秋は鈴虫を初めとした自然オーケストラの盛況期。
虫の音は諸外国では皆オナジでガチャガチャの雑音でしかナク聞き分け楽しむ耳を持たないらしい。
虫売りの街頭周りの職業があった時期代もある大和の国は
四季折々を季節にあわせて生活を楽しんできた日本にのみ伝わる文化がある。
大相撲は白黒ハッキリさせ楽しむが一方これほどウヤムニャで済んでるのもまた相撲でもある。
相撲は国技と言われるが確かに国技の明確なる規定が無いのも又日本流の国技の在り方。
欧米文化のスポーツは公平なる審判がイル。
今では選手もション便さえ自分を公平さで示す大事な証拠品の時代。
その世界のスポーツ界の大きな流れの中で突然千数百年前の
神事に乗っ取ったスポーツらしき戦いが繰り広げられる。
日本のスポーツには、ふさわしくない日本流のランクがある
、ある意味そこに限定すれば非民主的。
なによりもその場に競技を進める審判は凶器を持っている異常さ。
選手の一人の横綱なんかは日本刀を手下に持たせ一人は先導役と二人の子分付き。
歌舞伎に似ての見せ物でしか解決がつかない。
西洋文明の尺度に慣らされてるゆえスポーツの尺度では無理である。
やはり神事を発祥とした、五穀豊穣の瑞穂の国にのみ伝わる
お祭に即した残滓として考え無いと解決はつかなくあちこちに不都合が見受けられる。
柔道みたいにオリンピックに特化されていくと当然御本家の古来のファンからは
アレは柔道ではチョット違うと異論沸騰。当たり前の事だ。
幼少期庭の端には土俵があった。
川原村の神社の土俵は祭りの春秋用で神聖すぎてそう使えなく
庭のを利用していわば遊びとして相撲を取った。
明治初期はまだ封建時代の残滓の各種の柔術が盛ん。
スポーツにほど遠く命さえ落とす時期。
それを創意工夫大成して「術」を「道」に改め、心技一体の会得として
嘉納治五朗が講道館柔道に昇華した。
宮崎の人・磯貝一(はじめ)十段は普及振興に一生を捧げた功労者。
天覧試合は語り草。
スポーツとして国際化され当初からするとかなりルールも変わッテイル。
一瞥できる柔道着の着用の白のみが色分けの変遷にみてとれる。
ヒモで区分けしてたのに今ではカラーの柔道着で視覚的に区分けする。
どうもそこんとこからシックリなじめない。
団塊の世代は義務教育の体育の時間に習った柔剣道。今は受験道ナンだろう。
雨が降ると出来たての珍しき体育館が利用できる。
出来たてゆえ利用状況を伸ばせとのお上の要請も陰に日なたにあったことでもあろう。
民主主義に申し子教育初期ゆえ
「なんでも多数決の先生の意向」を知っている。
「運動場はつかえそうもないなぁ~」
・・・待ってたホイのホイのホイッ!・・
手を挙げ先生に好かれてる子に言わせる。
「多数決で決めたらインじゃぁないですか。」
「そうだなぁ~意見も出たことだし~~民主的にいこう!」
・・・間髪入れず素晴らしきそして微妙なるタイミングで言う。・・
「体育館で柔道!」
有無言わせぬ電光石火の民主的決めごと。
福田さんに教えたい。
指導力とやらのガキ大将維持の秘訣。
学校に伸張してきてた屋内競技のバレーボール、バスケットボールが
多数派を占めないように当然根回し票読みがしてある。
そのころの天気予報は発達してナク「宝くじと天気予報」と
当たらないモノの代名詞として揶揄された程である。
前々より風や雲の動きで自前での前日の天気予報で雨天を予測して
「オイ!明日の雨の体育の時間は・・柔道だぜ!わかってるな~。」
携帯もないのに知恵を絞り多数派形成の連絡済み。
お膳立ては済んでいる。
まぁ~最大派閥の町村派の森会長さんや読売ナベツネ、氏家日テレ
中曽根大勲位がチョロチョロやるようなモノ。
そもそも一国の総理リーダーを決めるのがそうなんである。
三木武夫や小渕も安倍、福田も今回の麻生もみんなア~そうジャン!
一国の宰相決めは出来レースの根回し済みの非民主的話し合い。
西洋文明ではこの黒子が事前に決め根回しの日本流文化を非民主的密室と呼ぶ。
敗戦後モデルなき初歩から形作ってきた日本流は
ボスの意向を方針にして決め勧めた傾向があらゆる場にあった。
柔道は一年間の体育時間の雨天の時一番授業が多かった。
可哀ソウなのは女子。
「そんなの、カマッチャァ~おられるカイ!」
「こっちらぁ~建国日本を作らねばならぬ強靱なる体、体躯を欲している!。」
「おんなは裁縫に料理の良妻賢母。教室で保健の本で生理がなんぞや訳のわからんものを
勉強してれば丁度いい。女子は男子より頭イイジャン!」
貶したり褒めたりでこの種の人種の操縦法はいつの世も世代も変わらない。
訳のわからん論理も話しの勢いと金科玉条の民主主義の原理らしき
多数決には頭が上がらない論理構成のシステム。
そこまでして学んだ白着の柔道着には愛着がある。
強さの証明は帯の色で流石に黒帯はいなかったが
茶色おび、緑おびと柔道部は流石であった。
杉田君は巨人。身の丈・・
金丸は巨体何貫目あったろう。
そいつらに勝つ目標もありフェアープレイで戦う楽しさがあった。
ゆえにいまの北京で見る柔道界は体験から異論があのは仕方ないこと。
ただ、国際化は全く視野にない幼児体験からの論評。
両手を指一本ずつ向かい合わせ胸の上で、ぐるぐる回し相手に指をさし・・「指導!」
当初笑って・・一時ギャグとして流行!
ポーズが酒席で大うけした時期さえあったほどだ。
正力松太郎は富山射水の人。高岡高・東大の頃の柔道の猛者。
昭和9年ベーブルース・ゲーリッグなどの大リーグを招へい。
翌年日本に初めて職業野球巨人軍を作った。
警察官僚を経て大震災の虐殺の反省や皇族警備の責任も取り
後藤新平の資金援助で読売新聞を買い取る。
そのご代議士転出・大臣を歴任。
この仕事ぶりから
プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも言われる。
正力、嘉納治五朗自体、病弱のいじめられっ子。
鍛えれば人を作る。
人はお国の宝。
ただし、やはり無宗教民族、裏を返せば無教養民族の有色人種ジャップ!と蔑まれてるが
敬虔なる神ノ国の仕きたりの宗教で生きている。
ゆえに不思議が生じる。
立て行司木村庄之助は最後の結びの一番のみを裁く。
第35代は宮崎の人・5月から務めている。
横綱・朝青龍(27)がまたも負けた。
途中足が出てた。
審判は見逃さない。。
3日目の雅山戦で早くも土が付いた。
そして注文相撲の安美錦戦。
昨日8日目豊ノ島戦
裁いた立行司・木村庄之助に土俵で
「残ってるよ」
と怒鳴ったという。
土俵際で寄りをこらえたそのとき、審判長の三保ケ関審判部副部長(元大関増位山)の右手が挙がった。
朝青龍の右かかとが俵を割ったと判定された。
後の逆襲は勝負ではない。
映像でも横綱のかかとが蛇の目の砂に触れている。
庄之助も目の前に行き確認している。
朝青龍は、土俵上で不満そうに審判長をにらみつけた。
間近で見ていた三保ケ関審判長
「蛇の目の砂がへこんでいた。負けは負け。おれをにらんでも仕方がない。目の前で見たんだから、
ビデオ確認なんてばかなこと言わないでよ」
と声を荒らげた。
新聞記事が踊る。
ブログから
支度部屋でも怒りは収まらない。
左ひじに巻かれたテープを投げ捨てると「ダーッ」と叫んで風呂場へ。まげを結い直す間に
「残ってると思ったんだよ。この野郎」
と悪態をつき、
「出てたの、出てないの。どっちなの」と報道陣に逆取材。
国技館を去る際には
「ビデオを見てねぇから分かんねぇけど、納得いかねぇ。
今の気持ちは真っ白。たまったもんじゃねぇよ」
とまくし立てた。とある。
ここまで増長するには7日までの異常なうごき伏線があった。
5勝3敗どこではない。もっと星は悪かった予想が立つ。
最も引退含みの休場であったろうが。
東前頭2枚目の稀勢の里(22)の出足を止めきれるか。が優劣を決める。
朝青龍の左手は土俵から10センチ以上は浮いている。
その浮いた左手で稀勢の里に強烈なのど輪をお見舞い。
完全な手付き不十分。
軍配を返した立行司・木村庄之助は待ったをかけない。
正面の貴乃花審判長も手を挙げない。
他の4人の審判も止めることはなかった。
立ち合いで浮いた左手で稀勢の里に強烈なのど輪をお見舞い
こうなれば、ドルジ横綱はお構いなし。
35代庄之助も「審判長が何も言ってませんでしたから」と手付きは十分との見解を示した。
ただ、放駒審判部長(元大関・魁傑)は今場所中に
「どうかなと思うものも止める」と示している。
3日目には同じ結びの白鵬対琴奨菊戦で微妙な手付きに審判から待ったがかかった。
庄之助は「昨日は審判が止めたけど、流れなので行司はなかなか止められない」。
4日目を終え幕内の全取組で手付き不十分での待ったは13番。
そのうち11番までが行司による待っただ。
データから見て行司が止められないという庄之助の言葉は疑問。
危ないぞ!庄之助!
取り締まりへの基準が審判部、行司の間で統一されていない現状が露呈した。
混乱する状況に力士のインタビュー記事
「お互いが両手を付いてから軍配を返せばいい」
と公平な基準を求めた。
理事長はこの日、
「今さら説明会なんかするのか。
横綱がそんなことをいうのは恥ずかしい。
立場を分かっていない」と一蹴。
6場所で1勝2敗と分の悪い4日目東前頭2枚目の稀勢の里(22)4日目
前場所負けてる7日目平幕栃乃洋(34)とここんところ負けてる力士に、
立ち会いの手をつかないフライング!
横綱が平幕から白星かっさらった疑惑の立ち会いだったがメッキは剥げる。
武蔵川新ホヤホヤ理事長(元横綱三重ノ海)の通達で、今場所から立ち合いの手つきが徹底されている。
朝青龍は負けて
、「急に言われても直らないよ。(場所が)終わってから
力士会で説明してもらわないと。こっちも分からない」と反論。議論を呼んでいた
安美錦戦では反抗するかのように大きな動作で手をついて立ったが、
目の前に相手はいなかった。
格下が注文相撲とは可笑しい
胸を借りる立場である。
心配なのは、目に見えない横綱の威光が消えつつあるところだ。
真っ向勝負を挑まれるのが当然だったのに、
注文相撲を仕掛けられたのもその証。
土俵で繰り広げられた異例のシーンは、横綱の品位、
ドルジ横綱はお構いなしでの斜陽を象徴している。
なんのいったって
裁くは08年5月場所よりの35代木村庄之助は大相撲の立行司。
宮崎の人・立浪部屋所属。
35代を襲名して最初に裁いたのが5月場所の
朝青龍-稀勢の里の結びの一番。
波乱ナク順調な初日であった。
ブログから
2008年5月場所初日
結びの行司は35代木村庄之助。
宮崎県の県章と出身地「延岡」の文字をあしらった模様の入った行司装束
相撲ファンは緊張している。
●若ノ鵬-琴欧洲○
右四つがっぷり。策を弄する間もなく、力の差がそのまま出て、琴欧洲寄り切りの勝ち。
○千代大海-旭天鵬●
突っ張って突っ張って、為す術なし。突き出しの勝ち。
●把瑠都-魁皇○
差し手争いもないまま左四つ。魁皇十分。寄り切りの勝ち。
通算900勝!
○琴光喜-黒海●
行司は38代式守伊之助。先場所までの勘太夫。
右上手をさっと取る。上手投げを打って下手出し投げ土俵に這う両者くるくる。大関陣全勝!
●朝赤龍-白鵬○
叩く白鵬、突く朝赤龍。最後は白鵬の叩きが決まる。叩き込みの勝ち。
●朝青龍-稀勢の里○
朝青張り差しをしている間に押して出ると腰砕け気味に尻餅をつく
上位安泰の中唯一の結びの波乱。
奇っ怪なる因縁はこの日から始まっていた。
両国における豊ノ島戦。
立て行司が力士から文句を言われる裁き。
35代木村庄之助(1946年10月29日- 本名:内田順一)は大相撲の立行司。
宮崎県延岡市出身、立浪部屋所属。
地元紙が伝える。
今から46年前の3月上旬、15歳の少年が中学校の卒業式を待たずに、母親と2人夜行列車に乗り込み古里延岡を後にした。
満員だったため1つの座席に交代で座った。
翌朝着いたのは大阪の行司部屋。
行司人生はこの日始まった。
行司にも番付があり
力士と違うのは、年功序列で出世していくということ。長い年月をかけて一歩一歩、階段を上っていく。
最初の3年は無給。そしてそれを含む10年間は、先輩行司の世話など下働きをしながらけいこ場に通い、
行司としての目を養った。
先輩の晩酌が終わるのを3、4時間正座して待ち続けたこともざらにあった。
「理不尽ないじめには閉口したものです」
と、県の季刊誌のインタビューで振り返っている。
さらりと言ってはいるが、いろんなことがあったのだろう
。辞めていった仲間は数知れず。
「挫折しそうなときは、故郷の人たちの顔を思い出し辛抱 した」。
22年後に夢に見た十両格、その10年後には幕内格に。2年前に三役格、昨年に立行司となり式守伊之助を襲名。
そしてついに行司の「東の正横綱」へと上り詰めた。
「式守伊之助とは責任の重さが格段に違う。
行司の第一人者として定年までの3年半、職を全うした い」と抱負を語る。
木村庄之助として夏場所の土俵に立つ。
「忍」の一字で築いた行司の頂点として・・
、
「はっけよい」の晴れ姿。
08年5月場所よりの35代木村庄之助(1946年10月29日- 本名:内田順一)は大相撲の立行司。宮崎の人
立浪部屋所属。
トップの判断で揺れていた相撲界
ご多分に漏れない派閥人事で弱小勢力が理事長に納まった不思議さ。
立ち会いの改革の基本から始めているので混乱が生じている。
ただ、幼児から楽しんできた団塊の世代にすれば当たり前。
立ち会いスバヤク動けるかどうかが勝敗を決める競技である。
両手つきはフェアーの基本。
出稼ぎで勝負のみのモンゴル人には民族の文化が解ってない。
自分のイル立ちあいを含めてそうである。
相撲部屋・立浪部屋
出羽海一門
出羽海部屋・武蔵川部屋・境川部屋・田子ノ浦部屋・春日野部屋・玉ノ井部屋・入間川部屋・千賀ノ浦部屋・三保ヶ関部屋・北の湖部屋・木瀬部屋・尾上部屋
二所ノ関一門
二所ノ関部屋・大嶽部屋・阿武松部屋・佐渡ヶ嶽部屋・尾車部屋・片男波部屋・間垣部屋・鳴戸部屋・松ヶ根部屋・荒磯部屋・花籠部屋・貴乃花部屋・放駒部屋・峰崎部屋・芝田山部屋
時津風一門
時津風部屋・湊部屋・式秀部屋・荒汐部屋・伊勢ノ海部屋・鏡山部屋・井筒部屋・陸奥部屋・錣山部屋
高砂一門
高砂部屋・東関部屋・中村部屋・錦戸部屋・九重部屋・八角部屋
立浪一門
立浪部屋・大島部屋・追手風部屋・伊勢ヶ濱部屋・高島部屋・宮城野部屋・友綱部屋・春日山部屋・桐山部屋・朝日山部屋
無派閥
高田川部屋
この時代錯誤の相撲の世界。行司も部屋に所属する。
特に異様なる行司という審判。
35代目庄之助は面白い。
やはり特徴としては独特のよーじや装束が挙げられる。
今まで行司さんの話題に装束のことが入ることは稀でしたが、この人の登場により、
大相撲ファン以外のよーじやファンの取り込みにも成功した。
大相撲を全く知らないという女性の間でもよーじやは認知度が高い。
また、故郷の宮崎県の県章や延岡マークをあしらった装束を最近は多用している。
このように装束のバリエーションとインパクトでは歴代の誰にもひけを取らない。。
また、土俵上でも礼をしたり軍配を上げたり、懸賞を呼び出しから
受け取る時の所作もとても綺麗。
8日目豊ノ島戦だけでなく一度テレビでチェックしてみてはいかがでしょう。
更に制限時間一杯のとき、右足をスーッと引いて「待ったなし」という所も必見。
幕内格に上がる頃までは「はっけよい」が聞かれませんでしたが、
三役格昇進前後から聞かれるようになる。
但し現在も一場所に1・2回は
「のほーったのほったのほっ」
だけの掛け声も聞くことが出来る。
装束、所作と、目に付きにくい様々なところに目を向けさせてくれる
よーじや装束は影を潜めているが、生まれ故郷ゆかりの装束は健在。
立行司に昇進して厳しき日々。
軍配裁きや機敏さにますます磨きがかかり、歴史的に名の残る名行司になりそうである。。
名も実も備えて誰からも親しまれる活躍が楽しみ。
相撲ファンの賛辞は続く。
、長岡(元大関朝潮=現高砂親方)の幕下付出での初土俵(1978年3月場所)や
貴花田(元横綱貴乃花=現貴乃花親方)が最年少幕下優勝(1989年夏場所)を決めた一番など
印象深い取り組みを裁かれた。
今回新調された冬用の装束は、紺色の生地に銀色の県章が入った西陣織で
、「以前から、三役格になったら県章をデザインした装束を着てみたいと思っていた」とのこと。
県章を入れた理由。
「郷土が好きだから。宮崎の名をアピールできれば」と。
実は、7月の名古屋場所では「延岡」の文字をデザインした夏用の装束も既に披露されてイル。
、
また、装束と合わせて目を引く軍配団扇。
後援会から贈られたという軍配団扇には
「決断一瞬」・
行司は、たとえ同体であっても、瞬時に判断し、どちらかに軍配を上げなければなら無い。
差し違いを繰り返すと降格処分を受けることもある。
行司における最高位の階級である立行司は、必ず短刀を差している・・、
これは、昔、行司が軍配を差し違えてしまった場合、切腹するという規則があったため(実際に切腹した行司はいない)、それくらい厳しい世界。
「決断一瞬」の4文字に行司の難しさ、責任の重さがぎっしり詰まっており、厳しい裁きとなる。
饒舌である。
今後活躍が期待される力士を尋ねと
「外国人力士優勢の中、日本人の若手力士にも頑張って欲しい」
稀勢の里(20歳)、豊真将(25歳)、普天王(26歳)の名前を挙げる。ガッテン!
大きさの秘訣は食にあり。
メタボなぞナンのソノ。
ちゃんこ鍋とは
本来、相撲力士の食事そのものの事を「ちゃんこ」と言うわけである。
それは相撲を行うための体格を身につけるために、鍋料理を食べることが多く、
大相撲の力士が食べる鍋料理のことを総称してちゃんこ鍋。
「ちゃんこ」の語源は?
その一 「ちゃん」が中国のことで「こ」が中国語で鍋のことだという説。
これは長崎で鉄製の大きな中華鍋を「チァングオ」と呼んでいて、長崎に巡業した力士が料理をその鍋で作ったことにより、
後に訛って「ちゃんこ」と呼ばれるようになったとのこと・・・
その二 親方と弟子の関係から親方を「父(ちゃん)」弟子を「子(こ)」と置き換え
師弟共に食べるものを「ちゃんこ」と呼ぶようになった説。
また当時に料理番をしていた古参の力士に対し、親しみも含めて「父公(ちゃんこう)」
と呼んでいた事も伝えられておるそうな。
行司の階級は、軍配の房の色と装束の菊とじの色で見分ける。
立て行司 庄之助・ ・ ・ 紫房、足袋、草履、短刀、印籠
立て行司 伊之助・ ・ ・ 紫白房、足袋、草履、短刀、印籠
三役格 ・ ・ ・ 緋房、足袋、草履、印籠
幕内格 ・ ・ ・紅白房、足袋
十両格 ・ ・ ・青白房、足袋
幕下以下 ・ ・ ・青房または黒房
三段目格、
序二段格
序の口格、
木村家は軍配を握るとき手の甲を=陰=上に向けるのに対し、
式守家は手の平=陽=を上に向ける。
草履は土俵上で履く専用のもので、控えに入るまでのものと区別している。
十両格以上の資格者となれば、力士と同じく幕下以下の行司が付き人としてつく。
以前は厳然たる年功序列の世界であったが、
第28代庄之助が三役格に昇進したときに3人抜きして以来、
現在は力量、品格等で兄弟子を追い越すこともたびたびある。
行司の役割としては、裁きのほかにも、番付 ・顔ぶれ書き、場内アナウンス、
"割り" ・勝負結果の"巻き"記帳、
所属する相撲部屋での書記・ 秘書的役割などがある。
現在の番付は幕内格行司 木村恵之助による。(戦後7人目の書き手)
軍配には紫の房、装束(直垂)は明治以後は紫の菊綴じを着用し、短刀を差す。
短刀は、差し違いをしたときには切腹する覚悟でのぞむという意味がある。
代々受け継がれている軍配(「ゆずり団扇」とも呼ぶ)は2本ある。
1本は、1面に「知進知退 随時出処」、もう1面に「冬則龍潜 夏則鳳挙」と記されており、13代庄之助以来のものである。
もう1本は白檀製で、1面に牡丹、もう1面に唐獅子の彫金が施されており、
1971年1月に宝塚市の清荒神清澄寺から贈られたものである。
ちなみに軍配は右手で持つのが原則であるが、現存する錦絵によると、
7代(とされている)庄之助のみは左利きのため、左手に軍配を持っていた(現在では禁止されている)。
なお代数に関しては、6代目が3代分の水増しを行い、自ら9代目を名乗ったとする説もあり、
現在でもはっきりしていない。
本場所では通常、結びの1番のみを合わせる。
ただし、千秋楽の優勝決定戦で庄之助が合わせることがあり、
このときには1日2番を担当している
過去には庄之助は1番限りということから、
優勝決定戦は伊之助が裁いていた時代もある。
巴戦では二人交互に裁いてるのをテレビで見た記憶がある。
大相撲の宮崎出身力士は19名。
阿部と川畑が今年の春場所でデビューし、
春日湖が夏場所後、岩永が名古屋場所後に引退した。
郷土力士。
【阿部(新富・陸奥)】
阿部健一郎、15歳、2008年春場所初土俵、169cm、119kg。
陸奥部屋の新富合宿がきっかけで入門した。
柔道の経験がある。
【安寿(都城・安治川)】
岩崎浩一郎、1979年5月10日生、1998年初場所初土俵、180cm、199kg。
現役では7番目に重い
。番付は序二段の下位を上下している。得意は右四つからの寄り。
【大瀬海(延岡・阿武松)】
安光義嗣、1977年5月18日生、1998年春場所初土俵、178cm、190kg。
現役では10番目の重量力士。力はあるものの、昨年までは怪我で番付を下げることが多かった。
2007年初場所は序二段で優勝した。
2008年の秋場所は序二段の上位で迎える。
【魁慎鵬(宮崎・友綱)】
井上慎也、1984年3月30日生、2002年春場所初土俵、178cm、115kg。
2007年の秋場所、初めての三段目で勝ち越してから、ジワジワと番付を上げてきた。
しかし、今年は壁に当たっている。
【春日国(小林・春日山)】
安冨勇太、1981年10月30日生、2000年春場所初土俵、182cm、150kg。
郷土力士では最上位で、2008年名古屋場所は幕下12枚目まで上がった。
得意は突き押し。
中継で「ハナ肇さんに似ている」と言われる。
横綱・白鵬の付き人として、よくテレビに映る。
【金井(日向・陸奥)】
金井武志、1988年1月27日生、2005年名古屋場所初土俵。
2006年は病気で番付外まで落ちた。
九州場所で前相撲を取って再出世。
2008年初場所で、やっと勝ち越した。
次の目標は序二段での勝ち越し。
【川畑(都城・錣山)】
川畑慶真、15歳、2008年春場所初土俵、169cm、107kg。錣山部屋では初めての郷土力士。
【幸の富士(宮崎・湊)】
西田寅人、1986年7月15日生、2002年春場所初土俵、176cm、126kg。
着実に番付を上げていて、2008年夏場所は、自己最高位の三段目東41枚目で迎えた。
【郡山(宮崎・三保ヶ関)】
郡山勇二、1971年8月8日生、1987年春場所初土俵、177cm、188kg。
宮崎出身では最古参で、今年はデビュー20周年にあたる。
膝の状態が良くなさそうだが、三段目で取れる力はまだある。
得意の形は右四つからの寄り。
【琴柏谷(延岡・佐渡ヶ嶽)】
柏谷充隆、1991年11月20日生、2007年春場所初土俵、175cm、97kg。延岡市の岡富中出身で、祖父は元十両の松恵山。わんぱく相撲で全国ベスト8の実績があり、佐渡ヶ嶽部屋からスカウトされた。2007年春場所の前相撲で連勝して新序一番出世を果たす。2008年の名古屋場所は三段目で迎えたものの、一場所で陥落してしまった。
【玉新山(宮崎・片男波)】
梶原達夫、1986年3月24日生、2002年夏場所初土俵、186cm、133kg。
2007年は序二段に上がり、勝ち越しも経験した。
【男佑(都城・北の湖)】
濱崎健太郎、1981年2月11日生、1996年春場所初土俵、185cm、123kg。
2007年の名古屋場所は初めての幕下。
しかし、一場所で跳ね返された。
【千代の花(川南・九重)】
黒木秀貴、1975年12月5日生、1992年春場所初土俵、178cm、110kg。
2008年春場所で久々に幕下に上がるも、一場所で三段目に戻ってしまった。
得意な相撲は右四つ、上手投げ。
【時桜(国富・中村)】
鈴木時次郎、1989年7月10日生、2005年春場所初土俵、175cm、154kg。
期待の成長株。
最近は三段目の上位に定着してきた。次は幕下だ。
【二十城(都城・北の湖)】
武田孝二、1988年3月19日生、2003年春場所初土俵、183cm、135kg。
実力は序二段中位クラス。
【松葉山(日向・春日山)】
松葉敏志、1991年6月13日生、2007年春場所初土俵、180cm、121kg。
前相撲は3連敗で新序三番出世。
2008年名古屋場所は、序二段中位で勝ち越した。
【萬華城(宮崎・春日山)】
曹博、1990年2月10日生、2005年春場所初土俵、182cm、228kg。
現役でもベスト3、歴代でもベスト10に入る重量力士。
両親は中国出身、四股名は実家の中華料理店から取っている。
最近は三段目の壁に当たっている。
【都富士(小林・湊)】
齋藤利博、1988年6月27日生、2004年春場所初土俵、170cm、93kg。
宮崎出身では一番小さい。
3連続の勝ち越しで序二段の上位に上がったものの、
連続負け越しで下位に下がってきた。
【勇大(宮崎・陸奥)】
山﨑勇大、1989年9月7日生、2005年春場所初土俵、178cm、108kg。
中学卒業と同時に角界入り。
住吉中では野球をやっていた。
同期への対抗心は強い。次の目標は三段目。
行司
【木村行之介(宮崎・玉ノ井)】
福永幸敏、1973年7月26日生、1992年初場所初土俵、幕下格。
相撲3代行司を斜見からのお楽しみ
かけ声の「のこったのこった……」が
、「のこったのこったぞ、はっけよいのこったのこったぞ」となる。
順一を名乗っていた70年代前半に幕内取組の場内放送を担当。、
行司のかけ声の時とは違い、幕内土俵入りの力士紹介で「◯◯県出身、△△部屋」など明瞭で良く通る声が印象に残る。
第52代横綱北の富士が復活の優勝を全勝で遂げた
1972年9月場所千秋楽の幕内後半取組から表彰式までの場内放送を担当した。
同時期に28代木村庄之助が8代式守錦太夫時代、
三役格行司になる1973年頃まで場内放送を担当していた。
城之介時代の1980年5月場所4日目、
幕下の紫雲山-霧島(のち大関、現年寄陸奥)戦。
まわし待ったで二人のまわしを締め直した城之介が取組再開を合図し、
下げ緒の房を口にくわえ、肩に背負っていた軍配を持ち直した瞬間、
留め具が外れ円形の部分が抜け落ちて柄の部分だけになったため、
控えの行司木村孔一の軍配を借りて勝負を裁いたというエピソードがある。
宮崎県出身初の立行司ということで、式守伊之助襲名時に東国原英夫宮崎県知事から幟が贈られた。
また、戦後生まれで初の立行司ということになる。
初めて庄之助としての本場所となった2008年5月場所初日には
宮崎県の県章と出身地「延岡」の文字をあしらった模様の入った行司装束で、結びの横綱朝青龍-小結稀勢の里戦を裁いた
勝負は押し倒しで稀勢の里の勝ち。
同年5月23日に延岡市観光大使に任命。
立行司 第35代 木村 庄之助 立浪 宮 崎( 61 )
立行司 第38代 式守 伊之助 井筒 鹿児島( 60)
戦後6人目の番付書き手(H12春~19秋)、敏廣、
第35代 木村 庄之助
本名: 内田 順一
生年月日: 昭和21年10月29日(61歳)
出身地: 延岡市舞野町(昭和37年3月南方中学校卒業)
所属部屋: 立浪部屋
1962年 昭和37年5月 初土俵、木村順一
1966年 3月 改名、純一郎
1966年 9月 順一に戻す
1976年 3月 改名、旬一
1980年 5月 改名、城之介
1984年昭和59年1月 十両格昇格
1994年平成6年1月 幕内格昇格
2006年平成18年3月 三役格昇格
2007年平成19年5月 37代式守伊之助を襲名
2008年平成20年5月 35代木村庄之助を襲名
山本山が7勝!「たまたまです」
日本人関取最重量252キロの新十両山本山が、7勝1敗
単独トップをキープ。
現在、東十両12枚目。
優勝すれば、市原が平成19年九州場所で遂げた、
十両1場所通過での入幕も夢ではない
勝っても転んで負けても「ヤマモトヤマ!」。
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あと6904文字・・フッ!
落語・黄金餅の江戸を一気に駆け抜ける下りみたい
読んでる貴方もツカレタが書いてるあたしもツカレタ!
奇っ怪なるや・・水入りの大相撲。
巨人阪神3タテ。ウッ!
トップに躍進。
松坂18勝の日本人記録更新。
虫の音は諸外国では皆オナジでガチャガチャの雑音でしかナク聞き分け楽しむ耳を持たないらしい。
虫売りの街頭周りの職業があった時期代もある大和の国は
四季折々を季節にあわせて生活を楽しんできた日本にのみ伝わる文化がある。
大相撲は白黒ハッキリさせ楽しむが一方これほどウヤムニャで済んでるのもまた相撲でもある。
相撲は国技と言われるが確かに国技の明確なる規定が無いのも又日本流の国技の在り方。
欧米文化のスポーツは公平なる審判がイル。
今では選手もション便さえ自分を公平さで示す大事な証拠品の時代。
その世界のスポーツ界の大きな流れの中で突然千数百年前の
神事に乗っ取ったスポーツらしき戦いが繰り広げられる。
日本のスポーツには、ふさわしくない日本流のランクがある
、ある意味そこに限定すれば非民主的。
なによりもその場に競技を進める審判は凶器を持っている異常さ。
選手の一人の横綱なんかは日本刀を手下に持たせ一人は先導役と二人の子分付き。
歌舞伎に似ての見せ物でしか解決がつかない。
西洋文明の尺度に慣らされてるゆえスポーツの尺度では無理である。
やはり神事を発祥とした、五穀豊穣の瑞穂の国にのみ伝わる
お祭に即した残滓として考え無いと解決はつかなくあちこちに不都合が見受けられる。
柔道みたいにオリンピックに特化されていくと当然御本家の古来のファンからは
アレは柔道ではチョット違うと異論沸騰。当たり前の事だ。
幼少期庭の端には土俵があった。
川原村の神社の土俵は祭りの春秋用で神聖すぎてそう使えなく
庭のを利用していわば遊びとして相撲を取った。
明治初期はまだ封建時代の残滓の各種の柔術が盛ん。
スポーツにほど遠く命さえ落とす時期。
それを創意工夫大成して「術」を「道」に改め、心技一体の会得として
嘉納治五朗が講道館柔道に昇華した。
宮崎の人・磯貝一(はじめ)十段は普及振興に一生を捧げた功労者。
天覧試合は語り草。
スポーツとして国際化され当初からするとかなりルールも変わッテイル。
一瞥できる柔道着の着用の白のみが色分けの変遷にみてとれる。
ヒモで区分けしてたのに今ではカラーの柔道着で視覚的に区分けする。
どうもそこんとこからシックリなじめない。
団塊の世代は義務教育の体育の時間に習った柔剣道。今は受験道ナンだろう。
雨が降ると出来たての珍しき体育館が利用できる。
出来たてゆえ利用状況を伸ばせとのお上の要請も陰に日なたにあったことでもあろう。
民主主義に申し子教育初期ゆえ
「なんでも多数決の先生の意向」を知っている。
「運動場はつかえそうもないなぁ~」
・・・待ってたホイのホイのホイッ!・・
手を挙げ先生に好かれてる子に言わせる。
「多数決で決めたらインじゃぁないですか。」
「そうだなぁ~意見も出たことだし~~民主的にいこう!」
・・・間髪入れず素晴らしきそして微妙なるタイミングで言う。・・
「体育館で柔道!」
有無言わせぬ電光石火の民主的決めごと。
福田さんに教えたい。
指導力とやらのガキ大将維持の秘訣。
学校に伸張してきてた屋内競技のバレーボール、バスケットボールが
多数派を占めないように当然根回し票読みがしてある。
そのころの天気予報は発達してナク「宝くじと天気予報」と
当たらないモノの代名詞として揶揄された程である。
前々より風や雲の動きで自前での前日の天気予報で雨天を予測して
「オイ!明日の雨の体育の時間は・・柔道だぜ!わかってるな~。」
携帯もないのに知恵を絞り多数派形成の連絡済み。
お膳立ては済んでいる。
まぁ~最大派閥の町村派の森会長さんや読売ナベツネ、氏家日テレ
中曽根大勲位がチョロチョロやるようなモノ。
そもそも一国の総理リーダーを決めるのがそうなんである。
三木武夫や小渕も安倍、福田も今回の麻生もみんなア~そうジャン!
一国の宰相決めは出来レースの根回し済みの非民主的話し合い。
西洋文明ではこの黒子が事前に決め根回しの日本流文化を非民主的密室と呼ぶ。
敗戦後モデルなき初歩から形作ってきた日本流は
ボスの意向を方針にして決め勧めた傾向があらゆる場にあった。
柔道は一年間の体育時間の雨天の時一番授業が多かった。
可哀ソウなのは女子。
「そんなの、カマッチャァ~おられるカイ!」
「こっちらぁ~建国日本を作らねばならぬ強靱なる体、体躯を欲している!。」
「おんなは裁縫に料理の良妻賢母。教室で保健の本で生理がなんぞや訳のわからんものを
勉強してれば丁度いい。女子は男子より頭イイジャン!」
貶したり褒めたりでこの種の人種の操縦法はいつの世も世代も変わらない。
訳のわからん論理も話しの勢いと金科玉条の民主主義の原理らしき
多数決には頭が上がらない論理構成のシステム。
そこまでして学んだ白着の柔道着には愛着がある。
強さの証明は帯の色で流石に黒帯はいなかったが
茶色おび、緑おびと柔道部は流石であった。
杉田君は巨人。身の丈・・
金丸は巨体何貫目あったろう。
そいつらに勝つ目標もありフェアープレイで戦う楽しさがあった。
ゆえにいまの北京で見る柔道界は体験から異論があのは仕方ないこと。
ただ、国際化は全く視野にない幼児体験からの論評。
両手を指一本ずつ向かい合わせ胸の上で、ぐるぐる回し相手に指をさし・・「指導!」
当初笑って・・一時ギャグとして流行!
ポーズが酒席で大うけした時期さえあったほどだ。
正力松太郎は富山射水の人。高岡高・東大の頃の柔道の猛者。
昭和9年ベーブルース・ゲーリッグなどの大リーグを招へい。
翌年日本に初めて職業野球巨人軍を作った。
警察官僚を経て大震災の虐殺の反省や皇族警備の責任も取り
後藤新平の資金援助で読売新聞を買い取る。
そのご代議士転出・大臣を歴任。
この仕事ぶりから
プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも言われる。
正力、嘉納治五朗自体、病弱のいじめられっ子。
鍛えれば人を作る。
人はお国の宝。
ただし、やはり無宗教民族、裏を返せば無教養民族の有色人種ジャップ!と蔑まれてるが
敬虔なる神ノ国の仕きたりの宗教で生きている。
ゆえに不思議が生じる。
立て行司木村庄之助は最後の結びの一番のみを裁く。
第35代は宮崎の人・5月から務めている。
横綱・朝青龍(27)がまたも負けた。
途中足が出てた。
審判は見逃さない。。
3日目の雅山戦で早くも土が付いた。
そして注文相撲の安美錦戦。
昨日8日目豊ノ島戦
裁いた立行司・木村庄之助に土俵で
「残ってるよ」
と怒鳴ったという。
土俵際で寄りをこらえたそのとき、審判長の三保ケ関審判部副部長(元大関増位山)の右手が挙がった。
朝青龍の右かかとが俵を割ったと判定された。
後の逆襲は勝負ではない。
映像でも横綱のかかとが蛇の目の砂に触れている。
庄之助も目の前に行き確認している。
朝青龍は、土俵上で不満そうに審判長をにらみつけた。
間近で見ていた三保ケ関審判長
「蛇の目の砂がへこんでいた。負けは負け。おれをにらんでも仕方がない。目の前で見たんだから、
ビデオ確認なんてばかなこと言わないでよ」
と声を荒らげた。
新聞記事が踊る。
ブログから
支度部屋でも怒りは収まらない。
左ひじに巻かれたテープを投げ捨てると「ダーッ」と叫んで風呂場へ。まげを結い直す間に
「残ってると思ったんだよ。この野郎」
と悪態をつき、
「出てたの、出てないの。どっちなの」と報道陣に逆取材。
国技館を去る際には
「ビデオを見てねぇから分かんねぇけど、納得いかねぇ。
今の気持ちは真っ白。たまったもんじゃねぇよ」
とまくし立てた。とある。
ここまで増長するには7日までの異常なうごき伏線があった。
5勝3敗どこではない。もっと星は悪かった予想が立つ。
最も引退含みの休場であったろうが。
東前頭2枚目の稀勢の里(22)の出足を止めきれるか。が優劣を決める。
朝青龍の左手は土俵から10センチ以上は浮いている。
その浮いた左手で稀勢の里に強烈なのど輪をお見舞い。
完全な手付き不十分。
軍配を返した立行司・木村庄之助は待ったをかけない。
正面の貴乃花審判長も手を挙げない。
他の4人の審判も止めることはなかった。
立ち合いで浮いた左手で稀勢の里に強烈なのど輪をお見舞い
こうなれば、ドルジ横綱はお構いなし。
35代庄之助も「審判長が何も言ってませんでしたから」と手付きは十分との見解を示した。
ただ、放駒審判部長(元大関・魁傑)は今場所中に
「どうかなと思うものも止める」と示している。
3日目には同じ結びの白鵬対琴奨菊戦で微妙な手付きに審判から待ったがかかった。
庄之助は「昨日は審判が止めたけど、流れなので行司はなかなか止められない」。
4日目を終え幕内の全取組で手付き不十分での待ったは13番。
そのうち11番までが行司による待っただ。
データから見て行司が止められないという庄之助の言葉は疑問。
危ないぞ!庄之助!
取り締まりへの基準が審判部、行司の間で統一されていない現状が露呈した。
混乱する状況に力士のインタビュー記事
「お互いが両手を付いてから軍配を返せばいい」
と公平な基準を求めた。
理事長はこの日、
「今さら説明会なんかするのか。
横綱がそんなことをいうのは恥ずかしい。
立場を分かっていない」と一蹴。
6場所で1勝2敗と分の悪い4日目東前頭2枚目の稀勢の里(22)4日目
前場所負けてる7日目平幕栃乃洋(34)とここんところ負けてる力士に、
立ち会いの手をつかないフライング!
横綱が平幕から白星かっさらった疑惑の立ち会いだったがメッキは剥げる。
武蔵川新ホヤホヤ理事長(元横綱三重ノ海)の通達で、今場所から立ち合いの手つきが徹底されている。
朝青龍は負けて
、「急に言われても直らないよ。(場所が)終わってから
力士会で説明してもらわないと。こっちも分からない」と反論。議論を呼んでいた
安美錦戦では反抗するかのように大きな動作で手をついて立ったが、
目の前に相手はいなかった。
格下が注文相撲とは可笑しい
胸を借りる立場である。
心配なのは、目に見えない横綱の威光が消えつつあるところだ。
真っ向勝負を挑まれるのが当然だったのに、
注文相撲を仕掛けられたのもその証。
土俵で繰り広げられた異例のシーンは、横綱の品位、
ドルジ横綱はお構いなしでの斜陽を象徴している。
なんのいったって
裁くは08年5月場所よりの35代木村庄之助は大相撲の立行司。
宮崎の人・立浪部屋所属。
35代を襲名して最初に裁いたのが5月場所の
朝青龍-稀勢の里の結びの一番。
波乱ナク順調な初日であった。
ブログから
2008年5月場所初日
結びの行司は35代木村庄之助。
宮崎県の県章と出身地「延岡」の文字をあしらった模様の入った行司装束
相撲ファンは緊張している。
●若ノ鵬-琴欧洲○
右四つがっぷり。策を弄する間もなく、力の差がそのまま出て、琴欧洲寄り切りの勝ち。
○千代大海-旭天鵬●
突っ張って突っ張って、為す術なし。突き出しの勝ち。
●把瑠都-魁皇○
差し手争いもないまま左四つ。魁皇十分。寄り切りの勝ち。
通算900勝!
○琴光喜-黒海●
行司は38代式守伊之助。先場所までの勘太夫。
右上手をさっと取る。上手投げを打って下手出し投げ土俵に這う両者くるくる。大関陣全勝!
●朝赤龍-白鵬○
叩く白鵬、突く朝赤龍。最後は白鵬の叩きが決まる。叩き込みの勝ち。
●朝青龍-稀勢の里○
朝青張り差しをしている間に押して出ると腰砕け気味に尻餅をつく
上位安泰の中唯一の結びの波乱。
奇っ怪なる因縁はこの日から始まっていた。
両国における豊ノ島戦。
立て行司が力士から文句を言われる裁き。
35代木村庄之助(1946年10月29日- 本名:内田順一)は大相撲の立行司。
宮崎県延岡市出身、立浪部屋所属。
地元紙が伝える。
今から46年前の3月上旬、15歳の少年が中学校の卒業式を待たずに、母親と2人夜行列車に乗り込み古里延岡を後にした。
満員だったため1つの座席に交代で座った。
翌朝着いたのは大阪の行司部屋。
行司人生はこの日始まった。
行司にも番付があり
力士と違うのは、年功序列で出世していくということ。長い年月をかけて一歩一歩、階段を上っていく。
最初の3年は無給。そしてそれを含む10年間は、先輩行司の世話など下働きをしながらけいこ場に通い、
行司としての目を養った。
先輩の晩酌が終わるのを3、4時間正座して待ち続けたこともざらにあった。
「理不尽ないじめには閉口したものです」
と、県の季刊誌のインタビューで振り返っている。
さらりと言ってはいるが、いろんなことがあったのだろう
。辞めていった仲間は数知れず。
「挫折しそうなときは、故郷の人たちの顔を思い出し辛抱 した」。
22年後に夢に見た十両格、その10年後には幕内格に。2年前に三役格、昨年に立行司となり式守伊之助を襲名。
そしてついに行司の「東の正横綱」へと上り詰めた。
「式守伊之助とは責任の重さが格段に違う。
行司の第一人者として定年までの3年半、職を全うした い」と抱負を語る。
木村庄之助として夏場所の土俵に立つ。
「忍」の一字で築いた行司の頂点として・・
、
「はっけよい」の晴れ姿。
08年5月場所よりの35代木村庄之助(1946年10月29日- 本名:内田順一)は大相撲の立行司。宮崎の人
立浪部屋所属。
トップの判断で揺れていた相撲界
ご多分に漏れない派閥人事で弱小勢力が理事長に納まった不思議さ。
立ち会いの改革の基本から始めているので混乱が生じている。
ただ、幼児から楽しんできた団塊の世代にすれば当たり前。
立ち会いスバヤク動けるかどうかが勝敗を決める競技である。
両手つきはフェアーの基本。
出稼ぎで勝負のみのモンゴル人には民族の文化が解ってない。
自分のイル立ちあいを含めてそうである。
相撲部屋・立浪部屋
出羽海一門
出羽海部屋・武蔵川部屋・境川部屋・田子ノ浦部屋・春日野部屋・玉ノ井部屋・入間川部屋・千賀ノ浦部屋・三保ヶ関部屋・北の湖部屋・木瀬部屋・尾上部屋
二所ノ関一門
二所ノ関部屋・大嶽部屋・阿武松部屋・佐渡ヶ嶽部屋・尾車部屋・片男波部屋・間垣部屋・鳴戸部屋・松ヶ根部屋・荒磯部屋・花籠部屋・貴乃花部屋・放駒部屋・峰崎部屋・芝田山部屋
時津風一門
時津風部屋・湊部屋・式秀部屋・荒汐部屋・伊勢ノ海部屋・鏡山部屋・井筒部屋・陸奥部屋・錣山部屋
高砂一門
高砂部屋・東関部屋・中村部屋・錦戸部屋・九重部屋・八角部屋
立浪一門
立浪部屋・大島部屋・追手風部屋・伊勢ヶ濱部屋・高島部屋・宮城野部屋・友綱部屋・春日山部屋・桐山部屋・朝日山部屋
無派閥
高田川部屋
この時代錯誤の相撲の世界。行司も部屋に所属する。
特に異様なる行司という審判。
35代目庄之助は面白い。
やはり特徴としては独特のよーじや装束が挙げられる。
今まで行司さんの話題に装束のことが入ることは稀でしたが、この人の登場により、
大相撲ファン以外のよーじやファンの取り込みにも成功した。
大相撲を全く知らないという女性の間でもよーじやは認知度が高い。
また、故郷の宮崎県の県章や延岡マークをあしらった装束を最近は多用している。
このように装束のバリエーションとインパクトでは歴代の誰にもひけを取らない。。
また、土俵上でも礼をしたり軍配を上げたり、懸賞を呼び出しから
受け取る時の所作もとても綺麗。
8日目豊ノ島戦だけでなく一度テレビでチェックしてみてはいかがでしょう。
更に制限時間一杯のとき、右足をスーッと引いて「待ったなし」という所も必見。
幕内格に上がる頃までは「はっけよい」が聞かれませんでしたが、
三役格昇進前後から聞かれるようになる。
但し現在も一場所に1・2回は
「のほーったのほったのほっ」
だけの掛け声も聞くことが出来る。
装束、所作と、目に付きにくい様々なところに目を向けさせてくれる
よーじや装束は影を潜めているが、生まれ故郷ゆかりの装束は健在。
立行司に昇進して厳しき日々。
軍配裁きや機敏さにますます磨きがかかり、歴史的に名の残る名行司になりそうである。。
名も実も備えて誰からも親しまれる活躍が楽しみ。
相撲ファンの賛辞は続く。
、長岡(元大関朝潮=現高砂親方)の幕下付出での初土俵(1978年3月場所)や
貴花田(元横綱貴乃花=現貴乃花親方)が最年少幕下優勝(1989年夏場所)を決めた一番など
印象深い取り組みを裁かれた。
今回新調された冬用の装束は、紺色の生地に銀色の県章が入った西陣織で
、「以前から、三役格になったら県章をデザインした装束を着てみたいと思っていた」とのこと。
県章を入れた理由。
「郷土が好きだから。宮崎の名をアピールできれば」と。
実は、7月の名古屋場所では「延岡」の文字をデザインした夏用の装束も既に披露されてイル。
、
また、装束と合わせて目を引く軍配団扇。
後援会から贈られたという軍配団扇には
「決断一瞬」・
行司は、たとえ同体であっても、瞬時に判断し、どちらかに軍配を上げなければなら無い。
差し違いを繰り返すと降格処分を受けることもある。
行司における最高位の階級である立行司は、必ず短刀を差している・・、
これは、昔、行司が軍配を差し違えてしまった場合、切腹するという規則があったため(実際に切腹した行司はいない)、それくらい厳しい世界。
「決断一瞬」の4文字に行司の難しさ、責任の重さがぎっしり詰まっており、厳しい裁きとなる。
饒舌である。
今後活躍が期待される力士を尋ねと
「外国人力士優勢の中、日本人の若手力士にも頑張って欲しい」
稀勢の里(20歳)、豊真将(25歳)、普天王(26歳)の名前を挙げる。ガッテン!
大きさの秘訣は食にあり。
メタボなぞナンのソノ。
ちゃんこ鍋とは
本来、相撲力士の食事そのものの事を「ちゃんこ」と言うわけである。
それは相撲を行うための体格を身につけるために、鍋料理を食べることが多く、
大相撲の力士が食べる鍋料理のことを総称してちゃんこ鍋。
「ちゃんこ」の語源は?
その一 「ちゃん」が中国のことで「こ」が中国語で鍋のことだという説。
これは長崎で鉄製の大きな中華鍋を「チァングオ」と呼んでいて、長崎に巡業した力士が料理をその鍋で作ったことにより、
後に訛って「ちゃんこ」と呼ばれるようになったとのこと・・・
その二 親方と弟子の関係から親方を「父(ちゃん)」弟子を「子(こ)」と置き換え
師弟共に食べるものを「ちゃんこ」と呼ぶようになった説。
また当時に料理番をしていた古参の力士に対し、親しみも含めて「父公(ちゃんこう)」
と呼んでいた事も伝えられておるそうな。
行司の階級は、軍配の房の色と装束の菊とじの色で見分ける。
立て行司 庄之助・ ・ ・ 紫房、足袋、草履、短刀、印籠
立て行司 伊之助・ ・ ・ 紫白房、足袋、草履、短刀、印籠
三役格 ・ ・ ・ 緋房、足袋、草履、印籠
幕内格 ・ ・ ・紅白房、足袋
十両格 ・ ・ ・青白房、足袋
幕下以下 ・ ・ ・青房または黒房
三段目格、
序二段格
序の口格、
木村家は軍配を握るとき手の甲を=陰=上に向けるのに対し、
式守家は手の平=陽=を上に向ける。
草履は土俵上で履く専用のもので、控えに入るまでのものと区別している。
十両格以上の資格者となれば、力士と同じく幕下以下の行司が付き人としてつく。
以前は厳然たる年功序列の世界であったが、
第28代庄之助が三役格に昇進したときに3人抜きして以来、
現在は力量、品格等で兄弟子を追い越すこともたびたびある。
行司の役割としては、裁きのほかにも、番付 ・顔ぶれ書き、場内アナウンス、
"割り" ・勝負結果の"巻き"記帳、
所属する相撲部屋での書記・ 秘書的役割などがある。
現在の番付は幕内格行司 木村恵之助による。(戦後7人目の書き手)
軍配には紫の房、装束(直垂)は明治以後は紫の菊綴じを着用し、短刀を差す。
短刀は、差し違いをしたときには切腹する覚悟でのぞむという意味がある。
代々受け継がれている軍配(「ゆずり団扇」とも呼ぶ)は2本ある。
1本は、1面に「知進知退 随時出処」、もう1面に「冬則龍潜 夏則鳳挙」と記されており、13代庄之助以来のものである。
もう1本は白檀製で、1面に牡丹、もう1面に唐獅子の彫金が施されており、
1971年1月に宝塚市の清荒神清澄寺から贈られたものである。
ちなみに軍配は右手で持つのが原則であるが、現存する錦絵によると、
7代(とされている)庄之助のみは左利きのため、左手に軍配を持っていた(現在では禁止されている)。
なお代数に関しては、6代目が3代分の水増しを行い、自ら9代目を名乗ったとする説もあり、
現在でもはっきりしていない。
本場所では通常、結びの1番のみを合わせる。
ただし、千秋楽の優勝決定戦で庄之助が合わせることがあり、
このときには1日2番を担当している
過去には庄之助は1番限りということから、
優勝決定戦は伊之助が裁いていた時代もある。
巴戦では二人交互に裁いてるのをテレビで見た記憶がある。
大相撲の宮崎出身力士は19名。
阿部と川畑が今年の春場所でデビューし、
春日湖が夏場所後、岩永が名古屋場所後に引退した。
郷土力士。
【阿部(新富・陸奥)】
阿部健一郎、15歳、2008年春場所初土俵、169cm、119kg。
陸奥部屋の新富合宿がきっかけで入門した。
柔道の経験がある。
【安寿(都城・安治川)】
岩崎浩一郎、1979年5月10日生、1998年初場所初土俵、180cm、199kg。
現役では7番目に重い
。番付は序二段の下位を上下している。得意は右四つからの寄り。
【大瀬海(延岡・阿武松)】
安光義嗣、1977年5月18日生、1998年春場所初土俵、178cm、190kg。
現役では10番目の重量力士。力はあるものの、昨年までは怪我で番付を下げることが多かった。
2007年初場所は序二段で優勝した。
2008年の秋場所は序二段の上位で迎える。
【魁慎鵬(宮崎・友綱)】
井上慎也、1984年3月30日生、2002年春場所初土俵、178cm、115kg。
2007年の秋場所、初めての三段目で勝ち越してから、ジワジワと番付を上げてきた。
しかし、今年は壁に当たっている。
【春日国(小林・春日山)】
安冨勇太、1981年10月30日生、2000年春場所初土俵、182cm、150kg。
郷土力士では最上位で、2008年名古屋場所は幕下12枚目まで上がった。
得意は突き押し。
中継で「ハナ肇さんに似ている」と言われる。
横綱・白鵬の付き人として、よくテレビに映る。
【金井(日向・陸奥)】
金井武志、1988年1月27日生、2005年名古屋場所初土俵。
2006年は病気で番付外まで落ちた。
九州場所で前相撲を取って再出世。
2008年初場所で、やっと勝ち越した。
次の目標は序二段での勝ち越し。
【川畑(都城・錣山)】
川畑慶真、15歳、2008年春場所初土俵、169cm、107kg。錣山部屋では初めての郷土力士。
【幸の富士(宮崎・湊)】
西田寅人、1986年7月15日生、2002年春場所初土俵、176cm、126kg。
着実に番付を上げていて、2008年夏場所は、自己最高位の三段目東41枚目で迎えた。
【郡山(宮崎・三保ヶ関)】
郡山勇二、1971年8月8日生、1987年春場所初土俵、177cm、188kg。
宮崎出身では最古参で、今年はデビュー20周年にあたる。
膝の状態が良くなさそうだが、三段目で取れる力はまだある。
得意の形は右四つからの寄り。
【琴柏谷(延岡・佐渡ヶ嶽)】
柏谷充隆、1991年11月20日生、2007年春場所初土俵、175cm、97kg。延岡市の岡富中出身で、祖父は元十両の松恵山。わんぱく相撲で全国ベスト8の実績があり、佐渡ヶ嶽部屋からスカウトされた。2007年春場所の前相撲で連勝して新序一番出世を果たす。2008年の名古屋場所は三段目で迎えたものの、一場所で陥落してしまった。
【玉新山(宮崎・片男波)】
梶原達夫、1986年3月24日生、2002年夏場所初土俵、186cm、133kg。
2007年は序二段に上がり、勝ち越しも経験した。
【男佑(都城・北の湖)】
濱崎健太郎、1981年2月11日生、1996年春場所初土俵、185cm、123kg。
2007年の名古屋場所は初めての幕下。
しかし、一場所で跳ね返された。
【千代の花(川南・九重)】
黒木秀貴、1975年12月5日生、1992年春場所初土俵、178cm、110kg。
2008年春場所で久々に幕下に上がるも、一場所で三段目に戻ってしまった。
得意な相撲は右四つ、上手投げ。
【時桜(国富・中村)】
鈴木時次郎、1989年7月10日生、2005年春場所初土俵、175cm、154kg。
期待の成長株。
最近は三段目の上位に定着してきた。次は幕下だ。
【二十城(都城・北の湖)】
武田孝二、1988年3月19日生、2003年春場所初土俵、183cm、135kg。
実力は序二段中位クラス。
【松葉山(日向・春日山)】
松葉敏志、1991年6月13日生、2007年春場所初土俵、180cm、121kg。
前相撲は3連敗で新序三番出世。
2008年名古屋場所は、序二段中位で勝ち越した。
【萬華城(宮崎・春日山)】
曹博、1990年2月10日生、2005年春場所初土俵、182cm、228kg。
現役でもベスト3、歴代でもベスト10に入る重量力士。
両親は中国出身、四股名は実家の中華料理店から取っている。
最近は三段目の壁に当たっている。
【都富士(小林・湊)】
齋藤利博、1988年6月27日生、2004年春場所初土俵、170cm、93kg。
宮崎出身では一番小さい。
3連続の勝ち越しで序二段の上位に上がったものの、
連続負け越しで下位に下がってきた。
【勇大(宮崎・陸奥)】
山﨑勇大、1989年9月7日生、2005年春場所初土俵、178cm、108kg。
中学卒業と同時に角界入り。
住吉中では野球をやっていた。
同期への対抗心は強い。次の目標は三段目。
行司
【木村行之介(宮崎・玉ノ井)】
福永幸敏、1973年7月26日生、1992年初場所初土俵、幕下格。
相撲3代行司を斜見からのお楽しみ
かけ声の「のこったのこった……」が
、「のこったのこったぞ、はっけよいのこったのこったぞ」となる。
順一を名乗っていた70年代前半に幕内取組の場内放送を担当。、
行司のかけ声の時とは違い、幕内土俵入りの力士紹介で「◯◯県出身、△△部屋」など明瞭で良く通る声が印象に残る。
第52代横綱北の富士が復活の優勝を全勝で遂げた
1972年9月場所千秋楽の幕内後半取組から表彰式までの場内放送を担当した。
同時期に28代木村庄之助が8代式守錦太夫時代、
三役格行司になる1973年頃まで場内放送を担当していた。
城之介時代の1980年5月場所4日目、
幕下の紫雲山-霧島(のち大関、現年寄陸奥)戦。
まわし待ったで二人のまわしを締め直した城之介が取組再開を合図し、
下げ緒の房を口にくわえ、肩に背負っていた軍配を持ち直した瞬間、
留め具が外れ円形の部分が抜け落ちて柄の部分だけになったため、
控えの行司木村孔一の軍配を借りて勝負を裁いたというエピソードがある。
宮崎県出身初の立行司ということで、式守伊之助襲名時に東国原英夫宮崎県知事から幟が贈られた。
また、戦後生まれで初の立行司ということになる。
初めて庄之助としての本場所となった2008年5月場所初日には
宮崎県の県章と出身地「延岡」の文字をあしらった模様の入った行司装束で、結びの横綱朝青龍-小結稀勢の里戦を裁いた
勝負は押し倒しで稀勢の里の勝ち。
同年5月23日に延岡市観光大使に任命。
立行司 第35代 木村 庄之助 立浪 宮 崎( 61 )
立行司 第38代 式守 伊之助 井筒 鹿児島( 60)
戦後6人目の番付書き手(H12春~19秋)、敏廣、
第35代 木村 庄之助
本名: 内田 順一
生年月日: 昭和21年10月29日(61歳)
出身地: 延岡市舞野町(昭和37年3月南方中学校卒業)
所属部屋: 立浪部屋
1962年 昭和37年5月 初土俵、木村順一
1966年 3月 改名、純一郎
1966年 9月 順一に戻す
1976年 3月 改名、旬一
1980年 5月 改名、城之介
1984年昭和59年1月 十両格昇格
1994年平成6年1月 幕内格昇格
2006年平成18年3月 三役格昇格
2007年平成19年5月 37代式守伊之助を襲名
2008年平成20年5月 35代木村庄之助を襲名
山本山が7勝!「たまたまです」
日本人関取最重量252キロの新十両山本山が、7勝1敗
単独トップをキープ。
現在、東十両12枚目。
優勝すれば、市原が平成19年九州場所で遂げた、
十両1場所通過での入幕も夢ではない
勝っても転んで負けても「ヤマモトヤマ!」。
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あと6904文字・・フッ!
落語・黄金餅の江戸を一気に駆け抜ける下りみたい
読んでる貴方もツカレタが書いてるあたしもツカレタ!
奇っ怪なるや・・水入りの大相撲。
巨人阪神3タテ。ウッ!
トップに躍進。
松坂18勝の日本人記録更新。
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