惜別
2008年5月20日今日の誕生日の花は・・・・シラネアオイ
花言葉は・・・・優美
シラネアオイ科のこのハナは日本だけにあり大きな淡い紅の花をさす。
傾斜地に見られる多年草。
季節は初夏。
あふれんばかりに空が大地がはしゃいでいる。
この国の人は子育てに神の使いを例えみるまた慈悲深い仏教徒の国でもある。
これでは、軒端のお客さんのつばめも子育てに一生懸命となろう。
巣の下の糞には閉口するが致し方ないと仏教徒は仏を見る。
「やだぁ〜早く新聞紙を巣の下に敷かんか!」
いやいやながらも新聞紙を取り替える。
「あ〜あ〜臭い!くさい!もぉ〜いっぱい・・して〜・・」
「もぉ〜紙からはみ出して・・畳に落としちょる!バカぁ〜!」
グローバル化にない癒しを兼ね備えた日本人の季節に合った生活環境の
季節季節に生きる豊穣の国の雨多き時期の人を鍛え成長する楽しみの季節でも有る。
子つばめの こぼれんばかり こぼれざる
子沢山の家之子は、そこ深い人を作りその人材を輩出した。
高学歴社会の今の人に欠けてる一番の問題。
狭き国土、資源無き国の人の生きる道の基本形がある。
目を凝らせばこの国総て学びの場。
早稲田の斎藤のケガ退場。
、残したランナーをホームに迎え入れての明治の一点もいい。
斎藤に敗戦投手の一敗地を与えた明治の精神。
心の何処かにある驕り、横着さの鼻を折られいい教訓となろう。
妬みではない。
将来が大きいゆえにこそ言っている自分磨きノ場。
六大学野球は人を作る野球の目的の原点である。
直木賞作家・村山由佳はモスクワ〜ウラジオストック鉄路1万キロ1週間を
1ヶ月で旅した。
父が敗戦後に4年の強制労働の経験の追体験をする旅をしたからである。
極寒の地での父の4年間の強制労働の跡地に立ちおぞましさを知る。
人が人として幸せにあるために最低限必要なものとの命題を問う。
・・・お金
・・・信ずるイデオロギー
・・・守っくれる国力
・・・愛してくれる誰かの存在
・・自由である事。
直木賞に輝いた「星々の船」の作品にそれは昇華した。
恋であり人と人が作る星座すなわち家族であり、流れる歴史をモチーフとしてある。
自由は突き詰めれば孤独であることに耐えなくては成らない。
ゆえに個人の日々を書けず日常を無視した、社会現象のみに限定した
備忘録的写書しか方法はない。
それさえも支障があったが解消していただいた。
ブログを書くことが自由になった。
ご理解を賜ったようで気になってた、せきやんの・・などとせきやんブログ評論のブログが消えた。
感謝感謝の雨あられ。
せきやんブログこれで自由である。
ほんとうにありがとう。
ただただ・・・まだまだ総てから開放されたわけではない。
これからも思うことを総て書けない実に辛き長き苦難は続く。
生きてる様そのままの沈黙の天蓋、俗世間の地獄の日々。
死屍たるままの蓋棺録。
爺のせきやんが嫌われる理由の一つにしゃべりの術がないのがある。
しゃべりの術とは無口でなく、その逆でお話しすぎ。
お喋り、よって説明が長すぎる。
マァ〜地獄の100日以上を耐えたゆえの身の保全振りでより板についたのか
この辛き地獄の体験の積み上げがあればこそゆえ、いたしかたない。
ラジオからのおしゃべりに憧れた人がいた。
新聞が詳しく教えてくれた。
「声の軽機関銃」「アレグロ・コン・フォコ(情熱的に速く)」とも呼ばれた。
歯切れよく速いテンポで的確なアナウンスの志村正順のことである。
その往年の名アナウンサー・が逝った。
94歳で昨年12月1日に亡くなったことが5か月近くもたってやっと報じられた。
長島茂雄も王貞治も弔慰をよせている。
長島の村山実から打った天覧試合のホームランもこの人のアナウンス・司会であった。
ところがそれどころではない。そんなもんじゃぁない。
巨人の沢村栄治投手も横綱双葉山も、昭和18年10月の神宮外苑・出陣学徒壮行会も描写してるというから驚きだ。
戦後、復活したプロ野球のラジオ放送は志村アナの全盛期。
相撲は神風、野球では小西得郎を解説者に迎え、現在のスポーツ放送の原型をつくった。
「プロ野球監督列伝」(新潮社)近藤唯之の著
1955年6月7日の巨人―中日戦である。
杉下茂投手の球が打者、藤尾茂選手の下っ腹を直撃した。
実況の志村正順アナウンサーは
「当たりました。なんと藤尾の“き…”」と言って絶句した
志村アナは机の下で隣の解説者、小西得郎氏の靴をけ蹴った。
「“き…”」の続きはあなたが言え、という。
二度、三度と蹴る。
「何と申しましょうか」の小西節はこうして生まれた
とある
急所の「き」やら、何の「き」やら、二人の呼吸がたの愉しい。
相撲解説者、神風正一さんとの名コンビといい、「声の軽機関銃」と評された実況の名手は
掛け合いの手練れでもあったろう
「志村正順のような血沸き肉躍るスポーツ中継は空前絶後」の評がある
随筆家岡部伊都(いつ)子は85歳で亡くなった。
初恋の人は沖縄戦へ軍国乙女として送り出し
こんな戦争で死ぬのは嫌だと聞いて「加害の女」と自分を生涯責めた。
果物や花や1粒の米にも等しく感じた命について、思うままに綴った。
130冊を超える著書
「履歴」は「病歴」でしかなかったわが人生と書いた壮絶なる日々。
、長くは生きられないだろうと言われて育ち、幼いころから体が弱く
もろもろの命と向き合った85年間であった。
自伝「遺言のつもりで」
「いまは、ただ感謝と喜びがあるばっかりや。ありがとう、ありがとう」
「私がいる場所が常にテレビジョンだと思っている。」
メディアプロヂューサーの草分け村木良彦が逝った。
テレビマンユニオンを70年創設
カンヌ「誰も知らない」是枝裕和監督は弟子を任じるデレクターでも有る。
追討番組デレクターを勤めるは是枝。
BS−1、7日午後7時
TBS19日午前一時20分
テレビが一番輝いていたのは「あの時だったかもしれない」
60年代に焦点が当てられる。
萩元晴彦との軌跡2人が共同演出
ドキュメンタリー「あなたは」66年
萩元の政治問題にもなった「日の丸67年」
村木良彦の・・・ 「ハノイ田英夫の証言」
も織り交ぜインタビューした映像が流れる。可能性を探る。
いまテレビは
「どこに向かおうとしてるのか。
「村木さんの作品群に耳を傾けながら考えたい」
是枝
「ドキュメンタリー枠は減ってるがテレビとは何かを問いつづけた意志は引き継がれている。
ご冥福をお祈りせずにはいられない。
ドリフを演出したテレビ人も逝った。
え^〜と・・誰だったか・・次回に譲る。
日本の子供達はすべからずこの人に接している。
埼玉浦和の旧家に1907年生まれ日本女子大を経て1929年菊池寛の知遇を得る。
犬養毅首相邸の書庫整理でAAミルン「プー横丁にたった家」の原著に出会う。
「熊のプーさん」は1940年岩波書店から刊行された。
5・15の原体験で孫犬養康彦も家族同様の死を惜しむ。
1958年荻窪に児童図書館「かつら文庫」開設。
一番乗りは阿川弘之の息子尚之佐和子。
96歳でミルンの自伝「今からでは遅すぎる」の自伝を翻訳。
石井桃子をしらない?・・児童文学書にふれまして・・
「うさこちゃん」「ノンちゃん雲に乗る」・・
4月2日逝った。
イレナー・センドラーはポーランド人の福祉家。
日本ではあまり知られていない。
日本のお家芸のハズの義の人ゆえか。
先週静かに逝った。
ナチスの虐殺は600万人だが子供はそのうち100万人。
ドイツ人実業家は1000人を救った。
日本人杉原千畝は6000人を逃がした。
そしてイレナ・センドラーは2500人を救った。
ワルシャワ・ゲットー=ユダヤ人居留区の子供を
福祉局員の立場で自由出入りできるので逃走させる組織と共同で一人一人逃がした。
孤児院、修道院に匿い虐殺強奪から逃がした。
43年逮捕。
逃がした子ラの名前の紙を隠した場所を迫られる。
「逃走させた組織その、内容を言うぐらいなら迷わず死を選ぶ」
「私は少しの子しか助けられず今も良心の呵責に苛まされ続けている。」
・・・女だって義は通すんである。・・ことを知った。
狂気の時期、命を賭し貫いた義の記憶を刻んでいたい。
作詞家川内康範、作家小川国夫、杉田力之みずほ社長。
俳優チャルトン・ヘストン・・時間がない。
諸先輩方々のご冥福をお祈りいたします。
雨は湿っぽくさせる。
やはり黒沢の偉大さ、ミュージカルの雨の作品群は実にいい。
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花言葉は・・・・優美
シラネアオイ科のこのハナは日本だけにあり大きな淡い紅の花をさす。
傾斜地に見られる多年草。
季節は初夏。
あふれんばかりに空が大地がはしゃいでいる。
この国の人は子育てに神の使いを例えみるまた慈悲深い仏教徒の国でもある。
これでは、軒端のお客さんのつばめも子育てに一生懸命となろう。
巣の下の糞には閉口するが致し方ないと仏教徒は仏を見る。
「やだぁ〜早く新聞紙を巣の下に敷かんか!」
いやいやながらも新聞紙を取り替える。
「あ〜あ〜臭い!くさい!もぉ〜いっぱい・・して〜・・」
「もぉ〜紙からはみ出して・・畳に落としちょる!バカぁ〜!」
グローバル化にない癒しを兼ね備えた日本人の季節に合った生活環境の
季節季節に生きる豊穣の国の雨多き時期の人を鍛え成長する楽しみの季節でも有る。
子つばめの こぼれんばかり こぼれざる
子沢山の家之子は、そこ深い人を作りその人材を輩出した。
高学歴社会の今の人に欠けてる一番の問題。
狭き国土、資源無き国の人の生きる道の基本形がある。
目を凝らせばこの国総て学びの場。
早稲田の斎藤のケガ退場。
、残したランナーをホームに迎え入れての明治の一点もいい。
斎藤に敗戦投手の一敗地を与えた明治の精神。
心の何処かにある驕り、横着さの鼻を折られいい教訓となろう。
妬みではない。
将来が大きいゆえにこそ言っている自分磨きノ場。
六大学野球は人を作る野球の目的の原点である。
直木賞作家・村山由佳はモスクワ〜ウラジオストック鉄路1万キロ1週間を
1ヶ月で旅した。
父が敗戦後に4年の強制労働の経験の追体験をする旅をしたからである。
極寒の地での父の4年間の強制労働の跡地に立ちおぞましさを知る。
人が人として幸せにあるために最低限必要なものとの命題を問う。
・・・お金
・・・信ずるイデオロギー
・・・守っくれる国力
・・・愛してくれる誰かの存在
・・自由である事。
直木賞に輝いた「星々の船」の作品にそれは昇華した。
恋であり人と人が作る星座すなわち家族であり、流れる歴史をモチーフとしてある。
自由は突き詰めれば孤独であることに耐えなくては成らない。
ゆえに個人の日々を書けず日常を無視した、社会現象のみに限定した
備忘録的写書しか方法はない。
それさえも支障があったが解消していただいた。
ブログを書くことが自由になった。
ご理解を賜ったようで気になってた、せきやんの・・などとせきやんブログ評論のブログが消えた。
感謝感謝の雨あられ。
せきやんブログこれで自由である。
ほんとうにありがとう。
ただただ・・・まだまだ総てから開放されたわけではない。
これからも思うことを総て書けない実に辛き長き苦難は続く。
生きてる様そのままの沈黙の天蓋、俗世間の地獄の日々。
死屍たるままの蓋棺録。
爺のせきやんが嫌われる理由の一つにしゃべりの術がないのがある。
しゃべりの術とは無口でなく、その逆でお話しすぎ。
お喋り、よって説明が長すぎる。
マァ〜地獄の100日以上を耐えたゆえの身の保全振りでより板についたのか
この辛き地獄の体験の積み上げがあればこそゆえ、いたしかたない。
ラジオからのおしゃべりに憧れた人がいた。
新聞が詳しく教えてくれた。
「声の軽機関銃」「アレグロ・コン・フォコ(情熱的に速く)」とも呼ばれた。
歯切れよく速いテンポで的確なアナウンスの志村正順のことである。
その往年の名アナウンサー・が逝った。
94歳で昨年12月1日に亡くなったことが5か月近くもたってやっと報じられた。
長島茂雄も王貞治も弔慰をよせている。
長島の村山実から打った天覧試合のホームランもこの人のアナウンス・司会であった。
ところがそれどころではない。そんなもんじゃぁない。
巨人の沢村栄治投手も横綱双葉山も、昭和18年10月の神宮外苑・出陣学徒壮行会も描写してるというから驚きだ。
戦後、復活したプロ野球のラジオ放送は志村アナの全盛期。
相撲は神風、野球では小西得郎を解説者に迎え、現在のスポーツ放送の原型をつくった。
「プロ野球監督列伝」(新潮社)近藤唯之の著
1955年6月7日の巨人―中日戦である。
杉下茂投手の球が打者、藤尾茂選手の下っ腹を直撃した。
実況の志村正順アナウンサーは
「当たりました。なんと藤尾の“き…”」と言って絶句した
志村アナは机の下で隣の解説者、小西得郎氏の靴をけ蹴った。
「“き…”」の続きはあなたが言え、という。
二度、三度と蹴る。
「何と申しましょうか」の小西節はこうして生まれた
とある
急所の「き」やら、何の「き」やら、二人の呼吸がたの愉しい。
相撲解説者、神風正一さんとの名コンビといい、「声の軽機関銃」と評された実況の名手は
掛け合いの手練れでもあったろう
「志村正順のような血沸き肉躍るスポーツ中継は空前絶後」の評がある
随筆家岡部伊都(いつ)子は85歳で亡くなった。
初恋の人は沖縄戦へ軍国乙女として送り出し
こんな戦争で死ぬのは嫌だと聞いて「加害の女」と自分を生涯責めた。
果物や花や1粒の米にも等しく感じた命について、思うままに綴った。
130冊を超える著書
「履歴」は「病歴」でしかなかったわが人生と書いた壮絶なる日々。
、長くは生きられないだろうと言われて育ち、幼いころから体が弱く
もろもろの命と向き合った85年間であった。
自伝「遺言のつもりで」
「いまは、ただ感謝と喜びがあるばっかりや。ありがとう、ありがとう」
「私がいる場所が常にテレビジョンだと思っている。」
メディアプロヂューサーの草分け村木良彦が逝った。
テレビマンユニオンを70年創設
カンヌ「誰も知らない」是枝裕和監督は弟子を任じるデレクターでも有る。
追討番組デレクターを勤めるは是枝。
BS−1、7日午後7時
TBS19日午前一時20分
テレビが一番輝いていたのは「あの時だったかもしれない」
60年代に焦点が当てられる。
萩元晴彦との軌跡2人が共同演出
ドキュメンタリー「あなたは」66年
萩元の政治問題にもなった「日の丸67年」
村木良彦の・・・ 「ハノイ田英夫の証言」
も織り交ぜインタビューした映像が流れる。可能性を探る。
いまテレビは
「どこに向かおうとしてるのか。
「村木さんの作品群に耳を傾けながら考えたい」
是枝
「ドキュメンタリー枠は減ってるがテレビとは何かを問いつづけた意志は引き継がれている。
ご冥福をお祈りせずにはいられない。
ドリフを演出したテレビ人も逝った。
え^〜と・・誰だったか・・次回に譲る。
日本の子供達はすべからずこの人に接している。
埼玉浦和の旧家に1907年生まれ日本女子大を経て1929年菊池寛の知遇を得る。
犬養毅首相邸の書庫整理でAAミルン「プー横丁にたった家」の原著に出会う。
「熊のプーさん」は1940年岩波書店から刊行された。
5・15の原体験で孫犬養康彦も家族同様の死を惜しむ。
1958年荻窪に児童図書館「かつら文庫」開設。
一番乗りは阿川弘之の息子尚之佐和子。
96歳でミルンの自伝「今からでは遅すぎる」の自伝を翻訳。
石井桃子をしらない?・・児童文学書にふれまして・・
「うさこちゃん」「ノンちゃん雲に乗る」・・
4月2日逝った。
イレナー・センドラーはポーランド人の福祉家。
日本ではあまり知られていない。
日本のお家芸のハズの義の人ゆえか。
先週静かに逝った。
ナチスの虐殺は600万人だが子供はそのうち100万人。
ドイツ人実業家は1000人を救った。
日本人杉原千畝は6000人を逃がした。
そしてイレナ・センドラーは2500人を救った。
ワルシャワ・ゲットー=ユダヤ人居留区の子供を
福祉局員の立場で自由出入りできるので逃走させる組織と共同で一人一人逃がした。
孤児院、修道院に匿い虐殺強奪から逃がした。
43年逮捕。
逃がした子ラの名前の紙を隠した場所を迫られる。
「逃走させた組織その、内容を言うぐらいなら迷わず死を選ぶ」
「私は少しの子しか助けられず今も良心の呵責に苛まされ続けている。」
・・・女だって義は通すんである。・・ことを知った。
狂気の時期、命を賭し貫いた義の記憶を刻んでいたい。
作詞家川内康範、作家小川国夫、杉田力之みずほ社長。
俳優チャルトン・ヘストン・・時間がない。
諸先輩方々のご冥福をお祈りいたします。
雨は湿っぽくさせる。
やはり黒沢の偉大さ、ミュージカルの雨の作品群は実にいい。
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