総選挙が間近。
けんちゃん先生にもご心配をかけてるようですので宮崎の特殊事情をご説明致しまして、ご了承クダサイ。
問題発言で国交大臣を5日間で辞任、そしてその後も激しい
日教組批判を続けて、ついには次期衆院選に出馬しないことを表明していた中山成彬。
、16日になって、自民党の宮崎県連会長に
「やっぱり出る意思を固めた」
と携帯電話で伝えて来たのだという。
「東国原知事が出馬しないと言うから、自分が出らんといかん」と引退を撤回。
その場で自民党選挙対策委員会の古賀誠委員長らに電話し「党本部にも了解をもらった。東京で古賀さんと同席して立候補の記者会見をする」
と党公認で出馬する意向を語ったという。
その際、所属している町村派の森喜朗元首相の了承も得たと付け加えたという。
一体、何故、今頃になって、やっぱり急に出馬すると言い出したのかというと・・・。
宮崎県連の立候補者の公募に応募した14人の中に、長年の確執がある上杉光弘(66)がはいっていた。
地元の宮崎1区から東国原県知事を擁立することを考えていた中山。
「自民党が勝つため」に仕組んだ「自作自演のシナリオ」と表現。
「とにかく知事が出て、全国の(自民党)候補者のもとに行ってほしい」と要望し、小泉劇場ならぬ「東国原劇場になることを願っている」と語った。
また、知事に向かって
「どうしても(衆院選に)出てもらわないと困る」
と呼びかける一幕があった。と・朝日新聞8日がつたえる。
事前に、知事は自民党サイドから、国政選挙に出る意思があるかどうか打診を受けており、本人はそれなりに関心を示していたとのこと。
それをきいて「これは行けるかも!」と。
ならば、自分は出馬をやめてでも、東国原知事を立てようと思ったのだろう。
そして、劣勢にある自民党を何とか勝たせるために、民主党に政権をとらせないために、人気のある東国原知事を立候補させようと。・・・
で、全国の候補者の応援で回らせれば、小泉旋風ならぬ東旋風が起こすことができるかも知れないと。・・・・
「はんたいのさんせい」「さんせいのはんたい」とは、漫画「天才バカボン」のバカボンのパパの口癖。
「賛成の反対」は「反対」だろう。
だが「反対の賛成」は…???。
このナンセンスギャグの世界で、そんなことを考えるのはそれこそナンセンスというもの。
単純にその意味不明さを楽しめばいい。
だが、これはどうだろう。「不出馬の取りやめの断念」。「二重否定」という表現法はあるが、こういうのは三重否定というのか。
振り回されたのは党県連。
中山の不出馬を受けて、初の候補者公募を実施。
だが、候補者決定の2日前になって突然、出馬を表明。
そして一夜明けると、再びそれを撤回。
「どれだけ混乱させれば気が済むのか」という関係者の心境だろう。
県民も、これ以上引っかき回されるのは「はんたいのさんせい」ではなく「反対の反対の反対なのだ」と言いたいだろう。
実は・・田舎の宮崎の歴史的事情があるんですって。
九州の核都市は福岡
どこの県もその核都市と高速道路で繋がっている。
宮崎は全国一の陸の孤島。
九州の中で実質的に唯一高速道路で繋がっていない。
鹿児島経由での九州縦貫道路でネットワークでは繋がってる。
ただ、地元の人は宮崎西部の交通の要所小林市までは一般道路の方が早く小林に着くので経済的にも勘案して高速道路を走らない。
地勢的には大分経由が福岡には早い。
大分経由の東九州高速道路の建設が遅速してるからだ。
群馬に於ける上州戦争で中曽根康弘VS福田赳夫は世間が知ったる公然たる事実。
先年手打ちがなされたと話題になった。
宮崎はその手打ちが今だすんでいない。
宮崎も保守陣営は真っ二つで怨念が横たわる。
発端はこうである。
血の血判の中川一郎の青嵐会に江藤隆美は属してた。
宮崎知事21年の黒木 博(1907年2月10日 - 2001年12月24日)は宮崎西都の人。
田中VS二見の知事選の選挙参謀として敗北して、母校宇都宮高等農林学校の先輩にあたる渡辺美智雄の秘書をしてた時期がある。
その後宮崎県知事として1979年に6選をはたしたがその前回は副知事二人との激戦を制したほどで長期による弊害も言われていた。
任期6期では景観・環境にいち早く目をつけ全国初の沿道修景美化条例で東洋のナポリを演出。
宮崎交通の岩切章太郎とともに宮崎を一大観光地に育て全国から新婚客を呼び込んだ。た。
港湾建設業・境大和は知事黒木 博の「3000万うけとりました。」の領収書を贈賄側の当事者なのに告発した不可解な事件。
時の人中山成彬の捨て身戦法の先駆をなしている。
1979年に6選後すぐに、全国ニュースとなる衝撃の受託収賄の疑いで現職知事逮捕。
代議士・江藤隆美にそそのかされた仕業と誰もが知っていた。
江藤隆美と境大和が知事黒木博を陥れた大きな陰謀である。
宮崎の保守政界の分裂は全国一の怨念を持つ和解できない様相が今も抜けていない。
戦後民主化といえど戦後生き残りの々人が継続引き継ぐ故簡単には生き様は変わらない。
日本の保守思想の中心地ドップリの保守県民性で日々暮らしてきた。
裏切り的様相の江藤隆美の政治手法は一般生活にはない。
のんびりした田舎人の農業従事者の生き様が支配する県民性。
宮崎は出雲とならぶ神話の国。
昭和15年は紀元2600年・初代天皇神武を送り出した県として
モニュメント・八紘一宇の塔を建設。今も異様に姿が残る。
その世界支配思想の地。
テレビでも放映された東京オリンピック聖火はその塔をバックに国内起点として出発した。
瑞穂の国は仏教国でもあり、神道国でもある。
これを海外で説明することは難しい。
大和朝廷が中国文化を入れる時に、同時に中国仏教をも入れたが、6世紀当時、国作りの支配階級の内部政争ともなった。
しかし、この当時の庶民の宗教とは関係なく導入した。
中国でも仏教は儒教や道教の影響を受けていたが、日本でも神道と徐々に混合して日本化していく。
鎌倉時代になってやっと、日本化が完成する。
その典型は田舎の宮崎に受けつがれ残った。
「のさん」「よだき」「たまろか」のんびりしたやるきなきホンワカした県民性。
そのまんま東は当選すると名を変え東国原知事。
この気質を「どんげかせんといかん!」
マスコミの力は怖い。
県庁に日々2000人が訪問している。
報道されないことがある。
東国原知事の昨年1月の就任後、11回の政治資金パーティーで、約6000万円を集めた。
購入先・引受手には個人のほか「脱談合」の建設業界や各種経済団体、県内有力企業が並う。
立ち上げた企業体びっきょの収益は出版事業収入と含めまた別である。
16日、県南・串間市・本城中(佐藤芳信校長、50人)で東国原知事が特別授業。
県の「みやざき子ども教育週間」(19-25日)の一環らしい。
知事就任までの半生について語りながら、2、3年生32人に「志を高く生きよう」と説いた。
知事は小学生のころに見たサーカス巡業の思い出を語り
「人を笑せるお笑い芸人と地域にイベントを呼べる政治家は、どちらも人を幸せにする仕事」と自身の原点を紹介した。・・地元誌が伝える。
はたしてこの教壇に立つ厚顔。
1985年(昭和60年)にフリーアナウンサーの片平きみよと結婚1989年(平成元年)に離婚。
1990年(平成2年)かとうかずこ2006年離婚。
そこまではまだ譲り認めても・・
1986年(昭和61年)12月9日、タケシ軍団メンバー11人で講談社『フライデー』編集部を襲撃逮捕。
1998年(平成10年)10月13日、都内の風俗店で16歳の少女に性的サービスを受けたとして児童福祉法違反容疑、芸能活動を自粛。
1999年(平成11年)11月22日、弟弟子である「北海ジャンジャン」への傷害容疑で書類送検。
どこかの相撲部屋、呉海上自衛隊と同じの精神構造。
ホント・・りっぱな政治家であろうが、
ただ、青少年相手に教壇に立てる状態ではない。
宮崎人には過去に、このような人はいない。
とにもかくにも宮崎人ではない。
えらいひとがいたもんだ。
上杉光弘は宮崎西都の人。
黒木の組織した農業者青年組織SAP(農業繁栄のための学修活動)の初代理事長。
知事黒木博の娘を妻とした。
1986年 参議院議員に初当選し以後三期連続当選した黒木博の文字通りの秘蔵っ子。
1998年に小渕内閣で内閣官房副長官で。参議院橋本派会長。
成研究会の集団指導体制時のメンバー(参院側は青木・上杉の2人。片山虎之助はいっていない。)
公明党に屈している白川勝彦の後任の警察のトップ 自治大臣・国家公安委員会委員長 も歴任。
2004年7月の参議院選挙では松下新平に破れた。、
2005年9月11日の郵政選挙では地盤の一区を中山成彬に渡し
地盤でない県北二区の江藤隆美の二世・江藤拓の刺客となったが横たわる怨念おあり負けた。
ちなみに民主党松下新平は先々月脱党した5人の新党を結成した人。
東国原知事が誕生したのは瓢箪から駒どこでなく青天の霹靂。
黒木VS江藤の対立から泡沫候補そのまんま東候補がアレヨアレヨと選挙戦最後の三日で誕生したわけである。
宮崎が常にあらゆる統計の最低限にある経済政治状況は歴史から来ている。
封建時代5藩小藩統治が続いた。
北から九州唯一の譜代・内藤藩、中央部高鍋・秋月藩、宮崎市北部と都城・島津藩、西部山沿い・菊池藩、南部・伊東藩
これには逸話が多くあるが地方史は無理ゆえ中央密接で言うなら譜代の殿様がその一つ。
宮崎県との縁も浅くないのがNHK大河ドラマ篤姫でもメインの一部を占める井伊直弼。
誰もが知る幕末の大老で、天皇の許可なしに諸外国と「安政5カ国条約」を結び
反対派を「安政の大獄」で弾圧。結果、江戸城桜田門外で暗殺された。
井伊直弼が亡くなる8日前に書いた書状が先日京都で見つかった。
地元彦根藩の家老にあて、火災に遭った江戸城の復興を指示する内容。
指示の細かさに神経質な一面が見られ、
その乱筆から政情に疲れていた様子もうかがえるという。
安政の大獄の熾烈さから冷徹な独裁者と見られがちだが、
当時の日本は諸外国から開国の圧力をかけられ、一歩間違えば戦争、そして植民地という最悪の事態にもなりえた。
直弼の条約締結と反対派への弾圧は、そんな国家存亡の危機における究極の独断でもあった。
「春あざみ 野中の清水氷居て
そこのこころをくむひとぞなき。」
安政の大獄のさなかの直弼。
直弼の姉の繁子=充眞院は延岡・内藤藩6代藩主の政順(まさより)の正室。
さらに直弼の弟の直恭(なおやす)=後の政義が、その養子となり7代藩主になった。
が、このとき直弼も養子候補になった。
もし直弼が選ばれていれば宮崎・延岡藩7代藩主となっていた。
生前に自身の戒名を決めていたことからも自分の真意が理解されないだろうこと、
非難を一身に浴びることを覚悟していたようだ。
直弼の評価は今も分かれるが、為政者として国の未来を真剣に考え文字通り命懸けで事を進めたこと、
そこに私利など微塵もなかった憂国の情。
直弼の精神は引き継がせたいものだ。
5つの小藩統治の弊害が今に残る宮崎。
廃藩置県で県庁はお城に於かれた。
唯一宮崎と札幌はそうできなかった。
ゆえに封建的経済政策時の資本蓄積と政治統治形態
を知らない県民性の後進性。
「刈りほしきり唄」など民謡の宝庫もその裏返し。
いまだ神話の精神で生きてる精神構造。。
宮崎は神武が東征で船出した美々津に於かれた。
宮崎唯一の古い建物が残る景観指定区域。
も一つの景観地域、日南飫肥は道路工事で建て替え昔風にしただけの観光用。
ただし、小泉郵政改革でこの美々津地域は郵便の集配が廃止された歴史知らず。国賊の恥知らずこのバチアタリもん!
中山成彬が尋常でない思考行動をとるのはお上に楯突かない
南方独自の県民性のボケッ~とした県民風土がある故。
今のこの国と地方のそれぞれの為政者たち。
評価は分かれるが井伊直弼。
かの憂国の士の政治信念を矜持せよ!
新聞が教える。
9月24日の就任から10月17日までの24日間で、首相は地方滞在中を含めて25回の「夜会合」をこなした。
就任から同じ期間で夜会合が5回だった福田前首相の5倍の頻度だ。
食事の後、ホテルの高級会員制バーなどで飲み直す「はしご」の多さも際だつ。
最近4代の首相を就任後24日間で比べると、小泉元首相の「はしご」は1日だけ。
安倍元首相、福田前首相はともにゼロ。
麻生首相は7日で、帰宅も平均すると午後11時近くと、「断トツ」で遅い。
内外の政治情勢は100年に一度に危機状態。
ポストを私的にもてあそんでないか。
麻生総理、そのまんま東・当選後には名を変えた(こんなんアリ?合法ナン?)東国原知事・直弼の爪の垢でも飲んで執務にあたれ。
天皇家の日常の生活、汚れを払い、ハレの日々の安寧への国の祈りを見習え。
どうにも大衆操作での私利私欲の名誉欲ではないか。
世界に冠たる歴史性の国にしての衆寓政治はやめよ。
品格がない。
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けんちゃん先生にもご心配をかけてるようですので宮崎の特殊事情をご説明致しまして、ご了承クダサイ。
問題発言で国交大臣を5日間で辞任、そしてその後も激しい
日教組批判を続けて、ついには次期衆院選に出馬しないことを表明していた中山成彬。
、16日になって、自民党の宮崎県連会長に
「やっぱり出る意思を固めた」
と携帯電話で伝えて来たのだという。
「東国原知事が出馬しないと言うから、自分が出らんといかん」と引退を撤回。
その場で自民党選挙対策委員会の古賀誠委員長らに電話し「党本部にも了解をもらった。東京で古賀さんと同席して立候補の記者会見をする」
と党公認で出馬する意向を語ったという。
その際、所属している町村派の森喜朗元首相の了承も得たと付け加えたという。
一体、何故、今頃になって、やっぱり急に出馬すると言い出したのかというと・・・。
宮崎県連の立候補者の公募に応募した14人の中に、長年の確執がある上杉光弘(66)がはいっていた。
地元の宮崎1区から東国原県知事を擁立することを考えていた中山。
「自民党が勝つため」に仕組んだ「自作自演のシナリオ」と表現。
「とにかく知事が出て、全国の(自民党)候補者のもとに行ってほしい」と要望し、小泉劇場ならぬ「東国原劇場になることを願っている」と語った。
また、知事に向かって
「どうしても(衆院選に)出てもらわないと困る」
と呼びかける一幕があった。と・朝日新聞8日がつたえる。
事前に、知事は自民党サイドから、国政選挙に出る意思があるかどうか打診を受けており、本人はそれなりに関心を示していたとのこと。
それをきいて「これは行けるかも!」と。
ならば、自分は出馬をやめてでも、東国原知事を立てようと思ったのだろう。
そして、劣勢にある自民党を何とか勝たせるために、民主党に政権をとらせないために、人気のある東国原知事を立候補させようと。・・・
で、全国の候補者の応援で回らせれば、小泉旋風ならぬ東旋風が起こすことができるかも知れないと。・・・・
「はんたいのさんせい」「さんせいのはんたい」とは、漫画「天才バカボン」のバカボンのパパの口癖。
「賛成の反対」は「反対」だろう。
だが「反対の賛成」は…???。
このナンセンスギャグの世界で、そんなことを考えるのはそれこそナンセンスというもの。
単純にその意味不明さを楽しめばいい。
だが、これはどうだろう。「不出馬の取りやめの断念」。「二重否定」という表現法はあるが、こういうのは三重否定というのか。
振り回されたのは党県連。
中山の不出馬を受けて、初の候補者公募を実施。
だが、候補者決定の2日前になって突然、出馬を表明。
そして一夜明けると、再びそれを撤回。
「どれだけ混乱させれば気が済むのか」という関係者の心境だろう。
県民も、これ以上引っかき回されるのは「はんたいのさんせい」ではなく「反対の反対の反対なのだ」と言いたいだろう。
実は・・田舎の宮崎の歴史的事情があるんですって。
九州の核都市は福岡
どこの県もその核都市と高速道路で繋がっている。
宮崎は全国一の陸の孤島。
九州の中で実質的に唯一高速道路で繋がっていない。
鹿児島経由での九州縦貫道路でネットワークでは繋がってる。
ただ、地元の人は宮崎西部の交通の要所小林市までは一般道路の方が早く小林に着くので経済的にも勘案して高速道路を走らない。
地勢的には大分経由が福岡には早い。
大分経由の東九州高速道路の建設が遅速してるからだ。
群馬に於ける上州戦争で中曽根康弘VS福田赳夫は世間が知ったる公然たる事実。
先年手打ちがなされたと話題になった。
宮崎はその手打ちが今だすんでいない。
宮崎も保守陣営は真っ二つで怨念が横たわる。
発端はこうである。
血の血判の中川一郎の青嵐会に江藤隆美は属してた。
宮崎知事21年の黒木 博(1907年2月10日 - 2001年12月24日)は宮崎西都の人。
田中VS二見の知事選の選挙参謀として敗北して、母校宇都宮高等農林学校の先輩にあたる渡辺美智雄の秘書をしてた時期がある。
その後宮崎県知事として1979年に6選をはたしたがその前回は副知事二人との激戦を制したほどで長期による弊害も言われていた。
任期6期では景観・環境にいち早く目をつけ全国初の沿道修景美化条例で東洋のナポリを演出。
宮崎交通の岩切章太郎とともに宮崎を一大観光地に育て全国から新婚客を呼び込んだ。た。
港湾建設業・境大和は知事黒木 博の「3000万うけとりました。」の領収書を贈賄側の当事者なのに告発した不可解な事件。
時の人中山成彬の捨て身戦法の先駆をなしている。
1979年に6選後すぐに、全国ニュースとなる衝撃の受託収賄の疑いで現職知事逮捕。
代議士・江藤隆美にそそのかされた仕業と誰もが知っていた。
江藤隆美と境大和が知事黒木博を陥れた大きな陰謀である。
宮崎の保守政界の分裂は全国一の怨念を持つ和解できない様相が今も抜けていない。
戦後民主化といえど戦後生き残りの々人が継続引き継ぐ故簡単には生き様は変わらない。
日本の保守思想の中心地ドップリの保守県民性で日々暮らしてきた。
裏切り的様相の江藤隆美の政治手法は一般生活にはない。
のんびりした田舎人の農業従事者の生き様が支配する県民性。
宮崎は出雲とならぶ神話の国。
昭和15年は紀元2600年・初代天皇神武を送り出した県として
モニュメント・八紘一宇の塔を建設。今も異様に姿が残る。
その世界支配思想の地。
テレビでも放映された東京オリンピック聖火はその塔をバックに国内起点として出発した。
瑞穂の国は仏教国でもあり、神道国でもある。
これを海外で説明することは難しい。
大和朝廷が中国文化を入れる時に、同時に中国仏教をも入れたが、6世紀当時、国作りの支配階級の内部政争ともなった。
しかし、この当時の庶民の宗教とは関係なく導入した。
中国でも仏教は儒教や道教の影響を受けていたが、日本でも神道と徐々に混合して日本化していく。
鎌倉時代になってやっと、日本化が完成する。
その典型は田舎の宮崎に受けつがれ残った。
「のさん」「よだき」「たまろか」のんびりしたやるきなきホンワカした県民性。
そのまんま東は当選すると名を変え東国原知事。
この気質を「どんげかせんといかん!」
マスコミの力は怖い。
県庁に日々2000人が訪問している。
報道されないことがある。
東国原知事の昨年1月の就任後、11回の政治資金パーティーで、約6000万円を集めた。
購入先・引受手には個人のほか「脱談合」の建設業界や各種経済団体、県内有力企業が並う。
立ち上げた企業体びっきょの収益は出版事業収入と含めまた別である。
16日、県南・串間市・本城中(佐藤芳信校長、50人)で東国原知事が特別授業。
県の「みやざき子ども教育週間」(19-25日)の一環らしい。
知事就任までの半生について語りながら、2、3年生32人に「志を高く生きよう」と説いた。
知事は小学生のころに見たサーカス巡業の思い出を語り
「人を笑せるお笑い芸人と地域にイベントを呼べる政治家は、どちらも人を幸せにする仕事」と自身の原点を紹介した。・・地元誌が伝える。
はたしてこの教壇に立つ厚顔。
1985年(昭和60年)にフリーアナウンサーの片平きみよと結婚1989年(平成元年)に離婚。
1990年(平成2年)かとうかずこ2006年離婚。
そこまではまだ譲り認めても・・
1986年(昭和61年)12月9日、タケシ軍団メンバー11人で講談社『フライデー』編集部を襲撃逮捕。
1998年(平成10年)10月13日、都内の風俗店で16歳の少女に性的サービスを受けたとして児童福祉法違反容疑、芸能活動を自粛。
1999年(平成11年)11月22日、弟弟子である「北海ジャンジャン」への傷害容疑で書類送検。
どこかの相撲部屋、呉海上自衛隊と同じの精神構造。
ホント・・りっぱな政治家であろうが、
ただ、青少年相手に教壇に立てる状態ではない。
宮崎人には過去に、このような人はいない。
とにもかくにも宮崎人ではない。
えらいひとがいたもんだ。
上杉光弘は宮崎西都の人。
黒木の組織した農業者青年組織SAP(農業繁栄のための学修活動)の初代理事長。
知事黒木博の娘を妻とした。
1986年 参議院議員に初当選し以後三期連続当選した黒木博の文字通りの秘蔵っ子。
1998年に小渕内閣で内閣官房副長官で。参議院橋本派会長。
成研究会の集団指導体制時のメンバー(参院側は青木・上杉の2人。片山虎之助はいっていない。)
公明党に屈している白川勝彦の後任の警察のトップ 自治大臣・国家公安委員会委員長 も歴任。
2004年7月の参議院選挙では松下新平に破れた。、
2005年9月11日の郵政選挙では地盤の一区を中山成彬に渡し
地盤でない県北二区の江藤隆美の二世・江藤拓の刺客となったが横たわる怨念おあり負けた。
ちなみに民主党松下新平は先々月脱党した5人の新党を結成した人。
東国原知事が誕生したのは瓢箪から駒どこでなく青天の霹靂。
黒木VS江藤の対立から泡沫候補そのまんま東候補がアレヨアレヨと選挙戦最後の三日で誕生したわけである。
宮崎が常にあらゆる統計の最低限にある経済政治状況は歴史から来ている。
封建時代5藩小藩統治が続いた。
北から九州唯一の譜代・内藤藩、中央部高鍋・秋月藩、宮崎市北部と都城・島津藩、西部山沿い・菊池藩、南部・伊東藩
これには逸話が多くあるが地方史は無理ゆえ中央密接で言うなら譜代の殿様がその一つ。
宮崎県との縁も浅くないのがNHK大河ドラマ篤姫でもメインの一部を占める井伊直弼。
誰もが知る幕末の大老で、天皇の許可なしに諸外国と「安政5カ国条約」を結び
反対派を「安政の大獄」で弾圧。結果、江戸城桜田門外で暗殺された。
井伊直弼が亡くなる8日前に書いた書状が先日京都で見つかった。
地元彦根藩の家老にあて、火災に遭った江戸城の復興を指示する内容。
指示の細かさに神経質な一面が見られ、
その乱筆から政情に疲れていた様子もうかがえるという。
安政の大獄の熾烈さから冷徹な独裁者と見られがちだが、
当時の日本は諸外国から開国の圧力をかけられ、一歩間違えば戦争、そして植民地という最悪の事態にもなりえた。
直弼の条約締結と反対派への弾圧は、そんな国家存亡の危機における究極の独断でもあった。
「春あざみ 野中の清水氷居て
そこのこころをくむひとぞなき。」
安政の大獄のさなかの直弼。
直弼の姉の繁子=充眞院は延岡・内藤藩6代藩主の政順(まさより)の正室。
さらに直弼の弟の直恭(なおやす)=後の政義が、その養子となり7代藩主になった。
が、このとき直弼も養子候補になった。
もし直弼が選ばれていれば宮崎・延岡藩7代藩主となっていた。
生前に自身の戒名を決めていたことからも自分の真意が理解されないだろうこと、
非難を一身に浴びることを覚悟していたようだ。
直弼の評価は今も分かれるが、為政者として国の未来を真剣に考え文字通り命懸けで事を進めたこと、
そこに私利など微塵もなかった憂国の情。
直弼の精神は引き継がせたいものだ。
5つの小藩統治の弊害が今に残る宮崎。
廃藩置県で県庁はお城に於かれた。
唯一宮崎と札幌はそうできなかった。
ゆえに封建的経済政策時の資本蓄積と政治統治形態
を知らない県民性の後進性。
「刈りほしきり唄」など民謡の宝庫もその裏返し。
いまだ神話の精神で生きてる精神構造。。
宮崎は神武が東征で船出した美々津に於かれた。
宮崎唯一の古い建物が残る景観指定区域。
も一つの景観地域、日南飫肥は道路工事で建て替え昔風にしただけの観光用。
ただし、小泉郵政改革でこの美々津地域は郵便の集配が廃止された歴史知らず。国賊の恥知らずこのバチアタリもん!
中山成彬が尋常でない思考行動をとるのはお上に楯突かない
南方独自の県民性のボケッ~とした県民風土がある故。
今のこの国と地方のそれぞれの為政者たち。
評価は分かれるが井伊直弼。
かの憂国の士の政治信念を矜持せよ!
新聞が教える。
9月24日の就任から10月17日までの24日間で、首相は地方滞在中を含めて25回の「夜会合」をこなした。
就任から同じ期間で夜会合が5回だった福田前首相の5倍の頻度だ。
食事の後、ホテルの高級会員制バーなどで飲み直す「はしご」の多さも際だつ。
最近4代の首相を就任後24日間で比べると、小泉元首相の「はしご」は1日だけ。
安倍元首相、福田前首相はともにゼロ。
麻生首相は7日で、帰宅も平均すると午後11時近くと、「断トツ」で遅い。
内外の政治情勢は100年に一度に危機状態。
ポストを私的にもてあそんでないか。
麻生総理、そのまんま東・当選後には名を変えた(こんなんアリ?合法ナン?)東国原知事・直弼の爪の垢でも飲んで執務にあたれ。
天皇家の日常の生活、汚れを払い、ハレの日々の安寧への国の祈りを見習え。
どうにも大衆操作での私利私欲の名誉欲ではないか。
世界に冠たる歴史性の国にしての衆寓政治はやめよ。
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コメント
如何でしょうか・・師匠。
どこにもお家騒動というか、怨念というか、保守の二つの流れというものはありますね。以前の古くは保守合同、近くは中選挙区の遺産ともいうべきでしょうか。
中山氏はご自分の後継者をつくって立てることは考えなかったのでしょうかね。
それとも後継は育ててなかったのかな。いずれにしても、県民としてはつらいところですね、自分たちの代表というべき国会議員の行動ですから、ご心中をお察しいたします。
PS(どうでもいいですが2度繰り返し部分がありましたよ。)