天正遣欧少年使節

2007年8月24日
講演会「そして少年は海を渡った」に参加した。
終演の主催者の方のご挨拶にはビックリ。
知人ゆえとホンの先日書いた生活助力を頂いたお布施をおもい複雑で泪した。
これじゃぁ〜天下を取って、野垂れ死にした日本一の弓取り三位入道義祐ジャン!

郷土史を講演するのはその郷里の出身者でないと微妙なる温度差が出るのではなかろうか。
23日14;00〜16;00「天正遣欧少年使節のお話し」である。

講師はミッション系高校日向学院(瓢箪から・・ナントカデ、甲子園に一度いっております)
高校の先生。語る口調、快活さからしてどう見ても○西の人

負けたまけたノ第八連隊、の県出身と思われる。??どこ?
同じ8でも大違いの、勝った勝ったの八路軍。??どこ?

よって主人公入る部分までに伊東マンショはほとんど出てこない。
誰の何の講演会なの。

それも中間を超えてる時間帯で10分の休憩があるのと質問の時間さえ含まっている。
時間配分が悪かったのこの上もない。

「質問を受けます3〜4名」も一人のみ。
これが又長く、質問者も再質問までする知ったかぶり。
「千々岩ミゲが一人がキリスト教を捨てる=棄教したが影響はどうであったか」
「大友有馬大村九州大名での力、格式のちがいが・・・」

多くの人いっぱいしゃべらせなきゃぁ〜。
「3〜4名守れ!」「出来ぬならいうな!」

喋らしてガス抜きしてやらないと評判は取れない。
50名ちゅ18名は市外から西都、日南とずいぶんの時間を割いておみえだ。

郷土史の研究は、吾こそが先生!勇んで参加しておられる。
証拠にこれまで最高の50名もの席が埋まっている。

しゃべらせてあげないとかわいそうジャン!
参加者が30代後半ぐらいの先生とは、一回り上の年齢か。
なんかそっくり政治を写してる安倍信三状態。

切り口上が長すぎた。
行程の説明に時間をとりすぎた。

おそらくこの方、何処にも現地踏査をしておられない。
行ったことも無いのに途中の寄港地のことを解説できなかろう。

それに挑むから、勢い文献紹介となる。
喜望峰からポルトガルまで一気に休まず6ヶ月航海。
食料は生きた鳥等を食べた。
水が腐って大変であった。
  「魚を釣ったり楽しんだ」
  ・・・
「オイ!おい!」
講談師、見てきたようなウソをいい。

よって、知らぬがゆえの知ったかぶりで長くなる。
文献から引っ張ってくるし一般教養のユリウス暦グレコリイ暦の差などどうでもいいんだ!

天正10年正月28日1582年2月20日長崎を出て
天正18年6月20日、18年1591年7月21日。帰還。

それにミステリー・ゾーンたる大友宗麟のニセの花押。
北海道大学高橋弘文の問い合わせたら2〜3週間でマカオにつく。
出航は季節風頼みの1年一回

航行中は体を縛り付ける
マラッカは80ヶ国語が喋られていた。
コチンの都市。

ゴア重要拠点でエオーロッパの都市ほど栄えてた。いまは廃墟・・らしい。
「おい!おい!残ってれば世界遺産であろうよ。」
説明が無かったけど「壁が残ってて聖地扱い」ではあるようだ。
せきやんだってしってま〜す
大体知ってて新規知識無しで復讐な時間。

主役ヴァリアーノ船から降り、マカオに残り、メスキータがローマに行く。
東インド巡査使の仕事の命令があったから。

世界の支配者ゆえ地中海からローマをめざさづ、スペイン経緯。。
フェリペ二世に王者へ挨拶がいるのでマドリード経由となった。

謁見して20日後に亡くなる新教皇を決める
「コンクラーベ」
煙突の煙を見ている。

グレイゴリウス13世からベネジェクト16世に換わるのを見た。

二箇所遠回りをしている。
コインブラ=大学地下に眠ってる人。
エボラ=マンショの洗礼名の人

キリスト教会とバテレン追放令
3隻に1隻沈む航海術の頃の全員安全に帰ってきた。

企画者は誰か。
ヴァリニヤーノが計画した

遣欧使節の目的

日本人を見てもらう。
ローマを見て行った日本人に語らせる
経済的援助

伊東家の系図を使っての説明。
オレだって誰だってやってます。
ただ、大友と伊東を並べては工夫があった。
ただ、マンショが大友家と血のつながりが無いのを
証明するだけで参加者は憤懣やり方ない。

系図は伊東マンショの基本です。
じゃ〜〜ブログ掲載してみろ!

なんだと〜〜
売り言葉に買い言葉。!
じゃぁ〜〜
  どうだ〜〜
家継___ 祐家_祐親_祐通・河津三郎_祐成・曽我十郎
     │             │時致・曽我五郎
     │
     │祐継_祐経_祐時_│祐明(田島氏祖)
               │祐氏(長倉氏祖)_________________________________
               │祐光_____祐宗_ 貞祐_祐持__氏祐(祐重)|__
               │祐景(門川氏祖)  │ 都於郡初代1    2     |       │
               │祐頼(木脇氏祖)  │祐範_祐ひろ         │         
     ______________________________________________________________│ 
     │  3  4
     │__ 祐安_祐立_ 祐武___祐家
       │      │    │5    
       │祐宗     祐賀  │祐堯___
                   │   
                   │祐郡 
                       

  一条中納言房基│__阿喜多│ │松寿院       │
            宗麟の妹│     │_│12 │    
                        │ │義賢 │
                 │三女    │ │   │ 飫肥2
                 │男子桐局11│ │祐憲 │_祐慶
    │祐家          │8 __義益│ │   │
    │5    6   7  │祐充 │ 飫肥1    │ 
    │祐堯_│祐国 _│伊祐_│10 │_祐兵_____│    
    │   │    │   │義祐 │_女高城殿
    │祐郡 │祐邑  │祐梁 │祐吉9│_女早世        
        │    │   │祐安 │_女昭覚院早世
        │祐夏  │祐武_│   │_町ノ上    _虎松
        │       ││右衛門佐   │   │_虎千代麿 マンショ
        │       │_       │___│_虎次郎  ジエスト
        │祐岑___祐峰__│祐生 __祐青   │_虎亀
        │         │ 
        │一海 黒貫寺住職 │_左兵衛佐
        │大賢 興禅寺住職 │_祐明
 

2時間聞いてて新規の知識取得ほとんど「0」は本から仕入れた知識で」喋られたから。

23日地元紙に門川で急須の一部が見つかったと一面にカラーで報じられた。
展示は古代日向展の二階広間。
講演会は同じ2階の視聴覚室。

ところが50名のうち誰も見られないで帰られた。
講師の郷土愛がないゆえ伊東マンショの説明が欠けてるからだ。
或いは講師の先生が伊東史=日向史を知られないからだ。

偶然に同じ日、同じ場所で伊東家の出城から
高級なる出土品があったニュースが生かされてない。
神がくれた偶然のプレゼントも使われないでは何にも成らぬ。

せっかくの手作り系図見ていただきたい。
ここの発掘現場は伊東の出城で、初代は祐景(門川氏祖) の領地である。
外に佐土原、祐明(田島氏祖)、祐氏(長倉氏祖)、祐頼(木脇氏祖)も同じころ日向に下向してきた。

ただ、伊東本家の祐光は下向せず代官任せ、都於郡初代は祐持のときである。
そのときの中央情勢は南北朝に分かれ 楠政成の忠君愛国、勤皇が尊ばれる。

さきに下向した伊東家は南朝方皇族方についた。
ところが本家は武家の北朝方、いわゆる足利尊氏の味方である。
北朝VS南朝に分かれての骨肉の争い。

伊東家の血の呪いである。
伊東家は島津家も凌ぐ勢いであり、262年間日向を治めてきたが、
内部紛争で島津に負けた面がある。

だいたい、源氏は争いが耐えない。 
将軍家も三代で血が途絶えた。身内同士の争い公暁がそうであり、実朝がそうであった。
頼朝の妻の政子が実家北条家よりに動いたからである。
腹をいためた我が子さえ殺害に荷担するにいたっては言語道断。

結果家臣団の風紀も乱れてくる。
伊東家の祖・工藤(伊東)祐経は領地を巡り、祐通・河津三郎、を殺害する。
ところが富士の裾野の牧狩りのとき、祐成・曽我十郎、時致・曽我五郎から敵討ちをされてしまう。
忠臣蔵、高田馬場ともども不名誉な三大敵討ちに名を連ねてしまった。

綾の地は、伊東家48城で伊東家への一番の忠臣である。
その綾の地で仇として打った曽我兄弟の踊りが伝統芸として今をも伝わるのである。

借金に夜逃げの村がアイデア町長郷田実の力で全国に誇れる村になった
全国町村会長の名誉をも勤めた。
娘さんは地元で自然綾を守ることに奔走されている郷田薬店、
隣接の郷土お昼の店で心からのおもてなしにまい進。
ご主人の東大卒の県庁マンは技術者。
伊東家の生き様と、曽我兄弟の厚き心を今に矜持しておられる。

本家たる都於郡城が復元されてないのに綾の城は立派に甦っている。
史実に忠実で今はやりに「ウソッぱち」の天守閣等はない
時代背景からして山城である。粗末な城の時代である。
その象徴的綾村のところにはこの人情の熱き血がなさせたご利益であろう。

郷土史にはそこに生活する人の郷土愛いがいる。
活版印刷機を持ち帰ったとか、秀吉の前で楽器演奏したとか、
功績を参加者と確認し合にゃぁ〜

選挙応援演説みたいなものリップサービス「0」じゃぁ地元では評判でぬですぞ~。せんせい!
教壇に立ってる山口の息子大丈夫なんだろうな~~

演題テーマそして少年は海を渡ったは日本人論にもなんにでも仕える。
ありがとうございました。
官邸のホームページに出てるそうで知りませんでした。
さすが物知り。慇懃無礼との言葉もあろう。
「ならぬそこにに治れ!打ち首!」
「しからばなんにんうみをわたった?」
「よめいでございます。」
「よめいとな。じゃぁ〜いきてつかわそう」

「しらをきるでない!」 
「しらはきっておりません、キリシタンゆえじゅじをきっております」 
おあついようで ・・・・         

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