消えたブログ神武様
2007年10月29日10月27日、28日は神武さまである。
宮崎人で知らぬものは一人もいない。
市内中心部約4kmを2日かけて往復する御神幸祭行列の総称である。
「神武さま」=秋の神武大祭の本隊は神武を宿した天皇の乗るみこし御鳳輦(ごほうれん)。
ただ市井の興味はミス宮崎の古風の花嫁衣裳の馬上の人たる6人の今年の美人に釘づけのシャンシャン馬にある。
鎌倉時代の装束姿や獅子舞 古代船「おきよ丸」 流鏑馬の武者行列、溢れるかわゆさの稚児行列。
よくもヨチヨチで歩けるものだ。
神賑行列は市民約2000人が参加、
約7万5千人が見守る中、宮崎神宮を出発し、橘通りを経て瀬頭御旅所までの間を2日かけて往復する
、ゆったりとしたペー スで練り歩くお祭り。
05年から行列を彩る 古代船、神武東征「おきよ丸」。
綾の職人が県スギ材で作った神武天皇が美々津から「お船出」したという船。、
西都原古墳群170号墳から出土した舟形埴輪を模したもので制作費約1000万円。
「御神幸の儀」の形が整えられたのは明治四十二年以降のこと
戦中に行事は行われなくなり、昭和二十一年 に御神幸祭を復活し、同二十五年には現在の形での神武天皇祭となった。
宮崎神宮
神明造りの社殿
主祭神
神倭磐余彦命 / カムヤマトイワレヒコノミコト ( 神武天皇)
配祀
鵜葺草葺不合命 / ウガヤフキアエズノミコト
玉依比売命 / タマヨリヒメノミコト(神武天皇の両親)
古くは神武天皇社・神武天皇宮と称され、我が国の初代天皇 である神武天皇ゆかりの宮として崇敬され親しまれている。
宮崎の代表的な観光コースに組み込まれていることもあり、全国からの参拝客も絶えない。
緑深き神苑の面積は251,945?。広大な「神宮の杜」は、宮崎市民の憩いの場。
宮崎という地名の由来には「ミ = 神」という意味から「ミヤ = 神の家」のさき(前・先)、
つまり 『カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の宮のまえにひろがるところ』 という説、
もうひとつは
「ミヤ= 原野」の意味から『原野の先端の地域であるから、ミヤの先→みやざき となった』という説
御由緒
社伝によれば、筑紫の鎮守であった建磐龍命(たていわたつのみこと)が創建されたとか、景行天皇の熊襲征伐時に再興されたとか、応仁天皇の御代に国造老男命(おいをのみこと)がお祀り申したとかある
、
平部橋南(ひらべきょうなん=幕末の飫肥藩の儒学者)が
「いはれある古迹(こじゃく)ながら悲しいかな千戴の久しき間文献の徴すべきものがない」と現す。
平安時代期に、宮崎に神武天皇の都があったという説は かなり普及していた。
『平家物語』(長門本)の俊寛僧都島流しのところ
に、「吾が朝、人皇の始、神武天皇の日向の国宮崎の郡に帝都を立て御即位ありし時、云々」とあり、『神皇正統記』等にも同様の記述がある。
宮崎帝都説はその東征と共に中世を通じて定着したと考えられる。
鎌倉時代末の建久八年(1197年)地頭土持太郎信綱(つちもちたろうのぶつな)が現在の船塚の地に宮殿を造営し、御遷座を奉仕したことを述べた奈古神社の古文書を、五味克夫氏が『中世史研究』で紹介されている。
さらに文明五年(1473年)伊東祐国が、永禄五年(1562年)には伊東祐立が、それぞれ社領を献じ、天正五年(1557年)には島津義久がお祓料と米穀を奉献した。
幕藩体制下の寛永二十一年(1644年)領主有馬康純が社殿修復の時の棟札を読むと、神武天皇を日本国帝王の祖と言い、その苗裔が今まで続きこれからも乾坤と共に永く続くであろうと書いてあり、そこには明確な神武意識・天壌無窮の神勅の思想が述べられている。
徳川時代の宮崎郡は延岡藩の所領でその飛び地。
延享四年(1747年)十月、有馬氏改易後転封されて来た内藤備後守に差し出された一庄屋の文書に
「是ハ古来ヨリノ地頭様御普請所ニテ御座候」とある。
また境内地三万坪は古来より無年貢地で、「村高ニ相除有之候」とある。
さらに「尤五月初午ノ日、六月晦日、十一月午ノ日一ケ年二三度下北方村南方村社人罷出祭相勤申候」とある。
これから四十年経た天明四年(1784
年)十月、大野河内名をもって、御本所様へ差し出した調書に、
「当社ハ私ノ外神主長田大和、祠官井上土佐三人ニテ諸祭相勤外ニ下社家三十人斗御座候」とあり、
延享から天明にかけて次第に神社が整備されてきたことが分かる。
当社が脚光を浴びるのは、明治維新以降。
「神武創業ノ始メニ原ヅキ」と言われて御祭神を共に注目された。
明治六年五月、宮崎神社と改称、
県社となり、同年八月に国幣中社、同十一年五月社号を宮崎宮と改め、同十八年四月、官幣大社に列せられた。
大正二年七月、宮崎神宮と改称になる。
明治三十二年四月、「神武天皇御降誕大祭会」が結成された。
総裁に仁条基弘、会長に島津忠亮、幹事長に高木兼寛を選んだ。
高木兼寛は 海軍軍医総監で慈恵医大の創設者である。
明治三十二年の帝国議会において、同大祭会に対する補助金の件が議決され、政府より十万五千円が交付されることとなった。さらに同三十八年十月、明治天皇より御内帑金一万五千円を御下賜給わった。これに力を得た高木幹事長は奮起して全国募金に奔走した。
かくて急速に事業は進捗し、明治四十年十月に竣工報告祭が行われるに至った。
さらに紀元二千六百年に当たる昭和十五年、奉祝会が結成さ
れ、奉祝記念行事が橿原神宮に次いで二位となり、境内の拡大整備が実施された。
本宮並に皇宮神社の境内地の拡張、流鏑馬(やぶさめ
)馬場の設営、玉垣、参道、車道の工事等であり、徴古館も新築された
。ここにおいて現・宮崎神宮の形態が完備され、神社運営の永遠の基盤が確立された。
当時の宮司は河合繁樹で、高木兼寛とともにその名を忘れてはならない。
以上のことは先年亡くなった働くものの詩人黒岩敏郎の兄、宮司黒岩龍彦のしるすところによる。
(宮崎神宮宮司『日本「神社」総覧』新人物往来社刊
橿原神宮・・・同じく神武天皇を祭神とする。
伊勢神宮・・・全国神社の本宗
今年は祭り百景として弥五郎どんが登場する。
弥五郎どんは同名の兄弟が3人いる。
兄弟が一堂に会することは滅多にないが、日南市が市政四十周年を記念して第十三回「飫肥城下まつり」が行われた時、
三兄弟は飫肥城大手門奥の広場で一堂に会した。
1270年目にして夢の三兄弟対面を実現した。
長男 宮崎県山之口町の弥五郎どん(円野神社)竹を組み合わせて麻を着せ質素に作られ、頭に鉄製の鉾をつけている。
飲んべいで賭け事が好きだったと言われる。
次男 鹿児島県大隅町の弥五郎どん(岩川八幡神社)腰に木彫りの白い面を付け、大小二本の刀を差していること。
また、人形の中で一番背が高いのも特徴のひとつ。
三男 宮崎県飫肥の弥五郎どん(田ノ上八幡神社)赤い面を付け白髭で刀と槍をもっている。大きさは7mもあり
、祭りでは小型のものを引き回すという。
南九州に伝わる大人伝説で三箇所が同じ名前であることは起源が一つと思われるが、それぞれの由来が
ある。
「一年の無病息災、」「死者への慰霊」「農作業の儀式」と諸説があり、
赤ら顔の大男で熊襲の末裔、南九州を支配した隼人族の首長という話もある。
ルーツははっきりしないがいずれも無形民俗文化財として継承されている。
隼人は大隈地方に住む人々をさし大和朝廷に対し自治を求めていた。
西暦720年に大隅国守を殺害し反乱した。
世に言う「隼人の乱」で、隼人族軍の首長が弥五郎ドンだと言う。
大伴旅人率いる大和朝廷軍に鎮圧され斬首が行われた。
隼人族の霊のたたりを恐れた朝廷は宇佐八幡の神託を受けて全国的規模の放生会(ほうじょうえ)を行い、
当時この地にあった的野正八幡神社(現在の円野神社)でもこれにならった。
それに農村の秋祭りでおこなわれていた死者の霊を慰める放生会が結び付いたとも言われる。
隼人族首長弥五郎人形が祀りの先払いをつとめたとある。
放生会とは供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式のことである。
これが隼人族首長説となっている。
飫肥の田ノ上八幡神社の弥五郎どんについては「弥五郎様由来」によると、この地の稲積弥五郎という人が
「…一宮正八幡のご神体を負い奉り富国那珂郡飫肥の堡地牟田の……の松と杉の両枝に掛け拝祠すること三冬を
経たり神鏡毎夜深更に及び照輝き給うこと恰も明月の如し里民奇異の思を成し即ち牧鹿の宿社(スクネ・豪族)
に之を告ぐるにしかれば一社を造立し田宮八幡宮の神号を奉り……鳥羽帝治三年なり彼神鏡を牟田之上に
鎮座の地の宗廟とし」とある。
「大人隼人記」に「隼人の四肢を分ち埋めて祭り、或は大人弥五郎の四肢を分ち埋めて、諸所神に崇む、
其霊を宥る所と云、鼻面川は其鼻を埋め…」とあり各所に埋葬分祀されたようだ。
おおびと伝説弥五郎どんは、日本各地に伝わるダイダラボッチのような巨人伝説とは全く異質の伝説である。
日本列島に住み着いた民族の国造りの秘史でもある。
南九州の宮崎県と鹿児島県の三ヶ所の地で継承されており、
勝者が敗者の死を悼む日本人の特性を見る思いがする。 完
天孫降臨の地の高千穂神社。
御祭神は、上古高千穂皇神別名十社大明神という神号。
十一代垂仁天皇の御代の御創建で、六国史にも掲載されている。
天慶年間には高千穂十八郷八十八社の宗社として、、武神、農産業、厄払い、縁結びの神として広く信仰を集め、
鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、畠山重忠を代参として天下泰平の祈願をし、皇室発祥の聖地に対する尊皇のまことを表した。
境内には、この時重忠が手植えした樹齢約800年の秩父杉(目通り1.8m、高さ55m)がそびえている。
三代実録第一巻にもその記述がある1200年以上の歴史を持つ古社。
かつて高千穂郷(現在の高千穂町、日之影町、五ヶ瀬町、諸塚村)には554社もの神社があり、
その中でも格の高い88の神社を「高千穂八十八社」と言う。
その「高千穂八十八社」の総社として信仰を集めてきたのがこの高千穂神社。
高千穂神社の主祭神は三毛入野命(ミケヌノミコト)、神武天皇の兄弟となる。
他に五瀬命(イツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、佐野命(サノノミコト)を合わせた四柱を四皇子として
境内の四皇子社に祀る。
この主祭神である三毛入野命が悪神「鬼八」を退治したとされる伝説からゆかりの「猪掛祭」は今も受け継がれている。
鬼八を退治する三毛入野命の像を本殿回廊の東側で見ることができる。
神話と日本人の心著者河合隼雄
日向と出雲、どっちも神話の里として宣伝していて、どっちが本家なのかしら?という疑問に河合隼雄がが著書で答える。
日本神話の特徴として中心に無為の神が存在し、その他の神々は部分的な対立や葛藤を
お互いに感じ合いつつも、調和的な全体性を形成しているという。
、それは、中心にある力や原理に従って統合されているのではなく、全体の均衡がうまくとれているのである。
そこにあるのは論理的整合性ではなく、美的な調和感覚なのである。
これを中空均衡構造とする。
この点を、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲ等の話を引きながら臨床心理家としての立場から検証している。
日本神話(古事記・日本書紀)の概説としても読める。
出雲神話と日向での天孫降臨の別も解説されている。
あいまいに全体的な調和を求める構造を神話をモチーフにして解明していくと言う点で、日本の心の成り立ちの
古代からの連続性が感じ取れる。
隼人は大和朝廷に服属した熊襲の後身であるとされるが,定かではない。
日本書紀には,「球磨曽於(クマソオ)」の地名が記されており,日向国風土記には「日向国曽於郡」という
地名が出てきて現在の「曽於郡」につながるが,かつて大隅は日向国(宮崎県)に属していた。
宮崎人で知らぬものは一人もいない。
市内中心部約4kmを2日かけて往復する御神幸祭行列の総称である。
「神武さま」=秋の神武大祭の本隊は神武を宿した天皇の乗るみこし御鳳輦(ごほうれん)。
ただ市井の興味はミス宮崎の古風の花嫁衣裳の馬上の人たる6人の今年の美人に釘づけのシャンシャン馬にある。
鎌倉時代の装束姿や獅子舞 古代船「おきよ丸」 流鏑馬の武者行列、溢れるかわゆさの稚児行列。
よくもヨチヨチで歩けるものだ。
神賑行列は市民約2000人が参加、
約7万5千人が見守る中、宮崎神宮を出発し、橘通りを経て瀬頭御旅所までの間を2日かけて往復する
、ゆったりとしたペー スで練り歩くお祭り。
05年から行列を彩る 古代船、神武東征「おきよ丸」。
綾の職人が県スギ材で作った神武天皇が美々津から「お船出」したという船。、
西都原古墳群170号墳から出土した舟形埴輪を模したもので制作費約1000万円。
「御神幸の儀」の形が整えられたのは明治四十二年以降のこと
戦中に行事は行われなくなり、昭和二十一年 に御神幸祭を復活し、同二十五年には現在の形での神武天皇祭となった。
宮崎神宮
神明造りの社殿
主祭神
神倭磐余彦命 / カムヤマトイワレヒコノミコト ( 神武天皇)
配祀
鵜葺草葺不合命 / ウガヤフキアエズノミコト
玉依比売命 / タマヨリヒメノミコト(神武天皇の両親)
古くは神武天皇社・神武天皇宮と称され、我が国の初代天皇 である神武天皇ゆかりの宮として崇敬され親しまれている。
宮崎の代表的な観光コースに組み込まれていることもあり、全国からの参拝客も絶えない。
緑深き神苑の面積は251,945?。広大な「神宮の杜」は、宮崎市民の憩いの場。
宮崎という地名の由来には「ミ = 神」という意味から「ミヤ = 神の家」のさき(前・先)、
つまり 『カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の宮のまえにひろがるところ』 という説、
もうひとつは
「ミヤ= 原野」の意味から『原野の先端の地域であるから、ミヤの先→みやざき となった』という説
御由緒
社伝によれば、筑紫の鎮守であった建磐龍命(たていわたつのみこと)が創建されたとか、景行天皇の熊襲征伐時に再興されたとか、応仁天皇の御代に国造老男命(おいをのみこと)がお祀り申したとかある
、
平部橋南(ひらべきょうなん=幕末の飫肥藩の儒学者)が
「いはれある古迹(こじゃく)ながら悲しいかな千戴の久しき間文献の徴すべきものがない」と現す。
平安時代期に、宮崎に神武天皇の都があったという説は かなり普及していた。
『平家物語』(長門本)の俊寛僧都島流しのところ
に、「吾が朝、人皇の始、神武天皇の日向の国宮崎の郡に帝都を立て御即位ありし時、云々」とあり、『神皇正統記』等にも同様の記述がある。
宮崎帝都説はその東征と共に中世を通じて定着したと考えられる。
鎌倉時代末の建久八年(1197年)地頭土持太郎信綱(つちもちたろうのぶつな)が現在の船塚の地に宮殿を造営し、御遷座を奉仕したことを述べた奈古神社の古文書を、五味克夫氏が『中世史研究』で紹介されている。
さらに文明五年(1473年)伊東祐国が、永禄五年(1562年)には伊東祐立が、それぞれ社領を献じ、天正五年(1557年)には島津義久がお祓料と米穀を奉献した。
幕藩体制下の寛永二十一年(1644年)領主有馬康純が社殿修復の時の棟札を読むと、神武天皇を日本国帝王の祖と言い、その苗裔が今まで続きこれからも乾坤と共に永く続くであろうと書いてあり、そこには明確な神武意識・天壌無窮の神勅の思想が述べられている。
徳川時代の宮崎郡は延岡藩の所領でその飛び地。
延享四年(1747年)十月、有馬氏改易後転封されて来た内藤備後守に差し出された一庄屋の文書に
「是ハ古来ヨリノ地頭様御普請所ニテ御座候」とある。
また境内地三万坪は古来より無年貢地で、「村高ニ相除有之候」とある。
さらに「尤五月初午ノ日、六月晦日、十一月午ノ日一ケ年二三度下北方村南方村社人罷出祭相勤申候」とある。
これから四十年経た天明四年(1784
年)十月、大野河内名をもって、御本所様へ差し出した調書に、
「当社ハ私ノ外神主長田大和、祠官井上土佐三人ニテ諸祭相勤外ニ下社家三十人斗御座候」とあり、
延享から天明にかけて次第に神社が整備されてきたことが分かる。
当社が脚光を浴びるのは、明治維新以降。
「神武創業ノ始メニ原ヅキ」と言われて御祭神を共に注目された。
明治六年五月、宮崎神社と改称、
県社となり、同年八月に国幣中社、同十一年五月社号を宮崎宮と改め、同十八年四月、官幣大社に列せられた。
大正二年七月、宮崎神宮と改称になる。
明治三十二年四月、「神武天皇御降誕大祭会」が結成された。
総裁に仁条基弘、会長に島津忠亮、幹事長に高木兼寛を選んだ。
高木兼寛は 海軍軍医総監で慈恵医大の創設者である。
明治三十二年の帝国議会において、同大祭会に対する補助金の件が議決され、政府より十万五千円が交付されることとなった。さらに同三十八年十月、明治天皇より御内帑金一万五千円を御下賜給わった。これに力を得た高木幹事長は奮起して全国募金に奔走した。
かくて急速に事業は進捗し、明治四十年十月に竣工報告祭が行われるに至った。
さらに紀元二千六百年に当たる昭和十五年、奉祝会が結成さ
れ、奉祝記念行事が橿原神宮に次いで二位となり、境内の拡大整備が実施された。
本宮並に皇宮神社の境内地の拡張、流鏑馬(やぶさめ
)馬場の設営、玉垣、参道、車道の工事等であり、徴古館も新築された
。ここにおいて現・宮崎神宮の形態が完備され、神社運営の永遠の基盤が確立された。
当時の宮司は河合繁樹で、高木兼寛とともにその名を忘れてはならない。
以上のことは先年亡くなった働くものの詩人黒岩敏郎の兄、宮司黒岩龍彦のしるすところによる。
(宮崎神宮宮司『日本「神社」総覧』新人物往来社刊
橿原神宮・・・同じく神武天皇を祭神とする。
伊勢神宮・・・全国神社の本宗
今年は祭り百景として弥五郎どんが登場する。
弥五郎どんは同名の兄弟が3人いる。
兄弟が一堂に会することは滅多にないが、日南市が市政四十周年を記念して第十三回「飫肥城下まつり」が行われた時、
三兄弟は飫肥城大手門奥の広場で一堂に会した。
1270年目にして夢の三兄弟対面を実現した。
長男 宮崎県山之口町の弥五郎どん(円野神社)竹を組み合わせて麻を着せ質素に作られ、頭に鉄製の鉾をつけている。
飲んべいで賭け事が好きだったと言われる。
次男 鹿児島県大隅町の弥五郎どん(岩川八幡神社)腰に木彫りの白い面を付け、大小二本の刀を差していること。
また、人形の中で一番背が高いのも特徴のひとつ。
三男 宮崎県飫肥の弥五郎どん(田ノ上八幡神社)赤い面を付け白髭で刀と槍をもっている。大きさは7mもあり
、祭りでは小型のものを引き回すという。
南九州に伝わる大人伝説で三箇所が同じ名前であることは起源が一つと思われるが、それぞれの由来が
ある。
「一年の無病息災、」「死者への慰霊」「農作業の儀式」と諸説があり、
赤ら顔の大男で熊襲の末裔、南九州を支配した隼人族の首長という話もある。
ルーツははっきりしないがいずれも無形民俗文化財として継承されている。
隼人は大隈地方に住む人々をさし大和朝廷に対し自治を求めていた。
西暦720年に大隅国守を殺害し反乱した。
世に言う「隼人の乱」で、隼人族軍の首長が弥五郎ドンだと言う。
大伴旅人率いる大和朝廷軍に鎮圧され斬首が行われた。
隼人族の霊のたたりを恐れた朝廷は宇佐八幡の神託を受けて全国的規模の放生会(ほうじょうえ)を行い、
当時この地にあった的野正八幡神社(現在の円野神社)でもこれにならった。
それに農村の秋祭りでおこなわれていた死者の霊を慰める放生会が結び付いたとも言われる。
隼人族首長弥五郎人形が祀りの先払いをつとめたとある。
放生会とは供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式のことである。
これが隼人族首長説となっている。
飫肥の田ノ上八幡神社の弥五郎どんについては「弥五郎様由来」によると、この地の稲積弥五郎という人が
「…一宮正八幡のご神体を負い奉り富国那珂郡飫肥の堡地牟田の……の松と杉の両枝に掛け拝祠すること三冬を
経たり神鏡毎夜深更に及び照輝き給うこと恰も明月の如し里民奇異の思を成し即ち牧鹿の宿社(スクネ・豪族)
に之を告ぐるにしかれば一社を造立し田宮八幡宮の神号を奉り……鳥羽帝治三年なり彼神鏡を牟田之上に
鎮座の地の宗廟とし」とある。
「大人隼人記」に「隼人の四肢を分ち埋めて祭り、或は大人弥五郎の四肢を分ち埋めて、諸所神に崇む、
其霊を宥る所と云、鼻面川は其鼻を埋め…」とあり各所に埋葬分祀されたようだ。
おおびと伝説弥五郎どんは、日本各地に伝わるダイダラボッチのような巨人伝説とは全く異質の伝説である。
日本列島に住み着いた民族の国造りの秘史でもある。
南九州の宮崎県と鹿児島県の三ヶ所の地で継承されており、
勝者が敗者の死を悼む日本人の特性を見る思いがする。 完
天孫降臨の地の高千穂神社。
御祭神は、上古高千穂皇神別名十社大明神という神号。
十一代垂仁天皇の御代の御創建で、六国史にも掲載されている。
天慶年間には高千穂十八郷八十八社の宗社として、、武神、農産業、厄払い、縁結びの神として広く信仰を集め、
鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、畠山重忠を代参として天下泰平の祈願をし、皇室発祥の聖地に対する尊皇のまことを表した。
境内には、この時重忠が手植えした樹齢約800年の秩父杉(目通り1.8m、高さ55m)がそびえている。
三代実録第一巻にもその記述がある1200年以上の歴史を持つ古社。
かつて高千穂郷(現在の高千穂町、日之影町、五ヶ瀬町、諸塚村)には554社もの神社があり、
その中でも格の高い88の神社を「高千穂八十八社」と言う。
その「高千穂八十八社」の総社として信仰を集めてきたのがこの高千穂神社。
高千穂神社の主祭神は三毛入野命(ミケヌノミコト)、神武天皇の兄弟となる。
他に五瀬命(イツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、佐野命(サノノミコト)を合わせた四柱を四皇子として
境内の四皇子社に祀る。
この主祭神である三毛入野命が悪神「鬼八」を退治したとされる伝説からゆかりの「猪掛祭」は今も受け継がれている。
鬼八を退治する三毛入野命の像を本殿回廊の東側で見ることができる。
神話と日本人の心著者河合隼雄
日向と出雲、どっちも神話の里として宣伝していて、どっちが本家なのかしら?という疑問に河合隼雄がが著書で答える。
日本神話の特徴として中心に無為の神が存在し、その他の神々は部分的な対立や葛藤を
お互いに感じ合いつつも、調和的な全体性を形成しているという。
、それは、中心にある力や原理に従って統合されているのではなく、全体の均衡がうまくとれているのである。
そこにあるのは論理的整合性ではなく、美的な調和感覚なのである。
これを中空均衡構造とする。
この点を、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲ等の話を引きながら臨床心理家としての立場から検証している。
日本神話(古事記・日本書紀)の概説としても読める。
出雲神話と日向での天孫降臨の別も解説されている。
あいまいに全体的な調和を求める構造を神話をモチーフにして解明していくと言う点で、日本の心の成り立ちの
古代からの連続性が感じ取れる。
隼人は大和朝廷に服属した熊襲の後身であるとされるが,定かではない。
日本書紀には,「球磨曽於(クマソオ)」の地名が記されており,日向国風土記には「日向国曽於郡」という
地名が出てきて現在の「曽於郡」につながるが,かつて大隅は日向国(宮崎県)に属していた。
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