将軍様の行列

2008年4月5日
明治大学での小栗上野介の企画展が
その人望から意外なことになった5日のことである。

小栗上野介(1827〜68)〉忠順(ただまさ)は以前に書いてきた幕末の英傑。
日米修好通商条約批准のため渡米、世界を一周して帰国。
知行地の権田村(群馬県高崎市)で官軍に殺された。

ただ、勘定奉行として横須賀製鉄所建設の功績を残し日本の礎を気づいた陰の立役者。

横須賀港の造船所が
「完成するまで幕府はあるのか」
小栗上野介答えていわく、
「幕府の運命に限りがあるとも、日本国の運命には限りがない」。

世界一のバルチック艦隊を破って日露戦争を勝利に導いたのは
幕末幕府の最後の勘定奉行に負うところが大である。
幕臣小栗上野介は反対を押し切り横須賀港を開き造船所を建設した。

ロシア・艦隊を迎えるに当たり、海軍は艦隊を横須賀造船所でオーバーホールして迎え撃った。
遠くヨーロッパ経由で望んださしものバルチック艦隊も日本海軍の前に敗北した。
幕末に先を見通した小栗上野介があったればこそ。
世界の大国に小国日本が勝ち世界は驚嘆した。

家康から数えて18代目の徳川恒孝(つねなり)・徳川記念財団理事長(68)が5日、
町火消しの先導で東京・神田駿河台を旧旗本の子孫らと行列で歩いた。

江戸っ子の祭り好きのDNAはしっかりと根ずいている。
、小栗邸があった駿河台の地元町会が担ぎ出した。

小栗が官軍によって殺された群馬県高崎市の顕彰会も、初の里帰りを喜ぶ。

この行列のきっかけをつくったのは駿河台で喫茶店「穂高」を営む粟野芳夫(67)。

06年3月、氏子を務める太田姫稲荷神社に奉納する刀を店の2階で展示したところ、
家康をまつる神社ということで恒孝さんが訪問。
たまたま話題になった小栗を「侍の中の侍」とたたえた。

 小栗ファンの粟野は翌月、殺されるまで小栗が住んだ東善寺(高崎市)を訪ね、
小栗上野介顕彰会の村上泰賢住職(66)に
「(徳川幕府の最後の将軍)15代慶喜からは罷免されたが、18代は認めた」
と伝えた。

意気投合し、駿河台西町会と顕彰会が共同で、寺で展示する小栗の業績を伝えるパネルや遺品を東京で公開することになった。

 「恒孝さんにも講演を」と依頼すると、地元の火消し四区五番組の頭から「お迎えが必要では」との声が上がり、
葵の御紋の使用許可を財団から得て高張り提灯を用意。

すると、
「せっかくだから御成行列を」
と、纏と木遣(きや)りを先導に旧旗本の子孫、千代田区長など一行は100人以上にふくれあがった。

 粟野
「葵の御紋で、地元は舞い上がっちゃいました。恒孝さんにはご迷惑をかけます」
と恐縮する。

 一方の徳川恒孝は
「目立つのは好きではないのですが」
と困惑気味。

当初、「明大の入り口から地下の博物館まで」と聞き、案内役を引き受けたのが、いつのまにか行列に。
地元の張り切り様を見て断れなくなった。

 「小栗は、生きていればもっと大きな仕事をしたであろう能吏。多くの人に知ってもらいたい」という思いもあった。

日光東照宮への参拝などで旗本の子孫らと歩くことはあるが、東京での行列は初めてだった。
桜の木のあるところの花吹雪がお祝いを彩った。

 企画展は4〜27日。入場無料。
週末を中心に、村上住職によるギャラリートークもある。
問い合わせは顕彰会事務局(027・378・3111)へ。
星賀亨弘記述からの忘備録。

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