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飲み過ぎ語りすぎてゆえ
いつもより少し割り引いて
お許し下さい。

いろんな政治体制があった歴史あるこの国に於いて
政治とは
民のかまどに煙が上っているのか。
コレに尽きると爺は思う。
この国の政治の要諦である
友愛共生を掲げる政党が政権を執る。

今民主主義国家の政治家で言うなら
痛みがわかる政治家。
一番求められてるモノ。
それはどう培われるか。
野党と与党とでは政治家の意味がまるで違う。
政治家が国家の実務に精通してないからである。
野党経験者の政治家に期待できるのは
なにも過半数の240議席どころか308議席の
議席を得たからではない。
国家が一部の一握りを除きあらゆる場で瀕死に晒されている。
そこに政治の力がいる。

実務力集団の霞ヶ関の<お役人様>の全国に張りめぐらしたネットワークは強固である。
その霞ヶ関を頂点とした明治以来培われた
世界一厳しき次官到達出世レースの組織は政権が変わろうと揺るぎない。
国家の奥の院まで知り尽くしたこの集団をコントロールするは
荒馬を乗りこなす程度の技では無理である。

かってこの国は戦後一貫自民党が第一党を占めてきた。
細川10ヶ月政権時も戦後混乱期の社会党片山内閣時もそうである。

自民党に三分の一勢力の社会党と分け合う形での政治運営
自民119VS民主308
いわゆる55政治体制である。
8・30選挙で逆転をした09政治体制となった。

民主党の選挙の大勝利は選挙制度にあるが
このブログで訴えてきた。
  投票率を下げろ!
この不正義なる自公政権の組織性集票構造の脆弱点を衝かれたことにある。
戦後最大の投票率!
本当の民主党の勝利はそこにある。

初当選議員は最初から与党にある。
この国に於いてコレは危険心配である。

おなじ初当選でも官僚やそれに近い組織にアッた人は即戦力。
この区分けで政治家としての仕分けが当面必要である。
政務次官などもってのほか。
まずは雑巾がけでないと役人の手の内となって将来さえ潰すことになろう。
政権党の政治家は蜜の味、それを新人議員が味わってこの国の将来はない。

ただ長い間仕事が存分に出来ない野党にあった民主政治家が多いのはいい。
政治家の幅仕事へのより一層の熱意に火をつけたことであろう。
あらゆる分野の国家形態の破戒の立て直しは急務である。

このブログはこれまでと政治的立ち位置を変えることを宣言する。

国家構造からして一般国民とくに弱者にとって正しい政策を行う政党ノミを影ながら応援する。
民主党が政権につくがゆえに当然批判の対象とされる政党となる。
ところがそれが思いやられる。
<落選>し大喜びした爺は未熟であった。

死んだはずだよお富さん!
さらには落語の一席を伺ってる調子である。
どうしても過去の政治制度が頭の隅にあるゆえだ。
負けたはずの候補者が喜んでテレビ画面にある。

ええっ!なに?・・一瞬疑った。
この国をぶちこわしたゆえ
明確に鉄槌を喰わしたのにナン・・ナンナンダ!

比例で落選者が復活当選する異様なる選挙事務所。
武部勤、中川秀直小池百合子小泉政権の残滓。
最大派閥の長・町村の敗北が事務所から喜びの声がする不可思議さ。
ゾンビ議員がそれも小泉純一郎の片棒を担いだ議員が比例で復活してるから
このブログの立ち位置の早急なる変化はない。

このブログで紹介してた小選挙区8っつ全敗の創価学会党は比例で20の議席を得ている。
この憲法に抵触する存在の党はこれでは解体できない。
青木愛が田中康夫が創価敵将狩りの悲願を果たして喜んでもヌカ喜び。
ハトがマメ喰って症状。
この不快なる選挙制度 まあ~それは
いずれこの国の問題としてアップしたい。

 なぜ
民主党へ圧勝がもたらされたかまた、もたらすもの。
  民主党政権の安定。
これはあのネガティブキャンペーンさえした
赤尾敏さえ蘇らせさす、えげつなき古き手法の自民党の化けの皮が剥がれたゆえでもある。

このブログで雑誌から紹介したヒトラー選挙戦略をお読み頂いた方々は驚きもなかったろう。
よこくも下敷き通りに実行したモノである。
http://36488.diarynote.jp/200908240512065994/
自民公明に政局の混乱の口実を与えてはいけない
落選したはずの小泉残党がゾンビの如く武部勤、中川秀直小池百合子と生き返った。
本来落選者のこれらに、これ以上政局の混乱を長引かせてはいけない。

民主党は308の巨大なるパワーを持って圧勝した。
民意の懇願は天をも動かした。

民主党のマニフェストが実現されるなら間違いなく日本は変わる。
そしてマニフェストが実現できなければ民主党は政権を降りる

いまだ爺は<公約>で「マニフェスト」がわからない。
立ち会い演説会の復活同様、公約でイインではないかと思っているぐらい。

 「公約」とは守られないものの代名詞のように思われ、選挙ではジバンカンバンカバン地縁、血縁、お金が威力を発揮する、
いわゆるお任せ政治であったが、国民に具体的な政策の実施を約束し、後にその実績が評価されるという新しい仕組みができよう
それをマニフェスト選挙の基本としている。
 少子化、教育、農業などいずれも重要な政策課題である

マニフェストは霞ヶ関のお役人のお得意の横文字書きで
近頃流行りだした言葉と誰もがお思いであろう。
実はソウでないんである。

マニフェストは明治32年の内田魯庵著「くれの廿八(にじゅうはち)日」にある。
大正時代の息吹を予感する作品。このころ世界的には未発達の科学の経済学をも収めてる日本の知的水準を知る経済学の浸透ぶりをうかがい知れる、作者の博識ぶり。
日清戦争は4年前の明治28年

この明治32年は 「ニューヨークタイムズ」紙の社説において、「自動車(automobile)」という単語が初めて使用される
ドイツの自動車メーカー・オペルが操業開始。

この年に生まれた人。
フリードリヒ・ハイエク-
笹川良一、(~1995年) 落選した総務会長笹川の父
宮沢俊義、法学者、- 田河水泡、漫画家
池田勇人内閣総理大臣(~ 1965年)
尾崎一雄小説家(+~1983年)
ハンフリー・ボガート、
山手樹一郎~小説家(+~1978年)
宮本百合子、 川口松太郎、小説家(~ 1985年)
-赤尾敏、政治家(~ 1990-
川端康成、壺井栄アーネスト・ヘミングウェイ
アルフレッド・ヒッチコック、イギリスの映画監督

勝海舟がなくなった。

この頃活躍した人々。
三遊亭 円朝(初代) 1839年〜1900年(天保10年〜明治33年) 60才 ・
あった!これがいい。ウエキペヂア!
・ 小泉 八雲 1850年〜1904年(嘉永3年〜明治37年)
・ 内村 鑑三 1861年〜1930年(文久元年〜昭和5年) 38才
・ 二葉亭 四迷 1864年〜1909年(元治元年〜明治42年) 35才
・ 津田 梅子 1864年〜1929年(元治元年〜昭和4年) 35才
・ 夏目 漱石 1867年〜1916年(慶応3年〜大正5年) 32才
・ 幸田 露伴 1867年〜1947年(慶応3年〜昭和22年) 32才
・ 山田 美妙 1868年〜1910年(明治元年〜明治43年) 31才
・ 川上 貞奴 1871年〜1946年(明治4年〜昭和21年) 28才
・ 福田 徳三 1874年〜1930年(明治7年〜昭和5年) 25才
・ 上田 敏 1874年〜1916年(明治7年〜大正5年) 25才
・ 長谷川 如是閑 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) 24才
・ 荒木 貞夫 1877年〜1966年(明治10年〜昭和41年) 22才
・ 寺田 寅彦 1878年〜1935年(明治11年〜昭和10年) 21才
・ 大河内 正敏 1878年〜1952年(明治11年〜昭和27年) 21才
・ 吉田 茂 1878年〜1967年(明治11年〜昭和42年) 21才
・ 有島 武郎 1878年〜1923年(明治11年〜大正12年) 21才
・ 鏑木 清方 1878年〜1972年(明治11年〜昭和47年) 21才
・ 永井 荷風 1879年〜1959年(明治12年〜昭和34年) 20才
・ 大正天皇 1879年〜1926年(明治12年〜昭和元年) 20才
・ 市川 左団次二世 1880年〜1940年(明治13年〜昭和15年) 19才
・ 石井 柏亭 1882年〜1958年(明治15年〜昭和33年) 17才
・ 福原 信三 1883年〜1948年(明治16年〜昭和23年) 16才
・ 高村 光太郎 1883年〜1956年(明治16年〜昭和31年) 16才
・ 鳩山 一郎 1883年〜1959年(明治16年〜昭和34年) 16才
・ 石橋 湛山 1884年〜1973年(明治17年〜昭和48年) 15才
・ 東条 英機 1884年〜1948年(明治17年〜昭和23年) 15才
・ 安田 靫彦 1884年〜1978年(明治17年〜昭和53年) 15才
・ 三浦 環 1884年〜1946年(明治17年〜昭和21年) 15才
・ 武者小路 実篤 1885年〜1976年(明治18年〜昭和51年) 14才
・ 平塚 らいてう 1886年〜1971年(明治19年〜昭和46年) 13才
・ 山田 耕筰 1886年〜1965年(明治19年〜昭和40年) 13才
・ 谷崎 潤一郎 1886年〜1965年(明治19年〜昭和40年) 13才
・ 松旭斎 天勝 1886年〜1944年(明治19年〜昭和19年) 13才
・ 柳 宗悦 1889年〜1961年(明治22年〜昭和36年) 10才
・ 古今亭 志ん生 1890年〜1973年(明治23年〜昭和48年) 9才
・ 山川 菊栄 1890年〜1980年(明治23年〜昭和55年) 9才
・ 近衛 文麿 1891年〜1945年(明治24年〜昭和20年) 8才
・ 岸田 劉生 1891年〜1929年(明治24年〜昭和4年) 8才
・ 河合 栄治郎 1891年〜1944年(明治24年〜昭和19年) 8才
・ 芥川 龍之介 1892年〜1927年(明治25年〜昭和2年) 7才
・ 西条 八十 1892年〜1970年(明治25年〜昭和45年) 7才
・ 早川 徳次 1893年〜1980年(明治26年〜昭和55年) 6才
・ 加藤 シヅエ 1897年〜2001年(明治30年〜平成13年) 2才
・ 淺沼 稲次郎 1898年〜1960年(明治31年〜昭和35年) 1才
・ 土方 与志 1898年〜1959年(明治31年〜昭和34年) 1才
・ 溝口 健二 1898年〜1956年(明治31年〜昭和31年) 1才
・ 近衛 秀麿 1898年〜1973年(明治31年〜昭和48年) 1才
・ 吉野 源三郎 1899年〜1981年(明治32年〜昭和56年) 0才
・ 田河 水泡 1899年〜1989年(明治32年〜平成元年) 0才

内田魯庵著「くれの廿八(にじゅうはち)日」
   ・・・・
 猟官だの、買収だの、政綱だの、マニフェストだの外資輸入での増税だの軍備緊粛だのと騒(さわぎ)立てるが、
トドの結局は弗箱一杯の金子を貯め色の全白い奴を四五人も飼殺したいばかりの国利民福論で
自分等が酒が飲みたさに祭礼騒をする町内の若者と何辺に相違がある。
策士と金看板打つた大政治家が何をした? 
高価で政党を売付けて機密費を暖たまる駆引きが精一杯で真向に殖産興業を振翳して
国益の急先鋒と称する大実業家が何をした?
不相応な配当に株の相場を狂わし手拭紙にもならぬ株券を売飛ばす魂胆が満身の智恵袋だ。」
(現代文学全集53筑摩書房昭和三十二年一○二ページ)


新聞で編集紙が教えてくれる。
<政綱だの、マニフェストだの外資輸入での増税だの軍備緊粛だのと騒(さわぎ)立てるが>、
爺どこの新聞記事雑誌から盗作引用かと聞かれる方へのお答えがいる。
何か最近の政治を喝破した文章にも見えるが、これは明治31年(1898年)の小説
「くれの廿八(にじゅうはち)日」著者内田魯庵、筑摩書房刊に出てくる一節だ

100年以上も前に、マニフェストという言葉が用いられていたことに驚く
直前に〈政綱〉とあるから、政治的な宣言の意味だろうと推測できるものの、異説もあると編集紙は教えてくれる。

日本国語大辞典では、魯庵の用例を「船長が税関に提出する積荷(つみに)目録」のことだと解釈する。
直後に〈外資輸入〉と続くからか。
手元の略の年表をブラジル移住史、米内光正の著書の最後で見るとペルーに向け移住船がでている。
新天地に向け活発なるこの国である。

実はマニフェストという外来語は二つありる
オーンゴ~~~ルをオウンゴールと強奪されたどこではない。

荷物の目録などは・・・・・manifest。
政権公約などを意味するのがmanifesto。

一昔前まで新聞で使うのは専ら前者、
それも産業廃棄物の記事によく出てきたとある。
古手の行政記者にとってマニフェストと言えば、産廃処分時の記録書類のことだ
今は政権公約を意味する方が一般に定着している。
だが両者は紙一重
見込みのない公約集なら
将来の政策廃棄物一覧とも言える。
朦朧意識思考の混濁
飲みすぎしゃべりすぎのツケがきた。
人生に乾杯!
初めて思いとおりの政治結果。
マニフェストを高く掲げん。

仁徳天皇の四年、難波高津宮から遠くを望む
 「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊  くものがないのではないか。都がこうだから、地方は  なおひどいことであろう」
「向こう三年、税を免ず」と詔。
それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍ばれたという。

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