日本における欧州への外交団の派遣は明治5年の岩倉具視全権一行が歴史にその名を残す。

米国から欧州に渡り英、仏、独とすませ、伊・フェンツエで先駆した遣欧使節の文書を検分し大いに驚いたことであろう。
伊達政宗が使わせた支倉常政の文書を見たが、それよりも30年も前に伊東マンショを正使とする4名のとその随行員の記録である。

隣の中国とのかかわりは遣唐使遣隋使、最近は井真改なる派遣僧もあったりと歴史は深いが日本で遣欧は初めてのことである。

エジプト王家の谷レクソールでツタンカーメン以来の発見という大ニュースが飛び交っている。

紀元前1503〜1482に在位したトドメス2世の妻、女王ハトシェプストでトドメス3世の摂生でファラオと呼ばれた、
英考古学のハワード・カーターが発見してたが、DNA鑑定ではっきりした。

ことは欧州であり、飛行機や汽船のないころの移動手段が原始的な16世紀のことである。

当時の年何回しか就航してなく大型南蛮船だろうがまずわずか千トン!そこいらの海岸に何隻も見れる程度の小船である。

灼熱の赤道下は鉄板は焼けていよう。
今朝の宮崎は朝の6時過ぎで肌に食い込み日が刺し「痛い」
先日青森弘前の公立大生は今日は35度を軽く超えるだろうが心配である。

もう少しすると車のハンドルも焼けてて持てなくなる。
冗談なしにボンネットでは卵焼きができよう。

マニラ、インド、ゴア赤道直下では想像を絶する。
おそらく腐りかけた水、腐敗状態の慣れない食べ物。
常に押し寄せる船ごと飲み込むような高波
安全走行は50パーセントを切ってたであろう。
この時期故、往復は奇跡的でもある。

学生さんとりわけ義務教育中の方。
教室の黒板の上の「日本の歴史」が常時携行してあるはずだ、
明治維新のすぐあとに岩倉具視の遣欧が見つけられまいか。

目をズ〜ット左に武士の時代の鎌倉室町の次に織田豊臣政権
のところ、、天正遣欧使節と見つけられまいか。

こういう経験がある。
小学三年生のテスト中。
テスト完了次第外に出ていいという。
藤堂富山の「5」どころの両君ははや外にいる。

「先生!」
「なんだ!せきやん?」
{あの黒板の上の歴史の使節は・伊東マンショのこと?デスカ?」
休み時間に読んだ学校図書の伊東マンショ。
「おまlェなあ〜みんな算数テスト遣ってるだなにしてる>出来たつか>」
「出来とるじゃぁネェか!黙って外にでとれ!」

ひとクラスの人数が多すぎた。戦前を引きずってるスパルタ。せきやんの兄たちも習ってるなどが重なり慣れっこ。

子供の目線まで降りてくれない。
好奇心にもえてる頃の芽を摘んでしまう。
算数のテストの時間にどうかとは思われるが
こいつはおもしろそうだと思ってらどこかで教育のチャンスをくれればいいのに。
鉄は熱い時に打て!とはいろんなことを言い含めてるはずだ。

10Mもあろうか、それも100項目ぐらいもあろうか。黒板の上の日本の歴史。
そこに宮崎西都都於郡出身の???人の事が確か?この遣欧使節で??はるはず???
凄いことではないのか。地元の人が歴史に載っている?
自信がないが自分で見つけた誇らしさを確かめている。

京都や奈良や大阪や東京と見たこともない大都市のことばかりで
源頼朝や織田信長徳川家康チャンバラの英雄と同じぐらいに
伊東マンショは偉いんだ。

子供の目線に先生、大人、親が立たないと子供の発達具合はそれぞれ違うのだから、うまくリードしないと子供は向学心のチャンスをうしなう。

82歳の方が季刊「マンショ」を出すという。
3号雑誌との言葉がある。
情熱資金書き手いろんな意味が込められている。
書き手不在が一番ではなかろうか。

ブログみたいに自己責任
「スミマセ〜〜ンで済まない。」

ヴァリアーノが企画したこの歴史的事件が揺らいでいる。
大友、有馬、大村の殿様の書状が残ってるがどうも真贋が疑われてきた。

450年を経て今日本に帰ってきているのである。
岡田知良教授は昭和20年代から疑問視をしておられた。

若桑みどり、松田毅一教授でさえ40年代から著書を出しておられる。

この偉業に対して宮崎からの研究者がいないのはざびしいではないか。
何をしていたのだと宮崎教育界に疑問を呈しておきたい。

ローマを見せるだけで寛大なる出迎えはやめてほしい。
何度もインド管区から手紙を出すヴァリアーノ。
わかものにありがちな驕り、や傲慢さ、謙虚な人間性を失うのではと心配したからだ。
封建制度下における日本の布教は人間性にかかってると見たからだ。

8年5か月は中一から大学を卒業した年齢である。

日本人で唯一今もそのまま残ってるローマ・フェレンツェ
を見てくることになるわけで謙虚な素直なところが傲慢になるのではと心配した。
また挫折するような教会内部の腐敗堕落対立をみせたくないとの配慮。

聚楽第やセミナリオその当時の日本側の施設は残っていない。
奈良京都の寺社仏閣などのみである。

石の文化と木の文化は豪華さが違う。
初めてパリ、ロンドンを見た時は30歳過ぎのせきやんだったが、カルチャーショックで絶句した。

遣欧使節の驚きは計り知れない。
そして英雄扱い・・
我彼の文化的差に愕然とするのを心配してもことでもあろう。

そして偽造を疑われてるヴァリアーノ。
おなじイエズス会からさえ内部告発の手紙が送られていたのである。

日本最初の活版印刷。それも日本文字を職工し宣教師さえ驚かしている。
日本出版文化の先駆をなした。

ただ、その価値は政治的に潰された。
いまは外の国にその印刷物を確認できる。

浮世絵彫り刷るに比較すれば雲泥の差が感じられよう。
ときはは封建時代。

農耕稲穂の文化は八百万の神に住む国には一神教で他宗教を悪魔とする」戦闘性は馴染まない。

イエヅス会のバリヤーノ、ザビエルは他の布教者と違い日本人、その社会しくみを知っていた。
簡単には布教は無理である。
フランシスコ会や他の布教普及会が布教の裏に植民地化をもって力で布教しようとする。
ことを急ぎすぎる。文明の衝突

神社仏閣の打ちこわし
さげすむ日本人観・・
国家を惑わす邪教とされた。

バテレン追放である。

家康と秀吉は旧勢力を維持し支配を続けようとした。
信長は世界を目指した。
信長との人間の差を感じる。

大航海、産業革命のグローバル化を乗り遅れ260年の眠りに行ってしまう。
一切国を閉じた。

この少年たちの偉業は帰国後生かされなかった。
岩倉使節が訪欧するのをまつしかなかった。
邪教キリシタンとして記録も一切世から消されたからである。

伊東マンショは成人名さえない。
祐益もよその国から読み解いたもの。
マンショの母が寄進したマンショの像は円南寺の火災でもなんとコかのこれた。寺は焼け手がかりはない。

ただ武士道が支配の基本であったのが良かった。
この生真面目な責任感、敬虔さは明治の欧化政策、敗戦の太平洋戦争を乗り切れる復興の原動力となった。

ほぼ書きつくされたマンソョであるが現地人の立場からブログ風に書くことをここに宣言する。

キリシタンではないがきれば赤い血が出る日本人である。

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