電源開発と白樺派
2007年6月8日月替わりの入梅だったが、ここんとこ3日間は晴天の宮崎。
宮崎はあおぞらがよく似合う。
ただ、これでは自慢の天候資源の水資源が年間量取れるのや否や
今年は水不足を予想してる。あぁ〜痛し痒し。
昨夜深夜まで名古屋からお越しの方と5時間近く楽しき連続トーク。IT関係者の方の長期休暇を利用しての宮崎らしい。
古事記・日本書紀に憑かれ天孫降臨の高千穂から日向の地に入られた歴史正統派のコースの方。
茨城の70歳過ぎの方は自説日本の古代史を書くために天岩戸、高天原と現地踏査のタカチホ入りとのこと。
好事家には上には上がおられるようで末恐ろしい。
水戸は陽明学。本来、日本を鎖国から解き放った栄誉を最初にうけるべき藩であったハズだ。
薩長土肥に後塵を許すハメになったのはほんの少し疾風怒濤の封建制に早い時期に、立ち向かいすぎたがためである。
水戸藩の学問的総領・藤田東湖に私淑しすぎる西郷隆盛を見かねた薩摩の雄。
行動派の学問の凄さに恐れをなし手綱を引き締める名君・島津斉彬。
「東湖をみずして左内を見よ」
当代一の学者藤田東湖を避けさせ、福井藩橋本左内を師とするように諭したのである。
時代に少し早く登場したため水戸藩は幕末を前にして人材のすべてを失い消沈。流石に斉彬である。
その後は、長州が開国に向けた旗を広い気高く立てる。
諜略に長けてきた薩摩藩は4賢公(松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・島津斉彬)」福井、伊予、土佐、薩摩を立てながら、幕末を駆け抜けようとする。
13代の将軍徳川家定は、史上最も凡愚の将軍。
しかも精神薄弱にして病弱。
難局ゆえ 次期将軍の選定が大きな課題であった。
そこに島津斉彬は叔父島津忠剛の女、敬子(天保7年(1836)〜明治16年(1883))敬子=篤子を薩摩藩主島津斉彬養女とし、さらに 近衛右大臣忠熙養女とし13代の妻とさせ国政を操ろうとした。
諸外国が押し寄せ時局の混乱に実質のトップ不在の病弱ゆえ跡継ぎ問題は横たわっていた。
14代をめぐり幕府は二派に分かれる。
大老井伊直弼はあくまでも徳川の血筋に執着。
紀州・家福(後の徳川家茂)を擁立VS開明派諸藩は一ツ橋・慶喜(15代将軍)擁立を図った。
両者は激しく対立。第14代将軍は徳川家茂に落ち着き、反対派の粛清が図られた。
一橋慶喜・松平春嶽らは直弼の手により蟄居謹慎を命じられた。
反幕思想を持つ者たちを片っ端から処刑した。
安政の大獄である。
しかも神は見ているもので国を憂うあまりの諜略を計った島津斉彬への突然の死の宣告。
いやはや、開明派諸藩は困った。
ただ、吉田松陰の処刑は長州藩を大いに刺激し、長州藩は討幕に向けて猛烈な回天を見せることとなる
陽明学の水戸藩は桜田門で大老井伊を殺害、ただ、斬ったのは唯一の参加者の薩摩藩。
封建制度の頂点殿様制度の中、そう身分も高くない武士が動き始める。
薩摩・西郷隆盛・大久保利通、
長州・高杉晋作木戸孝允伊藤博文井上馨久坂玄瑞大村益次郎。
土佐・藩脱藩坂本竜馬、武市半平太、岩崎弥太郎
佐賀・江藤新平、佐野常民、大隈重信、大木喬任、副島種臣
と偉人を排出した
日向は稀なる小藩6藩の支配体制。
その一番の大藩たる延岡は内藤の治世で政挙はあの井伊直弼の弟。この九州には珍しく譜代の殿様。薩摩おさえだったんであろう。
ゆえに幕末には際立った動きができない秋月、伊東、菊池、佐土原島津、内藤。
NHK大河ドラマは勝VS西郷のお膳たてをし、江戸の町を守り、徳川を田安に引き継がせ慶喜は改名して静岡で生き延びさせた、徳川の嫁・篤子を描く。
回転が遅れた日向、いまそのまんま知事が誕生した。
話がそれた。
参議院選挙まで1ヶ月をきろうとしている。
かって立会い演説会は一人30分〜1時間で立候補者自身が演説をした。
今はテレビゆえどうにもわれらの世代は馴染まない。
肉声が聞けたので投票しやすかった。
マニフェクト選挙ナンぞ、偏差値教育社会が生み出したる私に言わせればエセ民主主義。立会い演説会を復活せよ!それがいい。
保守の牙城の候補は宮崎馴染みの方であった。
川野芳満ホーマン、と相川勝六。三輪とか・・石神敬吾
候補者の常連だった故三つ子の魂百までで覚えている。
この相川勝六は戦前の官選知事。
前に、有吉知事の功績を触れたが、相川知事も特筆する功績を残した。
水資源たる電源開発を宮崎にもたらしたのである。
大正12年12月15日日豊本線が全線開通した。
農産品カボチャ、スイカ、キゥリ、切干大根販路拡大となる。
空の雄、後藤勇吉を使っての大阪空輸はいまのそのまんま知事に先駆、センセーショナル効果をもたらした。
鉄道開通記念の大正13年4月1日宮崎都城が市制を施行する。
陸の孤島宮崎に唯一の資源があった。
宮崎の包蔵水力は119万キロワット
九州全体の38パ^セントを占める。それが有効利用をされていない。ところが県外資本による申請が許可される。
県外送電反対の運動がある。
「針金で、遠くいくかと流れに聞けば、わたしゃ出ん気(電気)じャ行かぬきじゃ」
都々逸も残ってるぐらいだ。ほかに劇や浪花節もあるそうだが見つからない。
水利権を渡す代わりに多額の寄付もあり、214万円にもなる。
この基金がそのまんま知事に生きた。
今をときめく観光ツアーの県庁は昭和7年、橘橋ともどもこの基金を元に建設される。
イギリス・テェームズ川に架かってた「慕情」の映画そのものの橋・橘橋であった。こちらは残念ながらない。
あればあわせた観光名所なんであるが残念である。
住友が耳川開発に寄付して椎葉西郷間の道路を開き百万円道路と呼ばれる。
豊富な電力は旭化成の前身の日窒が延岡に建設される。
昭和12年11月18日相川知事は勤労倍加運動として祖国振興隊を結成。
近衛内閣の国民精神総動員運動に流れに掉さしての結成であった。
日高重考の祖国振興朗唱文にある愛国心、日向への郷土愛、勤労での産業発展の三つの要素での運動である。
知事を総監に学校隊、青年隊、一般からなり、開墾稲刈り道路工事に従事した。
昭和13年には県営小丸川開発事業が政府に認可された。
これには大変な苦労があったハズだ。名知事である。
治水利水の目的での電源開発である。
川南原開田事業の給水を含んでいる。
政府は電力国家管理案で効率配分を計画、資本主義是正のためでもあった。現に13年には火力のみは電力管理法が公布された。
政府の方針と齟齬合してるが相川知事は知恵を使った。
祖国をキーワードに昭和15年の皇紀2600年を迎えるためとして日本精神として郷土・国土愛と産業開発を政府に認めさせたのである。
初代神武の地日向は近衛内閣にしても一目置いていたわけである。
秩父宮の筆になる八紘一宇の塔・八紘一宇之基柱・八紘台は祖国振興隊の奉仕の力でこうして作られたのだ。
塔の石は侵略したアジア各地から運び込まれた。
昭和15年11月25日竣工した。
この小丸川開発計画は日本の文学運動に大きな影響を与えた。
白樺派の文芸集団は明治39年に学習院に入った武者小路実篤
志賀直哉、有島武雄、木下利玄、長与善郎ラにより自然派文壇全盛のころとプロレタリア文学勃興期におこった。
御曹司集団が長続きハズが無いと揶揄されていた。
大正7年9月東京をたち建国のチ宮崎へ。
苦難の末11月14日土地購入が決まった。
くしくも交流のあるフランス・ロダンの誕生日の日であった。
武者小路実篤はここで多くの作品を書いた。
ただ、電源開発で土地が沈むので昭和13年に日向を出て埼玉の第二新しきムラに移転した。
房子婦人は、このムラに杉山とともに残り日向を守り続けた。
平成元年97歳で房子婦人は逝った
実篤は昭和51年90歳で去りった。
日向の地名は建国の地として戦前は輝いていた。
電源開発が無ければ日向はどうなっていたことであろうか。
孤児の父・石井十次は茶臼原で既に開墾に成功していた。
13年に先輩入植者としてそこを武者小路一向はたずねている。
宮崎はあおぞらがよく似合う。
ただ、これでは自慢の天候資源の水資源が年間量取れるのや否や
今年は水不足を予想してる。あぁ〜痛し痒し。
昨夜深夜まで名古屋からお越しの方と5時間近く楽しき連続トーク。IT関係者の方の長期休暇を利用しての宮崎らしい。
古事記・日本書紀に憑かれ天孫降臨の高千穂から日向の地に入られた歴史正統派のコースの方。
茨城の70歳過ぎの方は自説日本の古代史を書くために天岩戸、高天原と現地踏査のタカチホ入りとのこと。
好事家には上には上がおられるようで末恐ろしい。
水戸は陽明学。本来、日本を鎖国から解き放った栄誉を最初にうけるべき藩であったハズだ。
薩長土肥に後塵を許すハメになったのはほんの少し疾風怒濤の封建制に早い時期に、立ち向かいすぎたがためである。
水戸藩の学問的総領・藤田東湖に私淑しすぎる西郷隆盛を見かねた薩摩の雄。
行動派の学問の凄さに恐れをなし手綱を引き締める名君・島津斉彬。
「東湖をみずして左内を見よ」
当代一の学者藤田東湖を避けさせ、福井藩橋本左内を師とするように諭したのである。
時代に少し早く登場したため水戸藩は幕末を前にして人材のすべてを失い消沈。流石に斉彬である。
その後は、長州が開国に向けた旗を広い気高く立てる。
諜略に長けてきた薩摩藩は4賢公(松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・島津斉彬)」福井、伊予、土佐、薩摩を立てながら、幕末を駆け抜けようとする。
13代の将軍徳川家定は、史上最も凡愚の将軍。
しかも精神薄弱にして病弱。
難局ゆえ 次期将軍の選定が大きな課題であった。
そこに島津斉彬は叔父島津忠剛の女、敬子(天保7年(1836)〜明治16年(1883))敬子=篤子を薩摩藩主島津斉彬養女とし、さらに 近衛右大臣忠熙養女とし13代の妻とさせ国政を操ろうとした。
諸外国が押し寄せ時局の混乱に実質のトップ不在の病弱ゆえ跡継ぎ問題は横たわっていた。
14代をめぐり幕府は二派に分かれる。
大老井伊直弼はあくまでも徳川の血筋に執着。
紀州・家福(後の徳川家茂)を擁立VS開明派諸藩は一ツ橋・慶喜(15代将軍)擁立を図った。
両者は激しく対立。第14代将軍は徳川家茂に落ち着き、反対派の粛清が図られた。
一橋慶喜・松平春嶽らは直弼の手により蟄居謹慎を命じられた。
反幕思想を持つ者たちを片っ端から処刑した。
安政の大獄である。
しかも神は見ているもので国を憂うあまりの諜略を計った島津斉彬への突然の死の宣告。
いやはや、開明派諸藩は困った。
ただ、吉田松陰の処刑は長州藩を大いに刺激し、長州藩は討幕に向けて猛烈な回天を見せることとなる
陽明学の水戸藩は桜田門で大老井伊を殺害、ただ、斬ったのは唯一の参加者の薩摩藩。
封建制度の頂点殿様制度の中、そう身分も高くない武士が動き始める。
薩摩・西郷隆盛・大久保利通、
長州・高杉晋作木戸孝允伊藤博文井上馨久坂玄瑞大村益次郎。
土佐・藩脱藩坂本竜馬、武市半平太、岩崎弥太郎
佐賀・江藤新平、佐野常民、大隈重信、大木喬任、副島種臣
と偉人を排出した
日向は稀なる小藩6藩の支配体制。
その一番の大藩たる延岡は内藤の治世で政挙はあの井伊直弼の弟。この九州には珍しく譜代の殿様。薩摩おさえだったんであろう。
ゆえに幕末には際立った動きができない秋月、伊東、菊池、佐土原島津、内藤。
NHK大河ドラマは勝VS西郷のお膳たてをし、江戸の町を守り、徳川を田安に引き継がせ慶喜は改名して静岡で生き延びさせた、徳川の嫁・篤子を描く。
回転が遅れた日向、いまそのまんま知事が誕生した。
話がそれた。
参議院選挙まで1ヶ月をきろうとしている。
かって立会い演説会は一人30分〜1時間で立候補者自身が演説をした。
今はテレビゆえどうにもわれらの世代は馴染まない。
肉声が聞けたので投票しやすかった。
マニフェクト選挙ナンぞ、偏差値教育社会が生み出したる私に言わせればエセ民主主義。立会い演説会を復活せよ!それがいい。
保守の牙城の候補は宮崎馴染みの方であった。
川野芳満ホーマン、と相川勝六。三輪とか・・石神敬吾
候補者の常連だった故三つ子の魂百までで覚えている。
この相川勝六は戦前の官選知事。
前に、有吉知事の功績を触れたが、相川知事も特筆する功績を残した。
水資源たる電源開発を宮崎にもたらしたのである。
大正12年12月15日日豊本線が全線開通した。
農産品カボチャ、スイカ、キゥリ、切干大根販路拡大となる。
空の雄、後藤勇吉を使っての大阪空輸はいまのそのまんま知事に先駆、センセーショナル効果をもたらした。
鉄道開通記念の大正13年4月1日宮崎都城が市制を施行する。
陸の孤島宮崎に唯一の資源があった。
宮崎の包蔵水力は119万キロワット
九州全体の38パ^セントを占める。それが有効利用をされていない。ところが県外資本による申請が許可される。
県外送電反対の運動がある。
「針金で、遠くいくかと流れに聞けば、わたしゃ出ん気(電気)じャ行かぬきじゃ」
都々逸も残ってるぐらいだ。ほかに劇や浪花節もあるそうだが見つからない。
水利権を渡す代わりに多額の寄付もあり、214万円にもなる。
この基金がそのまんま知事に生きた。
今をときめく観光ツアーの県庁は昭和7年、橘橋ともどもこの基金を元に建設される。
イギリス・テェームズ川に架かってた「慕情」の映画そのものの橋・橘橋であった。こちらは残念ながらない。
あればあわせた観光名所なんであるが残念である。
住友が耳川開発に寄付して椎葉西郷間の道路を開き百万円道路と呼ばれる。
豊富な電力は旭化成の前身の日窒が延岡に建設される。
昭和12年11月18日相川知事は勤労倍加運動として祖国振興隊を結成。
近衛内閣の国民精神総動員運動に流れに掉さしての結成であった。
日高重考の祖国振興朗唱文にある愛国心、日向への郷土愛、勤労での産業発展の三つの要素での運動である。
知事を総監に学校隊、青年隊、一般からなり、開墾稲刈り道路工事に従事した。
昭和13年には県営小丸川開発事業が政府に認可された。
これには大変な苦労があったハズだ。名知事である。
治水利水の目的での電源開発である。
川南原開田事業の給水を含んでいる。
政府は電力国家管理案で効率配分を計画、資本主義是正のためでもあった。現に13年には火力のみは電力管理法が公布された。
政府の方針と齟齬合してるが相川知事は知恵を使った。
祖国をキーワードに昭和15年の皇紀2600年を迎えるためとして日本精神として郷土・国土愛と産業開発を政府に認めさせたのである。
初代神武の地日向は近衛内閣にしても一目置いていたわけである。
秩父宮の筆になる八紘一宇の塔・八紘一宇之基柱・八紘台は祖国振興隊の奉仕の力でこうして作られたのだ。
塔の石は侵略したアジア各地から運び込まれた。
昭和15年11月25日竣工した。
この小丸川開発計画は日本の文学運動に大きな影響を与えた。
白樺派の文芸集団は明治39年に学習院に入った武者小路実篤
志賀直哉、有島武雄、木下利玄、長与善郎ラにより自然派文壇全盛のころとプロレタリア文学勃興期におこった。
御曹司集団が長続きハズが無いと揶揄されていた。
大正7年9月東京をたち建国のチ宮崎へ。
苦難の末11月14日土地購入が決まった。
くしくも交流のあるフランス・ロダンの誕生日の日であった。
武者小路実篤はここで多くの作品を書いた。
ただ、電源開発で土地が沈むので昭和13年に日向を出て埼玉の第二新しきムラに移転した。
房子婦人は、このムラに杉山とともに残り日向を守り続けた。
平成元年97歳で房子婦人は逝った
実篤は昭和51年90歳で去りった。
日向の地名は建国の地として戦前は輝いていた。
電源開発が無ければ日向はどうなっていたことであろうか。
孤児の父・石井十次は茶臼原で既に開墾に成功していた。
13年に先輩入植者としてそこを武者小路一向はたずねている。
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