日仏150年
2008年4月24日昨日降った雨は上がり、宮崎の空が蘇っている。
風がやや強く、冷たささえあり、心地よい。
勿忘草が今日の誕生日の花。
それゆえではなかろうが早朝の朦朧たる記憶で始めている。
今年の7月パリ祭は尋常ではなかろう。
1858年(安政5年)日仏修好条約から150年。
片田舎の宮崎でさえ目を凝らせばいろんな行事が繰り広げられている。
いわんや他県をば。
宮崎歓楽街のニシタチにソファレド・パリなるシャソン専門店には
高英男、越地吹雪、三輪明宏・・・名だたるシャソニェストが
ほんとに狭き店で唄い、贅沢な時間が過ごせたが今はなきゆえ、どうなるんであろう。
宮崎日仏協会の後援会の日程のみは聞いている。
正常なる初期の国と国の関係はお互いの互恵から始まる。
不幸なる歴史の真実は侵略からが多くをしめてはいるがこの国はそうではなかった。
大陸からのそのときの軍には二回の神風が吹いて博多湾に鎮めた神の国。元寇である。
世界の超先進国・仏国と日本は、シルク=蚕の日本側からの提供から、その見返りに仏国
の産業技術がもたらされた。
仏人サバチィーは趣味の植物から静岡のイチゴ、山形のサクランボ等をもたらした。
14代将軍家茂の語られてない殖産興業への開明の取り組みである。
近代国家作りの横須賀の造船所の建設は世界の海の支配者露国バルチック艦隊を破る
驚きを全世界に知らしめた。
終戦の話し合いのポーツマスには宮崎の人外務大臣小村寿太郎が総てを取り仕切った。
樺太の半分、戦争賠償金で世界の舞台に日本が出るきっかけとなった。
、その後の富岡製糸工場建設に連なる仏国の最高スタッフでの指導で成就していく。
幕末での仏国は18人の軍事顧問団のシャヌアール大佐は1年半も幕府軍を指導した。
戊辰戦争で仏国は中立扱いだが、榎本武揚に付き添い孤軍奮闘の武士道を示した函館共和国はつとに有名。
プリーネイ大佐カズブルら5人は函館幕府の松平太郎土方歳三とともに半年間、
通訳田島を介して政府軍と闘った。
絹蚕移転技術造船製鉄には超エリートが派遣された。
日仏の150年で一番幸せな時期にあたろう。
国家プロジェクトの明治9年富岡工場は
製糸に付加価値をつける。大いなる国家建設に貢献した。
布地産業は新興企業で政治状況から英国の領域を考え合わせると異様なることでもある。
官軍は英国と結びついての明治維新の歴史が合ったからである。
ブリュナーは横浜居留での買い付け商売人。
品質状態がわかる製糸の専門。
水、石炭機材買い付けが用ゆえ富岡を選んだ。
二人の技師5人の女工が新しき建築の富岡製糸工場にいった。
富岡製糸工場の設計はバスチェン。
地震対策のレンガ、柱の工夫、セメントと石の建材物質とはじめてづくし。
これには忘れ得ぬ仏国人の尽力があった。
公司ロッシュ。
「日本は低い階層でも感嘆するほどの礼節を重んじる国。
優秀なる専門官を送り込め!
善意のすべてを仏国は実施した。」
富岡の職員採用には二の足を踏んだ日本人。
明治5年400人に応募が少ない。
石炭のばい煙の煙突の煙からの噂、ワインノ飲酒は人の鮮血を飲んでいる。
明治6年明治天皇もご巡幸。
状況を錦絵で伺い知れる。
・・・
はかま姿の高潔なるお嬢さん。
極東一の近代化施設
・・・・・
同様に20軒ほど建設された。
リュナーら16人ぐらいの仏国人が携わった。。
富岡製糸工場は石建物保存のユネスコに登録されている。
ジャパニズムが仏国に与えた影響は大である
広重、北斎、歌麿・・
廃仏毀釈が日本文化の断絶と嘆くのには
共通の土俵である事を感じた。
ラジオ深夜便から興してみた。
クリスチャン・ポラックは
1950年ピレネー地方生まれ。
71年留学37年間日本にいる大の日本ファン。
先の相撲に詳しき日本贔屓の大統領のように大和の国に造詣が深い。
風がやや強く、冷たささえあり、心地よい。
勿忘草が今日の誕生日の花。
それゆえではなかろうが早朝の朦朧たる記憶で始めている。
今年の7月パリ祭は尋常ではなかろう。
1858年(安政5年)日仏修好条約から150年。
片田舎の宮崎でさえ目を凝らせばいろんな行事が繰り広げられている。
いわんや他県をば。
宮崎歓楽街のニシタチにソファレド・パリなるシャソン専門店には
高英男、越地吹雪、三輪明宏・・・名だたるシャソニェストが
ほんとに狭き店で唄い、贅沢な時間が過ごせたが今はなきゆえ、どうなるんであろう。
宮崎日仏協会の後援会の日程のみは聞いている。
正常なる初期の国と国の関係はお互いの互恵から始まる。
不幸なる歴史の真実は侵略からが多くをしめてはいるがこの国はそうではなかった。
大陸からのそのときの軍には二回の神風が吹いて博多湾に鎮めた神の国。元寇である。
世界の超先進国・仏国と日本は、シルク=蚕の日本側からの提供から、その見返りに仏国
の産業技術がもたらされた。
仏人サバチィーは趣味の植物から静岡のイチゴ、山形のサクランボ等をもたらした。
14代将軍家茂の語られてない殖産興業への開明の取り組みである。
近代国家作りの横須賀の造船所の建設は世界の海の支配者露国バルチック艦隊を破る
驚きを全世界に知らしめた。
終戦の話し合いのポーツマスには宮崎の人外務大臣小村寿太郎が総てを取り仕切った。
樺太の半分、戦争賠償金で世界の舞台に日本が出るきっかけとなった。
、その後の富岡製糸工場建設に連なる仏国の最高スタッフでの指導で成就していく。
幕末での仏国は18人の軍事顧問団のシャヌアール大佐は1年半も幕府軍を指導した。
戊辰戦争で仏国は中立扱いだが、榎本武揚に付き添い孤軍奮闘の武士道を示した函館共和国はつとに有名。
プリーネイ大佐カズブルら5人は函館幕府の松平太郎土方歳三とともに半年間、
通訳田島を介して政府軍と闘った。
絹蚕移転技術造船製鉄には超エリートが派遣された。
日仏の150年で一番幸せな時期にあたろう。
国家プロジェクトの明治9年富岡工場は
製糸に付加価値をつける。大いなる国家建設に貢献した。
布地産業は新興企業で政治状況から英国の領域を考え合わせると異様なることでもある。
官軍は英国と結びついての明治維新の歴史が合ったからである。
ブリュナーは横浜居留での買い付け商売人。
品質状態がわかる製糸の専門。
水、石炭機材買い付けが用ゆえ富岡を選んだ。
二人の技師5人の女工が新しき建築の富岡製糸工場にいった。
富岡製糸工場の設計はバスチェン。
地震対策のレンガ、柱の工夫、セメントと石の建材物質とはじめてづくし。
これには忘れ得ぬ仏国人の尽力があった。
公司ロッシュ。
「日本は低い階層でも感嘆するほどの礼節を重んじる国。
優秀なる専門官を送り込め!
善意のすべてを仏国は実施した。」
富岡の職員採用には二の足を踏んだ日本人。
明治5年400人に応募が少ない。
石炭のばい煙の煙突の煙からの噂、ワインノ飲酒は人の鮮血を飲んでいる。
明治6年明治天皇もご巡幸。
状況を錦絵で伺い知れる。
・・・
はかま姿の高潔なるお嬢さん。
極東一の近代化施設
・・・・・
同様に20軒ほど建設された。
リュナーら16人ぐらいの仏国人が携わった。。
富岡製糸工場は石建物保存のユネスコに登録されている。
ジャパニズムが仏国に与えた影響は大である
広重、北斎、歌麿・・
廃仏毀釈が日本文化の断絶と嘆くのには
共通の土俵である事を感じた。
ラジオ深夜便から興してみた。
クリスチャン・ポラックは
1950年ピレネー地方生まれ。
71年留学37年間日本にいる大の日本ファン。
先の相撲に詳しき日本贔屓の大統領のように大和の国に造詣が深い。
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