているそうである。
その一方で、地面に穴を掘って高いほうを低く見せることをも「セッシュウ」と呼ぶことがあるから
人や物の高さを上げることそのものを指して「セッシュウ」と言うのらしい。
自称五尺七寸(約173センチ)
「セッシュウ」はアメリカでは「アラン・ラッド」とも呼ばれているらしい
これも由来は同じ。
「シェーン」(1952年米)で知られるアラン・ラッド(1913~64)が、やはり背が低かった(約167センチ)ことから踏み台を使用していたのだという。
洋の東西を問わず、二枚目俳優に限らず男にとってとって背が低いことはコンプレックスであるようだ
最後に新聞が教え処を比較して披瀝したい。
「東京ジョー」(1949年)は、雪洲が戦後カムバックしてきた東京が舞台の映画である
、なぜか日本では未公開
都内でロケが行なわれ、戦後すぐの丸の内の様子などが見れて興味深いものらしい。
作品の大部分はアメリカで撮影され、ボギー (ハンフリー・ボガート)も雪洲も来日したわけではない。
ボギーは戦前に東京でナイトクラブを経営していたジョーを演じ、雪洲扮するキムラ男爵は、飛行機による運送会社を始めたジョーを利用し、韓国から戦犯を密かに帰国させる陰謀を企てる。
二人の男の間で心揺れるヒロインを、今度はボギーが手に入れる・・・・、なにか「カサブランカ」(1942年米)のセルフ・パロディ的にも感じられる。
雪洲はハリウッドの大スター・ボギーを向こうに、悪役を堂々と演じている。
そもそも雪洲にとって出世作となったのは「チート」での悪役であっただけに、こうした悪役はお手の物なのだろう、
他にも「怒れ!力道山」(1956年)で悪徳政治家を演じている
当時人気絶頂にあったプロレスラー力道山(1924~63)のアイドル映画力道山ファンにとっては楽しめるが、雪洲ファンには不満だろう。
映画「カサブランカ」ではボガードを生き様にしたモンである。
欲も大戦前にあのような映画を作ってるモンである。
バーグマン演ずるイルザの夫役で反ナチ抵抗運動家ラズロにはモデルがいたという。
欧州統合を唱えたリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーその人である。
ちなみに彼の妻は熱烈な恋愛で結ばれた女優のイダ・ローラン
リヒャルトには栄次郎という日本名もある。
オーストリアの駐日大使だった父ハインリッヒと日本人の母光子の間に生まれた次男。
リヒャルトはナチのオーストリア併合の後、欧州各地を転々とし、ポルトガル経由で米国へ亡命した
彼が取り組んだ汎欧州運動は今の欧州連合のさきがけといわれる。
その思想は日本では鳩山一郎元総理によって「友愛」という言葉に集約されて広がった。
この言葉は孫の鳩山由紀夫民主党代表にも政治理念として受け継がれることになる
その鳩山代表が「友愛」思想をもとに米国主導のグローバリズム批判を展開し、東アジア共同体の建設を提唱した論文が海外で複雑な反応を引き起こしているのも時代である。
新聞の国際面では「米国離れ」とも読める論調への米保守派有識者の反発や、欧州のメディアの注目を伝える
祖父の一郎の「友愛」論も、もっぱらそれまでの吉田茂の米国追随やワンマン政治の批判に用いられた。
鳩山代表は「論文は反米的ではない」と反論しているが黙ってればいい。
国民の圧倒的支持を背景に登場した非自民政権の外交デビューは、久々に日本が国際社会の注目を浴びる機会でもある。
鳩山は日本だけでなく今や世界のスターである。
○8日昭和26年講和条約調印。
ソ連など三ヶ国とは調印できずの片面講和。
○8日昭和18年イタリア降伏
逆に連合国軍となりたたかい始める。
○平壌のアントニオ猪木こんなとこからはじまるのかな~
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球根で増えるゆえ絶えることはない。
宮崎の砂浜はウミカメの産卵地。
満月なのに多くの星空が見える。
癒しに丁度いい田舎の特権と強がりを言う。
ウミガメは 海へ戻れぬ 天の川
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アスファルトは湯だって蜃気楼状態。
仕事の成果は上がらないはずである。
まぁ~ブログ話題の政治傾斜も繰り返されて熱すぎる。
どちらサマかの7日ブログに政治問題に飽きたとある。
ご同感である。
深夜3時過ぎ少しは睡眠時間がほしいがテレビはヤンキースとメッツを見ている。
松井はスターティングに名はない。
7日イチローが大リーガー9年で2000本安打を放った。
WBCの活躍がたたり故障者リストからのスタートで195本の安打。
9年連続200本記録もかかっている。
WBC後遺症で松坂が苦しんでるのとは大違いである。
13日日曜日朝8時大沢親分張本は果たして「アッパレ!」何個あげるんであろうか。
総てがイチローの天性とたゆまずの努力のたまものにある。
タダ忘れていけないことがある。
決してイチロー一人でなしたモノでなく日本人への感謝の気持ちである。
当面は球団オーナーである京都任天堂があるゆえ監督も使ってる部分も成功話しの裏にある。
歴史的には日本人の祖先の英霊にである。
日本人と西海岸は積み上げれた先人のご苦労がある。
スタートとなったイチローだが日本人最初のスターは早川雪舟をおいてない。
101本の映画に出演した雪洲だが無声映画時代と戦争での排日で1922年ハリウッドを去りパリへ。
無声映画の「チート」(1915年米)などをビデオ残すのみ。
現在ビデオ等で観ることができる作品はほんの一部である
映画ファンはデビッド・リーン(1908~91)監督の「戦場にかける橋」(1957年英/米)
アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞(ギネス)など計7部門で受賞した。
タイの捕虜収容所長・斎藤大佐に扮している早川雪舟にご記憶があろうか。
撮影された1956年頃といえば太平洋戦争の記憶もまだ生々しく、日本人も残忍で卑劣なイメージを持たれていた頃にも関わらず斎藤大佐は、憎まれ役ではあるものの、武士道精神に満ち、血の通った人物として描かれていること が脚本的にも注目される。
そして、イギリスの騎士道精神を持つニコルソン大佐演じるアレック・ギネス(1914~2000)との男の意地の張り合いもまた見所の一つ。
アメリカ人シアーズ少佐(ウィリアム・ホールデン)のほうがむしろいい加減な人物として描かれている点が面白い
肌色差別のあの頃のアノ英米の国にでである。何故だろう。
雪洲も助演男優賞にノミネートされたが、日本を舞台にした「サヨナラ」(1957年米)のレッド・バトンズ(1919~2006)に惜しくも破れ、受賞は逃している歴史の皮肉。
イチローの活躍を知るためには、アメリカにおける日系移民の歴史を見ていく必要があるだろう。
さらにはハリウッドにおける日本人の活躍にまで及ぶ。
日本人移民がアメリカの統計移民に現れる最初は、1861(文久元)年の1人。、
1860年代には合計186人がアメリカに渡っている。
1868(明治元)年にはイギリスの商船で当時独立国であ ったハワイに153名、
1869(明治2)年には会津若松からサンフランシスコに 移住した家族が「若松コロニー」という開拓村を築いた
1910(明治43)年には7万2000人の、アメリカに在 住する日系人
1920(大正9)年には11万人を突破。
彼らの大半は西海岸のカリフォルニアに居住し、主に農業で成功を収める。
今日でもロサンゼルスのリトル東京は世界最大の日本人街である
そこは映画の都ハリウッドからもほど近い。
1911年に最初の映画スタジオが建設されると映画の都として発展したハリウッドに
多くの日本人が入っていった
アメリカで最初に映画に出演した日本人は、歌舞伎出身の 玉木。
1912年頃にエジソンの短編映画での主役。
同じ頃栗原トーマス(1885~1926)がカレム社で西部劇に出演している。
女優は、青木鶴子(1891~1961)がやはり1912年にマジェスティック社の喜劇映画「お鶴さんの誓い」に出演し日本の異国情緒をコミカルに描き演じた。
1913年撮影所に日本人村を作ったのがプロデューサーのトーマス・H・インス(1882~1924)、
当時増加する日系移民を市場として目をつけ、日本劇を製作するために興した。
その彼の下に鶴子や栗原、サンフランシスコで舞台に立っていたヘンリー小谷(小谷倉市/1892~1972)らが集結する。 、青木鶴子(本名・青木ツル)は、川上音二郎(1864~1911)の姪。
その後音二郎、貞奴(1872~1946)夫妻の養女となった。
1899(明治32)年、8歳であった鶴子は、総勢19名で欧米巡業する川上一座に加わり、アメリカへと渡る。
一座で鶴子は「楠正成」の子別れの場面で正行に扮したり、「道成寺」に母と共演した。
アメリカでは子役の労働条件に厳しい制限がったりで鶴子は、一座と別れサンフランシスコに留まる
鶴子は日本人画家の青木瓢斎(年雄)に預けられ養女となる。
その後養父の瓢斎が亡くなると「ロサンゼルス・エグザミナー」という新聞の白人女性記者に引き取られ、彼女の下からロサンゼルスのイーガン・ドラマチック・スクールに通い本格的に演劇を学びインスに見出されるわけである
引用が長くなったが他からつづける。
後に早川雪洲をインスに紹介したのもこの鶴子である。
早川雪洲は本名を早川金太郎。
裕福な網元の末っ子として現在の千葉県千倉町に生まれた。
海軍大将に憧れ、海軍予備校(現・海城高校)を卒業する。
だが、海軍兵学校への入学直前に、素もぐりで鼓膜を破っって体格検査で海軍兵学校断念。
同じ年の11月、千倉の沖合いでアメリカの汽船ダゴタ丸が座礁。
英語が得意であったので村に上陸したアメリカ人達の通訳。。
このことが契機で1910(明治43)年、雪洲は単身アメリカに渡り、シカゴ大学に入学
シカゴ大学を卒業した1913年に父親が死去。
雪洲は日本に帰国しようとロサンゼルスへ行ったリトル東京でたまたま日本劇場に立ち寄ったことがきっかけで、
常盤操=藤田東洋劇団の演劇の世界に入ることになる。
経験ナイのに最初の芝居では徳富蘆花(1868~1927)の「不如帰」を自ら脚色して主役の川島武男を演じ、天性の才能を発揮。。
「早川雪洲」という芸名を名乗る。
何故か。
崇拝していた南洲翁=西郷隆盛(1827~77)からとって「北洲」。
同名俳優がいるのが解りと北には雪が降っているから「雪洲」
雪舟(1420~1506頃)のことは知らなかったそうである。
この日本人劇団時代にのちの妻となる青木鶴子と出会う。
二人は雪洲が映画界に入った後の1914年に結婚している。
雪洲と鶴子の間に子供はいなかったが、雪洲は女優ルース・ノーブルの間に息子の雪夫(1929~/現・放送作家)を設けたのを始め、計3人の子供を外に作っている。
3人は鶴子の元に引き取られて戦時となり帰国。
中でも雪夫は外国人そっくりの容貌であったため、鶴子は戦時中そのことで苦労する羽目になる。だが当の雪洲は戦時中はパリ
早川雪洲は日本人のハリウッドスターである。
「砲艦サンパブロ」(1966年)のマコこと岩松信(1933~2 006)
「ベスト・キッド」(1984年)師匠役ノリユキ・パット・ モリタ(1932~2005)
活躍したヒトはいるが比ではない。
無声映画第一次大戦太平洋戦争の日本排外時代に飲まれながらも華々しく生き抜いた。当時のアノ人種差別の国で。
雪洲の自伝は1959年に書かれた「武者修行世界を行く」1999年2月に日本図書センター再版にある
日本人が主人公の「颱風(タイフーン)」(ウォーカー・ホワイトサイド作)を上演し、やはり好評をもって迎えられる。これがインスの目に止まって、1914年に映画界入り。101本の映画に出演した
「火の海」で人気を博し翌1915年にパラマウントに移る。
そこでの4作目の「チート」(1915年)が大ヒットし、彼はスターの仲間入りを果たす。
1918年には自らのプロダクション、ハウアス・ピクチャーズ(1920年ハヤカワ・フューチャー・プレイに改称)を設立し、1922年まで22本の映画を製作。
その人気ぶりは1917年当時、週7500ドルを稼いでいたことからも明らかである。
当時、最も稼いでいたチャップリンでさえ週1万ドルであったそうだ。
雪洲は1917年、ハリウッドの一角にお城のような豪邸を買ったが排日で1922年ハリウッドを離れた。
ディズニーのファンタジー映画「続ラブ・バッグ(ハチャメチャワーゲン大騒動)」(1973年米)には、解体建築会社の社長が、地上げに最後まで抵抗する老婆に対し、代償として一流老人ホームの一室を提供してあげようと言う。
そのセリフ中に
「古いルドルフ・ヴァレンチノや早川雪洲の映画を上映するような…」なんて言葉が出てくる、このことからも雪洲がサイレント映画の代表的な俳優であったことがわかる。
1920年代は、全米で排日感情が高まっていた時代。
1913年には外国人土地法が施行され、日本人の土地所有 が禁止される。
1924年には移民制限法によって日本人の移民は全面的に 禁止。
1922年に自身のプロダクションを解散し、ハリウッドを 去りヨーロッパへ。
1932年には自身の監督で「太陽は東より」(松竹)に出演、日本映画デビューを飾る。
1937年以降はフランスのパリに拠点を構え、そこに自らのプロダクションを設立している。
フランスでは1938年に「マカオ」を製作
、この映画にはナチスを嫌ってアメリカに渡ったオーストリア出身のエリッヒ・フォン・シュトロハイムが出演していたことから、占領下のフランスでは公開することができなかった。
後にシュトロハイムの出演部分をピエール・ルノワール(1885~1952*2)で撮り直し、1942年にようやく公開することができている。
雪洲は、1937年に日本・ドイツ合作の国策映画「新しき土」に出演している
、当時フランスにいた多くの日本人がドイツにベッタリであったのとは異なり、彼はナチスとは距離を置いていた。
そのため、1945年にパリが解放された後も、逮捕されていない。
1949年、ハンフリー・ボガート(1899~1957)は自ら主催するサンタナ・ピクチャーズが製作する「東京ジョー」の共演者に雪洲の起用を切望。
、雪洲は16年ぶりにハリウッドにカムバックする。
同時期にハリウッドで活躍したチャップリンやヴァレンチノ、フェアバンクスの作品は、現在その作品の多くをビデ
オで簡単に観ることができる。
雪洲の場合、サイレント期だけで56本もの作品に出演していながら、1915年の「チート」一本きり作品の大半は失われてしまい、もはや永久に観ることができないらしい。「ヨシワラ」(1937年仏)や、戦後の「東京暗黒街・竹の家」(1955年米)、唯一観ることのできる「チート」
この作品で雪洲が演じているのは日本人古美術商のヒシュル鳥居。
株仲買人の夫の窮状を救うためにその妻(ファニー・ワード)は、鳥居に借金を申し込む。
だが、彼女は鳥居に身を任せなかったことから、彼によってその肌に焼きごてを当てられる…。
この映画は、和服に身を包み、焼きごてを取り扱う鳥居の姿で幕を開ける。
彼の部屋は障子張りで、東洋美術が乱雑に置かれている。雪洲はこの鳥居を表情少なく冷たげに演じている。
雪洲の好演ぶりは、アメリカにおける排日の機運を高める要因となってしまったと言われている
1918年の再公開の際には設定がビルマの象牙王と変えられている
ビデオ化された「チート」でも雪洲の役名はビルマ人ハカ・アラカウとなっている。
ヘップバーン59年作品「緑の館」はなぜかヒッチコックの40年作品「レベッカ」と二本立てで見た。
雪舟は現地人の酋長役でキャサリンとの会話が不思議であった。原作が有名で映画化だったんだろう。
アノ多忙な時期浜砂嬢とお嬢那須と豪華な三人組であった。
ハンケチの「R」からの展開。
ただあの頃もそうだったが睡眠時間が日々ないゆえ居眠り半分であったが記憶はしっかりしている。、
雪舟の映画は日本映画「日本敗れず」(1954年新東宝)、「怒れ!力道山」(1956年東映)の5本だけみれる。
「戦場にかける橋」で面白いことに同じ役を、もう一人の国際的日本人スターである三船敏郎(1920~97)が「日本のいちばん長い日」(1967年東宝)で演じている。
それらを見比べてみるのも一興といえよう。
「ラスト・エンペラー」(1987年伊/英/中)で甘粕大尉に扮した坂本龍一(1952~)が、流暢な英語を喋っていたのが、逆にリアリティを欠いていた通りである。
アメリカや日本の映画界では踏み台のことを「セッシュウ」と言うそうである。
これは背の低かった雪洲が、背の高いアメリカ人女優とラブシーンを演じる際に、身長をごまかすために踏み台を使ったことに由来しているそうである。
その一方で、地面に穴を掘って高いほうを低く見せることをも「セッシュウ」と呼ぶことがあるから
人や物の高さを上げることそのものを指して「セッシュウ」と言うのらしい。
自称五尺七寸(約173センチ)
「セッシュウ」はアメリカでは「アラン・ラッド」とも呼ばれているらしい
これも由来は同じ。
「シェーン」(1952年米)で知られるアラン・ラッド(1913~64)が、やはり背が低かった(約167センチ)ことから踏み台を使用していたのだという。
洋の東西を問わず、二枚目俳優に限らず男にとってとって背が低いことはコンプレックスであるようだ
最後に新聞が教え処を比較して披瀝したい。
「東京ジョー」(1949年)は、雪洲が戦後カムバックしてきた東京が舞台の映画である
、なぜか日本では未公開
都内でロケが行なわれ、戦後すぐの丸の内の様子などが見れて興味深いものらしい。
作品の大部分はアメリカで撮影され、ボギー (ハンフリー・ボガート)も雪洲も来日したわけではない。
ボギーは戦前に東京でナイトクラブを経営していたジョーを演じ、雪洲扮するキムラ男爵は、飛行機による運送会社を始めたジョーを利用し、韓国から戦犯を密かに帰国させる陰謀を企てる。
二人の男の間で心揺れるヒロインを、今度はボギーが手に入れる・・・・、なにか「カサブランカ」(1942年米)のセルフ・パロディ的にも感じられる。
雪洲はハリウッドの大スター・ボギーを向こうに、悪役を堂々と演じている。
そもそも雪洲にとって出世作となったのは「チート」での悪役であっただけに、こうした悪役はお手の物なのだろう、
他にも「怒れ!力道山」(1956年)で悪徳政治家を演じている
当時人気絶頂にあったプロレスラー力道山(1924~63)のアイドル映画力道山ファンにとっては楽しめるが、雪洲ファンには不満だろう。
映画「カサブランカ」ではボガードを生き様にしたモンである。
欲も大戦前にあのような映画を作ってるモンである。
バーグマン演ずるイルザの夫役で反ナチ抵抗運動家ラズロにはモデルがいたという。
欧州統合を唱えたリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーその人である。
ちなみに彼の妻は熱烈な恋愛で結ばれた女優のイダ・ローラン
リヒャルトには栄次郎という日本名もある。
オーストリアの駐日大使だった父ハインリッヒと日本人の母光子の間に生まれた次男。
リヒャルトはナチのオーストリア併合の後、欧州各地を転々とし、ポルトガル経由で米国へ亡命した
彼が取り組んだ汎欧州運動は今の欧州連合のさきがけといわれる。
その思想は日本では鳩山一郎元総理によって「友愛」という言葉に集約されて広がった。
この言葉は孫の鳩山由紀夫民主党代表にも政治理念として受け継がれることになる
その鳩山代表が「友愛」思想をもとに米国主導のグローバリズム批判を展開し、東アジア共同体の建設を提唱した論文が海外で複雑な反応を引き起こしているのも時代である。
新聞の国際面では「米国離れ」とも読める論調への米保守派有識者の反発や、欧州のメディアの注目を伝える
祖父の一郎の「友愛」論も、もっぱらそれまでの吉田茂の米国追随やワンマン政治の批判に用いられた。
鳩山代表は「論文は反米的ではない」と反論しているが黙ってればいい。
国民の圧倒的支持を背景に登場した非自民政権の外交デビューは、久々に日本が国際社会の注目を浴びる機会でもある。
鳩山は日本だけでなく今や世界のスターである。
○8日昭和26年講和条約調印。
ソ連など三ヶ国とは調印できずの片面講和。
○8日昭和18年イタリア降伏
逆に連合国軍となりたたかい始める。
○平壌のアントニオ猪木こんなとこからはじまるのかな~
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運転が危ない!少し寝よッ(笑い)
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