春一番のこの国

2008年2月24日
各種メディアは売文社なる言葉を生業とした先哲の生き様からしても公共のものである。
NHKが放送法を無しくづし的に改悪しようとその公共性さえまでは奪えまい。

雑誌は新聞のように社会の木鐸までとはいかねどもその影響力から社会的地位は高い。
よって、携わるものの論理性の高さが求められる。

NHK職員にしての早期情報入手に乗じて株の取引に利用しようなんぞは人道にも劣る百叩きの刑。
ただ、市中引き回しの上獄門張り付け!までの罪ではない。。

週刊新潮の発売の最近号の月曜日、宮崎は木曜日発売の皇室特集は後で記すがありえない。
宮内庁長官の皇太子に対するお言葉は天皇の言葉である。

「参内を求め孫愛子に会いたい」は表面的であり
、潜んでるのは帝王学の直々の伝授たる老いたる天皇の今になっての親心。
だが、皇太子のインタビューニュースを見る限り「親の心子知らず。」

皇太子誕生日のインタビューでは「身内のこと」と心の襞の深層心理を明かさぬ皇太子。
皇室継承必数要件の男の子を持つナマズの君が毎日参内するゆえ、事は、ややっこしくなる。
男系後継を持たぬ総領息子が参内せず、男系子息を持つ次男は日参する。
妻たる華子の血筋が問われぬゆえの好都合もある。

この国の国民は隠蔽されていれば事実はどうでもよく
、いったん情報が開示されればヒステリックな女流精神構造の社会ゆえだ。

皇太子は総てに出来が悪いわけでなく皇后たりうる妻の病的なる精神的問題にあることを承知ゆえの心痛なんであろう。
国民の前に明らかにされたプロポーズの恥ずかしげな言葉を想起する。
祓いからハレを基本とする国家ゆえ、
嫁探しの当初から疑念をもたれた血の呪いの王妃選びに懸念されたるものでいまさら問わぬ。
嫡男の婚期がその時点では遅れ、王妃選びに手抜かりがあったゆえ致し方ないからだ。

大正天皇の基本的問題で摂生昭和天皇の緊急的時期で乗り切ったこととは本質的に違う。
安岡正篤は吉田茂も岸信介も歴代総理がその膝の元にひれ伏し教えをこうた。
終戦の詔、憲法草案などに朱入れをして最終了をだした隠れたる現人神。
その葬祭に際して責任者に総理大臣が勤めたことで伺い知れようというものだ。

その神通力は国家の奥底深く鎮座した。
神をも恐れぬ女身の浅知恵者の銀座のママは神秘の秘儀の技術に感化、盗み
神通力の世界にその身を転身、置き換えた。
更なる確固たるお墨付きを狙う。。
おどろくべき所業に打って出る。
ナント!、あらんことか老齢での恍惚の人化に取り入り戸籍を偽造「妻」の座を射止めた。、
その神がかった地位を目論んだのである。
もちろん裁判沙汰で葬式喪が明ける日に戸籍からの抹消との遺族との裁判和解。

おい!おい!そんなつわもの誰だ。!
   ・・・・
京での木曾の将軍妻・常盤御前の奮闘振りどこではないではないか。
   ・・・・
社会的制度の安沌たる暴力団との付き合い者は抹殺に引っかかったひと。
朝青龍がモンゴルに帰るとき空港まで車を出した人。
この三月にテレビ世界から一切去るひと。
    ・・・・
細木数子その人である。
公共メディアが貞操を守ったことになる。

ただ今後の動きは注意を喚起せねばならぬ。
外務省元職員のいずれ国家に従わなかったゆえ塀のうちに落ちる身の佐藤優。
あるいは櫻の組織の長たる亀井静香の地盤たる尾道で刺客として立ったホリエモンの如きである。

精力的執筆の江藤淳の総領弟子福田和也、兵頭二十八の今後の皇室擁護の論陣を張ろう論文のたぐいだ。

菊と櫻と鶴に菱の代紋が鉄の規律の組織が社会の中心に座るとの
民主主義の欠落を衝いた啓示がらの行動規範ゆえだ。

江藤=江頭 淳は戦後日本を代表する文学者で、保守派の論客として知られた。
そもそも肥前の血を引き皇室人脈に連なる。

^ 現代の出勤簿に相当する
^江藤淳 著 『一族再会』講談社 1988年 148頁
^ 川口素生 『小和田家の歴史―雅子妃殿下のご実家』川口素生 17-19、163-174頁 人物往来社 2001年 ^

解りにくいので系図を参考に掲げてみよう。

   ┏江頭範貞
     ┃
江頭嘉蔵━┫
     ┃
     ┗江頭安太郎 ┏江頭隆━江藤淳 
        ┃   ┃
        ┣━━━╋古賀博
        ┃   ┃
古賀喜三郎━━米子   ┗江頭豊
             ┃
             ┣━━━優美子
             ┃    ┃
      山屋他人━━寿々子   ┣━━━雅子
                  ┃    ┃
                小和田恒   ┃
                      徳仁親王

 雅子妃の実家奥には決してマスコミに登場しない住人が住んでいる。
世界にその名を轟かした水俣チッソ社長であった祖父である。

武士の魂、情けで系図から削除しておきたいゆえ小和田家は抜いておこう。
実はこのブログでは過去に触れている故がその真相ではある。                    

佐賀人のDNAは薩長土肥の総力組織からも反射炉を持ちまがらも追尾する立場。
江藤司法卿をはじめ常に論人的役回りの国家の存在的位置に立脚してきた肥前の頭脳。
ネコさえも油を舐めなめ化けえて社会にその存在感を訴えた底力を持つ竜造寺を滅ぼしたる鍋島家。

吉野ヶ里古墳は智慧の集積の神からの地底からの叫び。
山田洋次はメガホンを握り締め「母べえ」でそのひ弱さの中の強さを日本人論としてスクリーンに表したるほどだ。

国民規範の著作「葉隠」人生教訓の「養生訓」。
山本常朝、貝原益軒は日本人の行動生活の規範となった佐賀人の心得。
、がばいのばあちゃんが芸能人の力で発掘され世に出たのも
蓄積された生活の智慧の肥前の生活から出たものである。

ブログからの備忘録。
1937年、4歳半の時、母を結核で失う。1939年、戸山小学校に入学するも、病弱な上に教師と合わず、不登校になる。自宅の納戸に逃避して、谷崎潤一郎や山中峯太郎や田河水泡を愛読。「学校のない国に行けたら」と夢想した。

1942年、神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校してから学校が好きになり、成績が上昇。1946年、神奈川県藤沢市の旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)に入学。1級上に石原慎太郎がおり、石原との交際は生涯続いた。
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古書店で伊東静雄の詩集『反響』に出会ったことが、文学の道に進むきっかけとなる。
在学中はベレー帽を被るなど、ちょっと斜に構えたところもあった。在学中、学制改革に遭う。
1951年、健康診断で肺浸潤が発見され、高校を休学して自宅療養する。
フョードル・ドストエフスキー、谷崎潤一郎、福田恆存、大岡昇平などに読みふける。

1953年、東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗、
慶應義塾大学文学部(教養課程)に進む。
日比谷高の教師から「慶應は経済学部かね。なに、文科? 君も案外伸びなかったね」
とあからさまに軽侮されたため、以後二度と日比谷高の門をくぐるまいと誓った。
ただ晩年は、日比谷高校のOB講演会「トワイライトフォーラム」の講演を引き受けるなど、そのことは、自己の内面では既に氷解していたようである。

1954年4月、専門課程への進学に際して英文科を選ぶ。吉田健一著『英国の文学』の影響による。
1954年6月、喀血して自宅で療養。

1955年、当時の編集長だった山川方夫の依頼で『三田文学』に「夏目漱石論」を発表。
初めて江藤淳を名乗る。

1957年3月、慶應義塾大学文学部英文学科を卒業。卒業論文のテーマはローレンス・スターン。
1957年4月、慶應義塾大学大学院英文学研究科修士課程に進む。指導教授西脇順三郎から嫌われていた。
西脇は、江藤の姿を教室に認めるや「今日は江頭君がいるから授業しない」と宣言したこともあった。
1957年5月、大学で同級生だった三浦慶子と結婚。
後年、先輩の安岡章太郎から「慶子さんと付き合うためにわざと東大に落ちたんじゃないか」と揶揄されたが、
江藤は「ぼくは真面目に受けて落ちたんですよ」と答えた。

1958年、大学院生でありながら文芸誌に評論を執筆し原稿料を稼いでいたことが教授会から問題視され、退学を勧告されたが、授業料のみ納入し、抵抗の意味で不登校を続ける。
1958年11月、文藝春秋社から『奴隷の思想を排す』を上梓。
1959年1月、講談社から『作家は行動する』を上梓。
1959年3月、退学届けを提出し、正式に大学院を中退。

1962年、ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学。
1963年、プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える。
1964年 に帰国。帰国後、愛国者にして天皇崇拝家の様相を帯びる。
    20代の頃から長く文芸時評を担当する。

1971年から東京工業大学助教授、のち教授。
『勝海舟全集』の編纂に携わるが、これは海舟を、江藤が理想とする「治者」の典型と見てのことである。
1974年、「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる。 1975年、博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、文学博士となる。
1976年には、NHKのドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像』のシナリオを手掛ける。

1979年頃から、米軍占領下の日本人がいかに洗脳されてきたか、日本国憲法が戦後の日本の言語空間      を縛っているといったことを問題とし始める。
1983年、「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中島嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立する。
1990年、東工大を辞職して、母校の慶應義塾大学法学部客員教授となり、
1992年から慶應義塾大学環境情報学部教授。定年まで1年を残して慶應を去り、
1997年、大正大学教授。 晩年、理想とする治者とは極の存在である永井荷風、西郷隆盛を    論じ、意外の感を与えた。
1998年暮れ、慶子夫人が死去、翌
1999年7月21日、雷雨の晩に鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺を遂げた。享年66歳。
        妻の葬儀のあとのことで、自身も脳梗塞の後遺症に悩んでいた。
       遺書中の「形骸を断ず」という一節は名文句と言われている。

ライフワークであった『漱石とその時代』はついに未完に終わった。
妻の闘病生活を綴った『妻と私』を残し、続く『幼年時代』は未完に終わった。
大の愛犬家としても有名だった。

家族 親族
祖父 江頭安太郎(軍人・海軍中将)、宮治民三郎(軍人・海軍少将)
祖母 米子(佐賀県、軍人・海軍少佐古賀喜三郎の娘)
父 江頭隆(銀行員)
母 廣子(愛知県、軍人・海軍少将宮治民三郎の娘)
叔父 江頭豊(実業家・チッソ元会長)
いとこ 小和田優美子 - 優美子の娘に徳仁親王妃雅子がいる
妻 慶子
子供はいない

系譜
江頭氏 江頭姓は「えがしら」のほかに「えかしら」、「えとう」と読み、佐賀県、福岡県など九州北部の各県に多い[1]。江頭家は江戸時代、佐賀藩主鍋島家の家臣だったとされている。しかし、弘化二年(1845年)、元治元年(1864年)の二種類の佐賀藩侍着到[2]に江頭嘉蔵の名は無い。嘉蔵の曾孫江藤淳は江頭家について「手明鑓(てあきやり)」という身分の藩士だったのだろうと推測している[3]。手明鑓は平時は無役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。しかし、嘉蔵以前の系図や史料が一切存在しないため、嘉蔵が「手明鑓」であったか否かを含めて、ルーツや俸給などはまったくわからない。嘉蔵以前の系譜は、現在までのところ、明らかになっていない。[4]
  
本題から連れたので戻そう。
表題の週刊新潮の節操の無さの公共マスメデアを忘れてる筆致。
なにに怒りを向けているのか。

社会的問題を惹起してる食品状況を知らぬ稚戯的社会人ゆえだ。
皇太子の飲むのは「百年の孤独」なる下りの記事となろう事だ。
宮崎産の焼酎のことで焼酎好きの常識が表に出て
更なる入手困難となるのは火を見るより明らか。

NHK職員の株購入に似たる手法にて間接的に皇太子失脚に手を貸そうとしてるからだ。
知ってることすべて開陳するものではない。
業界に対する武士の情けゆえである。

皇太子の地位利用、放言失態の助長の悪影響を考慮し得ぬ筆者の浅智慧論文の未熟性をあげつら得ておこう。
品位と知性無き新潮誌に未来は無い。

かって昭和天皇はその相撲好きを捕らえられ
「好きな贔屓の力士は・・」と問われた。
問われて瞬時にいわく
「好きな力士はいるが・・言うといろりろと問題が生じようから・・・」
苦しき帝王学の立場を披瀝された。
インタビューアーに「しまった!」と思わせたことだろう。
察するに余る寿命を縮める心根が見て取れる。

白玉のはに染みとおる秋のよは、酒は静かのむべかり。
宮崎の生んだ国民歌人若山牧水のノンたくれの美学の真髄である。

福井の地での無濾過焼酎。・・・
たびにはしずかにおさけが似合う。
昨夜も痛飲。ブログ??

さけのみ人の矜持とは全く相容れぬブログ人。
新文化のジャンルのブログ文化の理解は程遠い。
隣客との会話できずいたことである。

春一番ではなかったの?
寒い!

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