今日の誕生日の花は・・・・ネリネ
花言葉は・・・・・・幸せな思い出

花名はギリシャ神話に由来する
出回ってるのは改良された園芸種。
別称のダイアモンドリリー花弁が奥深く光るが光で生じること故写真では望めないので自分でみるしかない。
タネから育てると5年ぐらいかかるので園芸店で求めるがいい。花の色花の形、花びらの形と多種多様。
原産地がサバンナゆえ寒さに弱いので宮崎以外では冬季は室内で育てる必要がある。
もがりふえ 風の又三郎 ヤ~イ


この国は国の政治をはじめ年越しモードにいってるようだ。
年越し行事の国民的行事の紅白歌合戦の司会者は女性が決まらず発表が遅れてきた。
24日(月)『第59回NHK紅白歌合戦』司会に中居正広&仲間由紀恵が正式決定。

06年以来2度目のコンビとなる2人は、現在公開中の映画『私は貝になりたい』でも夫婦役で共演している。
中居は「この“夫婦”で、夫婦ゲンカじゃないですが、頑張っていきたい」と絡ませて意気込みを語った。

3年連続5回目の司会となる中居と、2年ぶり3回目の司会の仲間。06年の“なか・なかコンビ”復活。
総合司会は、松本和也アナウンサーと小野文惠アナウンサーに決定。松本アナウンサーの総合司会は2回目、小野アナウン
サーは55回で紅組司会を担当。総合司会は初挑戦となる。

 なお、今年の紅白では、視聴者が「紅組」「白組」の勝敗を審査できる「視聴者審査員」を設けた。
携帯電話を用いて視聴者が審査に参加できるようになった。
ちなみに、これまでの紅白対戦成績は、昨年の白組勝利で紅28勝、白30勝。

このテレビ番組の魅力は実況にある。
昨今ビデオが当たり前の状況下何が起こるか解らぬ実況の楽しさがテレビの持つ力を引き出してる。

現存するテレビ界のNHKと民間の垣根はかなり厳しく高い。
先般お台場からのNHK放送のさだまさしの番組のことをこのブログで触れたが、24日民間同士の垣根の問題が生じるハプニングが起きた。

新宿東口の左に、アルタのビルはある。
ここでタモリの長寿番組フジテレビ系バラエティー『笑っていいとも!』は実況収録放送される。
中身は見るに堪えないが実況故のハプニングが楽しみ。

11月24日のそのメインの人気コーナー「テレフォンショッキング」にSMAP・中居正広が登場。
主演映画『私は貝になりたい』が22日封切りで公開中ということで、16年ぶりに同コーナーにゲスト出演。
映画の中身での丁々発止でゲスト出演者として、司会のタモリとの新鮮な絡みで番組を盛り上げた。
「この花どうするんですか。」
「みなさん持って帰ってますよ」
トーク終了後のお友達紹介になると、中居は同じSMAPの草なぎ剛、香取慎吾と続けざま連絡を入れるが、断られてしまう。

困った中居は、自身が司会を務める『中居正広の金曜日のスマたちへ』(TBS系)で共演しているTBSの人気アナウンサー・安住紳一郎に電話を入れた。
突然の他局への出演オファーに安住は「え!? いや、まずいですよ」と拒むも、
中居は「俺、芸能界に友達少ないんだよ」と説得。
安住も「上司と相談しなければいけませんが、“仮”でいいとも!」と渋々承諾。
局の垣根を越えた前代未聞の『いいとも!』出演で、果たして安住はどのようにタモリと絡むのか注目したい。
オリコンの第三回の人気アナ調査がある。
どの点からも安住はダントツ人気である。
 
<総合>

1,安住紳一郎・・TBS
2,羽島真一・・・日本テレビ
3,渡辺和博・・・フジ
4,軽部真一・・・フジ
5,大塚範一・・・フリー
6,小倉智昭・・・フリー
7,草野仁・・・・フリー
8,安東弘樹・・・TBS
9,福澤朗・・・・フリー
0,藤利壽・・・・フジ

<男性>
安住紳一郎
羽島真一
三宅正治
軽部真一
草野仁

<女性>
安住紳一郎
羽島真一
渡辺和博
大塚範一
小倉智昭

<中高生>
安住紳一郎・・TBS
羽島真一・・・日本テレビ
渡辺和博・・・フジ
大塚範一・・・フリー

<専門性大学生>
安住紳一郎・・TBS
羽島真一・・・日本テレビ
渡辺和博・・・フジ
草野仁・・・・フリー
安東弘樹・・・TBS

<20代>
安住紳一郎・・TBS
羽島真一・・・日本テレビ
三宅正治・・・
渡辺和博・・・フジ
大塚範一・・・フリー
川端健嗣・・・TBS

<30代>
安住紳一郎・・TBS
羽島真一・・・日本テレビ
渡辺和博・・・フジ
大塚範一・・・フリー
川端健嗣・・・TBS

<40代>
安住紳一郎・・TBS
羽島真一・・・日本テレビ
渡辺和博・・・フジ
小倉智昭・・・フリー
安東弘樹・・・TBS

ブログから引用すると次の如く。
『私は貝になりたい』はTBSの1958年放送された芸術祭参加ドラマでドラマのTBSの伝統を作り得た金字塔。
『私は貝になりたい』は元陸軍中尉・加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」の遺言部分をもとに、橋本忍の脚本で制作されたテレビドラマおよび映画である。

脚本を手がけた橋本 忍(1918年4月18日- )は、兵庫県・神崎郡市川町鶴居の人。

脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。
監督山本薩夫を社会派というが脚本家に形容詞はつけないようである。

昭和を体現する生き様がある。
1938年に応召したものの、結核に罹り、療養生活。
そこでシナリオに興味を持ち伊丹万作のもとに作品を送り、指導を受ける
伊丹死後、未亡人が伊丹の手元にあった橋本脚本を佐伯に渡し、黒澤明がそれを譲り受ける。
1949年の芥川龍之介の短編小説『藪の中』の脚色作品に黒澤明が注目。

黒澤の助言により芥川の同じ短編小説『羅生門』も加えて脚本が完成。
この脚本を基に、翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビュー。
同作品はヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受け日本映画が世界に羽ばたいた。

『生きる』、『七人の侍』句を沢作品を手がけた脚本家橋本 忍は60年の『悪い奴ほどよく眠る』で黒沢組から卒業した。10年後に『どですかでん』で一度だけ復帰しているのみ。
その後代表作に挙げられる『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『上意討ち』、『白い巨塔』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』・・・数え切れない作品を問うた。
論理的で確固とした構成力が高い評価を得る。

『私は貝になりたい』はテレビ放映後の翌1959年自身が監督し映画化。監督デビューも果たす。
1958年版三洋電機の一社提供による単発ドラマ番組『サンヨーテレビ劇場』の企画として制作。
1958年(昭和33年)10月31日放送。
通常は22:00から30分間の放送枠だったが、このドラマでは22:00 - 23:45に延長された。
本愛彦演出、橋本忍脚本、フランキー堺主演。第13回芸術祭大賞を受賞した。

岡本と橋本の2人は、翌1959年に同枠で放送された『いろはにほへと』でも同賞を受賞しており、2年連続で芸術祭大賞を受賞することとなった。

このドラマは、逮捕される場面までの前半30分がVTR、裁判から最後までの後半が生放送で放送された(当時のVTRが非常に高価だったため)。
ただし、当時はVTRの編集装置がなかったため、VTR部分もいわゆる一発撮りである。
映像の編集ができなかったという点では、VTR部分も事実上、生放送と同じであった。

ちなみに東京では、ラジオ東京テレビ(現・TBS)のほかには、NHK総合テレビと日本テレビが開局したのみであった。
CMは、ドラマの本編中には一切挟まずに、本編前後で放映され、本編中には6回の提供クレジットが表示されただけであった。

あらすじ
昭和19年、第二次世界大戦中。高知県幡多郡清水で理髪店を営んでいた清水豊松(しみず とよまつ)は、気は弱いが平凡な人柄の人物であった。戦争が激化する中、豊松にも赤紙が届き、出征することになる。

内地の日高中隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカ軍の戦闘機の搭乗員が大北山山中に降下。軍司令官の矢野中将の「搭乗員を確保、適当(2008年版の映画では「適切」)な処分をせよ!」との命令が、尾上大隊を経て大北山の最寄にいた日高中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。そこで豊松は小隊長に、銃剣でその米兵を刺すよう命じられ、半ば強制的に突進した…!

終戦後。豊松は理髪店に戻って、いつも通りに仕事をこなしていた。そんなある日、戦犯として特殊警察に逮捕され、東京まで連行される。極東国際軍事裁判条例に基づいて行われたC級裁判の横浜法廷で、捕虜を殺害した捕虜虐待の罪で被告席に立った豊松は「日本の軍隊では、二等兵は牛や馬と同じで、上官の命令に逆らえば命はないんだ」と主張する。実際には、気の小ささから刃が頬を掠っただけで、その時点ですでに捕虜の米兵は息を引き取っていたのだった。しかし「拒否しなかったことは殺す意思があったという証拠だ」というアメリカ流の論理に跳ね返され、絞首刑判決が言い渡される。

巣鴨プリズンに身を移された豊松は、同様の判決により戦犯とされた人々と過ごし、日々処刑が行われる現実を目のあたりにする。しかし無罪を主張する豊松は同房の囚人たちとともにハリー・S・トルーマン米大統領にあてて減刑の嘆願書を書き続ける。その後、矢野中将が処刑されて以降1年以上巣鴨プリズンでは誰も処刑された者はなく、やがてアメリカと結ばれる講和条約により、皆が釈放されるものと信じていた。

春を迎えたある朝、チェンジブロック(房の移動)が言い渡され、減刑されるものと喜ぶ豊松であったが、連れて行かれた先で告げられたのは死刑執行の宣告だった…。

そして豊松は妻と子供に宛てて遺書を書き始める。

「せめて生まれ代わることが出来るのなら……
いゝえ、お父さんは生れ代わっても、もう人間になんかなりたくありません。
人間なんて厭だ。牛か馬の方がいゝ。
……いや牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。
どうしても生まれ代わらなければならないのなら……いっそ深い海の底の貝にでも……
そうだ、貝がいゝ
貝だったら、深い海の底の岩にへばりついているから、何の心配もありません。
兵隊にとられることもない。戦争もない。
房江や、健一のことを心配することもない。
どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい……」

書き終えた後、絞首台に上がり、刑が執行される。

タイムリーな映画公開である。
小泉竹中政治で経済破綻をしつつあるグローバル経済で生活権を縮小され一触即発の誤れば戦時一色に成りかねない国民生活状況。
田母神空幕長の歴史懐古主義がまかり通り、憲法は九条をはじめ改憲の世論がほとんどで平和が一番!は異端者扱い。
平和に慣れすぎてるボケたる日本人がほとんどである。

戦争をしてない日本こそが先進国でも唯一の存在で他先進国はどこかで戦争をしている。
必ず大義名分をつけるがそれらは後付け。
覇権国を任じてきた米国は経済事態が軍事品を生産しないと成り立たない産軍複合状態になっている。

さらに今年は、あちこちで警察権力の横暴ぶりが暴かれた。
起訴されれば90数パーセントが有罪の状況下でおきた。
富山県の3年服役後の再審無罪の柳原事件、
鹿児島志布志の現職県議逮捕と関係者13名の冤罪事件。

権力の横暴を暴こうとすると大阪の公安部長三井の逮捕、銀行不正の代議士の弘道会による刺殺、
りそな銀行のインサイダー取引不正の戦後史最大規模の金融犯罪の小泉竹中政治を暴いてた植草教授。
権力は正体が暴かれる動きがすすみその急先鋒植草一秀教授をハレンチ罪での逮捕。、

今度の厚生省トップ二人の刺殺は長妻議員が国会招致で聞こうとしようと矢先にグッドタイミングでおきている。
国民年金制度を作った二人の官僚。
そのときは不思議と二度とも小泉厚生大臣。
犯人が書き込んでるメールはTBSのみ。
よって事件はTBSカメラが独占放送である。
ただ繰り返される材料のみの過剰放送で飽きている。
肝心なる父に送った手紙は公開されない。
なにが警察への信頼か。
それをいうなら公表せよ!

TBSでは不思議と久々に小泉秘書・飯島勲が夜に出演してて翌日朝もと念の入れようの出演。

『私は貝になりたい』はTBSの1958年で最初に放送されたタイムリーな時期。

橋本忍は1973年、これまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦するため、「橋本プロダクション」を設立。
松竹の野村芳太郎、東宝の森谷司郎、TBSの大山勝美などが参加し、映画界に新風を吹き込んだ。

1974年、「橋本プロダクション」の第1作として、山田洋次との共同脚本で『砂の器』を製作。
原作者の松本清張に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、興行的にも大成功をおさめ、その年の映画賞を総なめにした。

続いて1976年に、森谷司郎監督、高倉健主演で『八甲田山』を発表し、当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒットとなった。以後、1980年代まで、脚本執筆、映画制作と精力的に活動した。

しかし1982年、脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『幻の湖』がわずか1週間で興行打ち切りと言う憂き目にあう。
その後、二本の脚本を書いた後、体調不良もあり事実上引退した状態であった。

体調回復に伴い、2006年に黒澤明との関係を語った自著『複眼の映像 私と黒澤明』を発表。
そして、2008年に中居正広主演でリメイクされることになった劇場版『私は貝になりたい』で、自らの脚本をリライトすることになった。

あの感動から50年――。テレビ史上に燦然と輝く不朽の名作が、主演に中居正広・仲間由紀恵を迎え、銀幕によみがえる。
日本映画界の至宝・橋本忍が初めて自らの脚本に手を入れた、貴重なシナリオ集。
08年11月22日、全国東宝系にて公開人気を博している。

参考図書
複眼の映像-私と黒澤明- 文藝春秋 2006
私は貝になりたい 朝日文庫出版 2008 」

会社意向とかプロデュサーとの関係で発言制限の枠くが自ずとあろうがアナウンサー次第では筑紫哲也みたいに真実に迫れる部分もある。
人気アナが私は貝になりたいでは幸せな思い出もなく、それではいたたまれない。

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