今日の誕生日の花は・・・・ミソハギ
花言葉は・・・・・・・・・切ないほどの愛。

ミソハギ科別称ボンバナ、ショウリョウバナ精霊花などの名もある。
湿地や田の畔などに水性に好んで植生し背丈の高いピンクの花は
かって花束を集め禊ぎに使ったと言われている。
それが花の名の由来。禊ぎの時に使うハギ似にた花=ミソハギである。
禊萩は下痢止めなどの民間薬とされ、また国・地方によっては食用にされる。
この時期ゆえ有り難きお盆の花
この月はこの民族にとつて特別なる鎮魂の月
よって明治憲法以来解散総選挙は8月にはなかったが
クリスチャン麻生総理は民族の禁を破った。
もう一つの与党も法難のハズなのに池田教には意に介しないようである。
異端者同士、自公政権は民族の培ってきた鎮魂の月さえ騒々しくする。
まぁ~この腐った政権自公党がすること仕方ない。
   投票率を下げる
タダその一点にのみ組み立てられてるからである。
お人好しの民主党は手込めにされよう。
政権の怖さを知ってる小沢なくしてはコレは乗り切れない。

灯籠に しばらく残る 匂いかな。

梅雨のなかったハズの北陸北海道に降り続く雨。
お盆入りの13日も列島はドコモお日様マークなのにこの地域のみ雨。
台風八号が形を変えこの地域を覆っている。
コレは第一次産業には大変である。
農業産物は太陽がくれた。授かり物、天候異変に耐え得ないであろう。

台風8号は発生元もコレまでの常識にないところで発生した異常さ。
コレでは宮崎に台風が上陸しないハズである。
ココンとこ数年も台風が来ていない有り難さ。
台風の中心が年3回は通過してたのにそれがない

政治の世界も攻守ところを変えて
どちらが与党でどちらが野党だか解らぬ党首討論
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_election2__20090812_14/story/12mainichiF0813m077/
ただ報道されてないことがある

バトルの終了後、歩み寄った鳩山党首に麻生総理が目を合わせようとせず立ち去る一幕もあった。 (時事通信)
http://news.www.infoseek.co.jp/rakutensports/politics/story/090813jijiX269/
写真~党首討論を終え、退場する麻生首相に一礼する民主党の鳩山代表
http://sankei.jp.msn.com/photos/politics/election/090812/elc0908122142029-p3.htm
政権与党の麻生総理の国家の惨状の状況が他人ごとの発言が
「ザイゲン!」「財源」で象徴される事目立つ。
どうもコレは自民党にある体質みたいである。
NO2の幹事長も他人事。
財政悪化は小泉内閣に原因 消費増税先送りで細田幹事長
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090812/stt0908122053003-n1.htm

高校野球夏の大会。
長崎日大VS花巻東を見た12日。
本当に籤引き抽選で対戦相手が決まったんであろうか
お盆ゆえ因縁を感じる。
実にいい試合であった。
世渡りヘタの爺の思考方法さえ変化を与えたほどである。
頑固で世渡りベタの爺に大きな変化を与えた観戦態度。
何故か。
郷土愛の九州は一つに背き、花巻を応援した。
偏屈モノにはあり得ないこと。
花巻のエースが立ち上がりホームランで負けてた判官贔屓からではない。

花巻左腕好投手菊池は小藩支配の幕末日向の殿様の一人菊池武光貴族院と
氏が同じで親近感を覚える。
あの天皇機関説で高名な美濃部達吉博士を貴族院での美濃部弾劾演説で議員バッジを奪ったのが菊池武光貴族院議員である。
花巻の県はあの次期に敬愛する政治姿勢の米内光政総理の出身地
それに時代が酷似の時・ご苦労の小沢一郎に楽しみを与えてあげたい。
小沢と言えば米内海軍の連合艦隊最後の司令長官は小沢治三郎。
宮崎小藩の秋月藩士の出自。
お孫さんはお弁当屋さんが実家の家業であったヒトは政治家高鍋町長さんとしてご奮闘中。
こちらも氏がマタ同じ小沢である。

このように不思議なモノで神は悪戯をする
長崎清峰VS花巻東は春の球児の記憶に残る決勝戦。
惜しくも準優勝に甘んじた花巻東
長崎日大は決勝戦で長崎青峰を破り長崎代表の座を射止めた。
よって春の決勝戦が初回に実現の好カード。
長崎VS岩手の構図は変わらない。
花巻が雪辱を果た。

ところで宰相の器とはなにか。
人事である。
日本を決めた太平洋戦争も旧弊の慣例の先輩重視の人事の弊害が指摘される

開戦早々に序列を飛び越えてニミッツを対日戦のトップに据えた米海軍の柔軟性とは比べるべくもなく彼はハルゼーの1年後輩であった事は有名である

ほんの先に中将にあった南雲忠一中将と新任小沢治三郎中将の関係である。
南雲忠一中将は水雷畑が長いこともあり航空戦に関しては無知とされている
航空機畑の小沢治三郎が空軍機動部隊指揮官に成るとの予測を覆した旧弊の人事の序列。
南雲忠一中将が真珠湾攻撃の空軍機動部隊指揮官となった。
あと一撃!
真珠湾攻撃において、第三次攻撃を実施しとけば米軍は壊滅的であったが
歴史の不思議、
南雲忠一中将指揮する真珠湾攻撃の空軍機動部隊はトドメを刺さず引き返すのである。

南雲は対米開戦には反対の立場。
艦隊派=軍縮条約反対派の論客としても知られ、山本五十六や井上成美と対立した。
また開戦やむなしにしても、機動部隊によるハワイ作戦は投機的すぎるとして、南方作戦優先を主張していた。

日米戦は二つの海戦ですでに決していた。
あのとき降伏しとけばけば後の惨状はなかった。
ミッドウェーでベテラン操縦航空兵3000人を失った。
そしてマリアナ沖開戦で完全に失った。
二つの海戦で空軍部隊をほとんどなくし制空権を総て奪われていたのである。

山本五十六大将・南雲忠一中将のミッドウェー作戦 1942年6月5日~7日
 小沢治三郎 ・栗田健男  のマリアナ沖海戦1944年6月19日~6月20日

コレも不思議で山形県米沢市と宮崎県高鍋町は姉妹都市
南雲忠一は山形県米沢市先祖はかっての上杉家の士禄にあった。
小沢治三郎の先祖の仕えた秋月家
その秋月家次男の養子入り先が上杉家。
第9代藩主上杉治憲=鷹山は高鍋のヒトである。

秀吉に重要視され上杉家は120万石を領有するが、関ヶ原で家康に敵対し、米沢藩30万石に減封。
NHK大河ドラマで丁度放映中である。
さらに15万石、家格は国主とさたが家臣を減らさなかったため、財政難に陥り、領地を返上することまで検討された
、第9代藩主上杉治憲=鷹山による改革によって藩政を建て直し、幕末まで存続した。
ケネディー大統領が来日したとき好きな尊敬する日本人を問われ。
「上杉鷹山」
と答え居合わせた日本人記者人は誰も知らない。
米国まで名をはせていた上杉鷹山は宮崎の秋月家の出自。
政治改革の最初の実行者。

明治維新後、米沢藩上杉家は華族に列し、伯爵を授けられた。
また秋月家も同じである。
宇宙工学者で宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授の上杉邦憲米沢藩上杉家の16代目当主にあたる
謙信から数えて17代目。
他にも奇縁がある
麻生総理のお話に出てくる大磯の昨年火災になった旧吉田邸宅。
幼き頃吉田茂総理大臣の膝の上で遊んだ写真も残っている。
周知の如く麻生太郎と寬仁親王妃信子は吉田茂曾孫にあたる

吉田茂は1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。
総理に就任、組閣を行う。
鳩山一郎の孫が民主党主鳩山由紀夫。

吉田茂は人の名を覚えるのが苦手。
その組閣名簿を側近中のの側近の吉田の右腕小沢佐重喜の名が読めない。
昭和天皇に注意を受けた
自党の議員の名前を間違えたりする事もしばしばあった。
麻生太郎の漢字間違い読みはどうもDNAなのかも知れない。

小沢佐重喜は日米安全保障条約改定において、衆議院安全保障条約等特別委員長を務め、
安保改定実現に大きな役割を果たした吉田の右腕。
民主党代表代行・選挙担当、小沢一郎の父親である

吉田茂は太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事ヨハンセングループ。、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。
しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見
憲兵隊に拘束され40日後に仮釈放、後に不起訴。
。この戦時中の受難が、逆に戦後は幸いしGHQの信用を得ることになる。
世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。

吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女。 長男吉田健一(作家)
牧野伸顕の二女利武子は宮崎高鍋の秋月種英(秋月種樹次男)に嫁ぐ
秋月種樹は秋月藩=高鍋の最後の殿様、
明治天皇の今の職で言う侍従長で筆が立ち明治の三蹟。
牧野の孫: 秋月英子は医師会会長武見太郎に嫁ぐ
総理大臣の頃吉田茂は高鍋町を親戚の関係で訪問している写真が残っている。

牧野伸顕は1861年11月24日(文久元年10月22日)
薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬小路に
薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の二男として生れた(幼名は伸熊)。
生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
妻: 峰子(宮崎県知事を務めた三島通庸の二女)

何故此処までお話があざなわれる縄の如く続くのか。
歴史の定説を覆すブログを見たゆえである。

鎌倉にはお上りさんを利用して寸暇を割いて三度ほど行っている。
主に墓地巡り。
岩波茂雄、高見順・・
今の環境にないゆえ前勉強不足で鎌倉の情報のみで
最後の提督小沢治三郎の墓所を訪ねたが無理であった。

ネットをみていたらとんでもないブログを見た。
古くとも書いたモノは残る。
爺のブログなんぞは8年前からズッ~っと日々ほとんどある。
随分と酷いモノもあるんだろう。
誤字脱字ヘンカ~~ンミスが特に目立つ。
仕方ない。自由なる日記
12日夜のことだ。
・・・・・
 艦と運命を共にしなかったため小沢中将のお墓は鎌倉霊園にあります
 ここは樹液地帯とのうわさもあります
・・・・
他人様の書くモノどんな主張はあってイイが歴史の歪曲は如何なモノか。
このブログの如くのその日の事の速報の宿命のブログでもない。
随分との練られて書かれたものだろう。

金魚ショップおばこは横浜の港北ニュータウンにある金魚やさん
横浜開港150年沸く田園都市線江田駅から徒歩20分
江田駅から301系統「仲町台行」乗車 「荏田高校前」下車 徒歩5分
金魚やさんである。いずれ縁あればお訪ねしたい。
2007/10/03(水) 記述の おばこの金魚日記
http://diary1.fc2.com/cgi-sys/ed.cgi/obakokingyo/?Y=2007&M=10&D=3
真珠湾の決定攻撃第三攻撃をしなくて引き上げた定説の南雲中将が持ち上げられ、
名提督の定説の小沢治三郎が南雲との比較で史実を覆している。
全文に思考の違いがあるが、とりわけ軍人の身の処し方の最後はいけない。。
・・・・戦後1966年80歳まで生き延びるのです
    艦と運命を共にするのが真の男です・・・

三島流の美学に流れるのは哲学がない。
ヒトは何故存するのか。
生命の受け渡しその一点のみである。

初代伊東司令長官も日向のヒト。
最初と最後を日向人が務めた。
大将の座も断って第一線を辞し教育に行った最後の提督小沢治三郎
後輩の行く末に尽くした。
のちの東京裁判での結果の海軍と陸軍の差である。
敗戦後に海軍はこれからが戦争であると東京裁判に臨んだ。
生き残りの人々小沢治三郎の先代の司令長官豊田のちの軍令部所属などもである。12日NHKでも放映sていた。
・・・・・
南雲中将は真珠湾奇襲において低速の給油艦を含む大艦隊を落伍なくハワイまで秘密裏に進出させるという奇跡的な艦隊運営を見せています
それに引き換え小沢中将はマリアナ沖海戦時開戦直後アメリカの潜水艦の雷撃で最新鋭空母大鳳と開戦時よりの殊勲艦
翔鶴の正規空母2隻を失う失態です
・・・・・
そリャァ^ソウである。
得意分野の水雷科出身、小沢より南雲中将は能力はある。
要は真珠湾攻撃の決定的第三の攻撃をしなかった南雲中将の戦争の勝ち負けを決する問題に比すればとてもではない。

二つの対戦は敗北を決定的にした。
山本五十六大将・南雲忠一中将のミッドウェー作戦 1942年6月5日~7日
 小沢治三郎 ・栗田健男  のマリアナ沖海戦1944年6月19日~6月20日

マリアナ沖海戦は作戦名があった。
その「あ号作戦」の元になる「新Z号作戦」計画書を米軍が入手し、その暗号を解読していた。
米軍は把握した日本海軍の兵力、航空機や艦船の数、補給能力等の重要情報をもとに約1ヶ月で作戦を立案した
そこでの二つの事が決定打となった。
アメリカ潜水艦の跳梁
当たらなくとも目標物が近くにいれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した、飛行機などに当たらなくとも近づくだけで爆発。日本機零戦などは墜落撃墜された。

マリアナ沖海戦にも真珠湾と似た第三派目の決定打の攻撃をしなかったと同じ不可思議があった。

おとりの小沢艦隊の作戦目的であった輸送船団攻撃を果たさず帰投した栗田健男部隊の怪である。。
この行動は後に「謎の反転」といわれる。
栗田健男の祖父は国では藤田東湖を師とした、
日本史に一足早い登場のため悲劇の藩。陽明学は行動の学問
藤田家は父子で全国にその名を轟かした。
江戸の大震災で藤田東湖は死した。
大久保利通の友兄西郷隆盛の私淑した幕末初期の開明思想のヒトである。

南雲忠一中将のミッドウェー作戦などの指揮は水雷畑が長く
素人の航空隊攻撃に弱いひとがその人ポストについたことに不幸悲劇がある。

真珠湾攻撃において、第三次攻撃を実施すべきであるという
第二航空戦隊司令官山口多聞少将
第三戦隊司令官の三川軍一中将
の進言を退け第三次攻撃を実施しなかった。

インド洋作戦において、山口司令の「敵機来襲の恐れあり」の進言に対し
「総員飛行甲板に集合!空中戦見学の位置につけ」の命令を出した。
直後のミッドウェーの大敗北を招く事になる慢心が既に現れている。

また、旗艦「赤城」が艦載機の兵装転換中に英軍機の奇襲を受けるという危険な場面があったが、この戦訓がミッドウェー海戦に生かされることはなかった。

ミッドウェー海戦において、兵装転換命令をたびたび行った。
また、敵機動部隊発見の報に接した時も、陸上施設攻撃用の装備のままで直ちに敵空母戦力を攻撃すべきだという山口多聞の進言を退けた。気持ちの弛緩
これが敗北の主因である。

南太平洋海戦において、旗艦である空母「翔鶴」が被弾・損傷すると翔鶴艦長有馬正文の進言を退け戦場を離脱した。
後の指揮を委譲された第二航空戦隊角田覚治司令官の積極勇猛な攻撃命令、攻撃圏外からの発進命令は有名であり、また彼は帰還した攻撃隊に再攻撃を命じてもいると比較すれば、
艦隊保全を優先し過ぎた指揮は退嬰的である。
しかしこれらに対しての反論もあり、従来の南雲評は一方的に過ぎるとの見方もある。
このブログの方がソウである。

連合艦隊参謀長であった宇垣纏の日記『戦藻録』によると、連合艦隊参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部
に催促するべき」と進言したが、山本五十六連合艦隊司令長官が「南雲はやらんだろう」と答え、再度の攻撃命令を発しなかったといわれている。

『戦藻録』の記述が事実であれば、第三次攻撃を実施しなかった理由は、山本五十六の消極的な態度の大きな原因ともいえる(第三次攻撃の強い催促が連合艦隊司令部からあったのであれば、たとえ南雲といえども実施していた可能性が高い。
記録ミッドウェー海戦、澤地久枝著によれば、「雷爆転装はなかった。もともと二次攻撃用に爆装していた。陸上基地
破壊に固執しすぎ、敵艦隊発見の報告に機敏な反応ができなかった。雷爆転装の話は、司令部の責任を南雲に押し付け
るために捏造された可能性が高い」とされる。

元々は水雷科出身であったが「手練の一撃を加えれば残心することなく退くべし」という一撃思想を強く持っていた
こともあり、航空に疎いと自覚していた南雲提督がその意見を尊重したとも考えられる。更に、事前に永野修身軍令部
総長から「空母は一隻も損傷させずに持ち帰ってくれ」と指示されていた。この様な軍令部と連合艦隊司令部からの二重の命令が当時の南雲の判断に少なからず影響を与えた可能性もある。

NHKラジオ深夜便13日朝4時から5時「巡洋艦“矢矧(やはぎ)”の青春」第一回建築家…池田 武邦
を視聴してた。 
六本木高層ビルでの薬物が報じられてるが 
霞ヶ関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビル日本の高層ビルの草分けのヒト 
その人は海軍兵学校72期で小沢治三郎 ・栗田健男のマリアナ沖海戦1944年6月19日~6月20日
撃沈された 巡洋艦“矢矧(やはぎ)”のヒトであった。
お盆にはナニが起きるか解らない。

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