江戸文化の移転

2007年3月29日
東京一極集中は地方のありとあらゆる弊害を生んでいるが
東京からの田舎移転に尽力してる人々も現れている。
これこそが格差解消への第一歩。

ナンセンス・ギャグなんぞの高級なる笑いはよっぽど難しきジャンル。
受け入れる側の教養、余裕、社会的土壌の成熟がないとできない。

神津 善行
(こうづ よしゆき、アレ?生き様の今回もあり「ぜんこう」ジャないんだ!)
はクレ−ジ−・キャッツを世に送り出した一人との認識を持っている。
(1932年1月2日 - )江戸っ子の作曲家
国立音楽大学器楽科卒業。東京交響楽団理事、日本民謡協会理事。

妻は女優の中村メイコ、長女は作家の神津カンナ、次女は女優の神津はづき、
長男は画家の
神津善之介という芸術家一家である。
娘婿(はづきの夫)に杉本哲太。

作曲した作品
かっての結婚式披露宴の定番曲
新妻に捧げる歌(作詞:中村メイコ/唄:江利チエミ、昭和39年)
じゃじゃ馬ならし
スター誕生
奥様は大学生
朝日に栄光あれ(行進曲:テレビ朝日のスポーツ番組のオープニングテーマに使用される)
ママ横向いて
交響詩「月山」他多数。

TV草創期の番組で口ひげとともに記憶に残る
あなたのメロディー(NHK、司会)
ゆかいな音楽会(1978 - 1980 TBSテレビ、積水ハウス一社提供、司会)
著作物はオシャレのかたまり。
星空に両手を
音楽の落し物 等

そして
映画「無責任一代男」 の音楽担当
映画スター・植木等誕生!クレ−ジ−・キャッツの誕生!
60年代東宝映画の金字塔!
すべてはこの一本から始まった!

 なにがって、もちろん「東宝クレージー映画」に決まってるじゃないか! 
という東宝クレージー映画の記念すべき第1作
60年代の東宝のみならず、日本のコメディ映画の金字塔。

それまでは滅私奉公的なサラリーマンのペーソスを得意としていたいわゆる森繁喜劇。
「東宝サラリーマンコメディ」のルーティンをぶちこわし、
正体不明な風来坊が口八丁手八丁でとある会社に潜り込み、デタラメの限りを尽くしたあげくハッピーエンドという、もの凄い物語。
一歩間違えば大ブ−イングのナンセンス・ギャグ。
音楽がこれまた画期的!神津 善行しかできなかった
時代が配置された人々がドンピシャ!

「ニッポン無責任時代 」
   86分 カラー 東宝スコープ
監督    古沢憲吾
脚本    田波靖男 松木ひろし
撮影    斎藤孝雄
音楽    神津善行
挿入歌作詞 青島幸男
挿入歌作曲 萩原哲昌
1962.07.29併映・喜劇駅前温泉

、この映画が製作された1962年っていうと、東宝創立30周年
日本の映画総観客動員は1958年の11億2700万人をピークにじりじりと落ち込み続けていた時代
テレビの普及は当時は映画から目の敵にされていたテレビから生まれた植木 等というスターが、この1本の映画で映画スターになり、映画の黄金時代を終焉を遅らせたともいえるんだからある意味皮肉な話でもある。

62年には、松竹で「クレージーの花嫁と七人の仲間 」
大映で「スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ」と
「サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ」
に出演したものの主役でもなく、内容的にもヒット曲に便乗した、古いタイプの喜劇だったため、特に注目されることはなかった。

この1本で彼の歴史だけでなく、日本のコメディの歴史をも変えてしまったのである。
時の他の喜劇映画と比べるとスピード感、ダイナミズム、ギャグの爆発力を含め、完全に時代を先取りしている。

もともとはフランキー堺を想定して書いていた「無責任社員」がベースになった作品。
がちょうどいいタイミングで東宝に「植木で1本撮って欲しい」という話が来たため、脚本を提出したところGOサインが出たとのこと。

主題曲でもある「無責任一代男」の歌詞
「人生で大事なことはタイミングにC調に無責任」
を証明するようなエピソード。

「スーダラ節」「ドント節」「五万節」などシリーズ中でも最も有名なナンバーが数多く使用されているクレージー入門書。

新聞が伝える逸話。
植木等の父は戦前、労働運動や部落解放運動に身を投じ、また出征兵士に「戦争は集団殺人だ」と説く反骨の僧侶。
その父が治安当局に拘束されると当時小学生だった等少年は父の代わりに僧衣を身にまとい、檀家を回って経をあげた

檀家から帰る途中、近所のいじめっ子らが道に仕掛けた縄で転び、顔を強打して鼻血を流した。等少年は近くに潜む連中に仕返ししたい衝動を必死でこらえ、泣き声も罵声もあげることなく、血だらけの顔のまま静かにその場を立ち去った

「衣を着た時は、たとえ子供でもお坊さんなのだから、けんかをしてはいけません。背筋を伸ばし、堂々と歩かねばなりません」。そんな母の言葉が等少年の頭にあった。家に帰ると母は何も言わず手当てをし、血が止まると等少年を抱きしめ
「よく辛抱したね」と涙を流したという

「まじめな苦労人がいったんライトを浴びるとすごくおかしくてインチキな人物になる」
もともとスーダラ節を歌うのがいやで悩んだ当人だ。
だが「わかっちゃいるけどやめられない」と人間の弱さを認めるのは親鸞の教えに通じると説いたのはあの父だった。

おかげで人をあざける笑いでなく、自らに潜む軽薄を風刺する新しい笑いが、高度成長期の日本人を元気にした
「やりたいことと、やらねばならないことは別と教えてくれたのがスーダラ節だった」
「無責任男」という時代の僧衣をまとい、堂々と自らのなすべきことをやりとげた。

前置きが長くなったがわが宮崎においでいただく
清武文化会館の館長さんに就任いただいた。
その神津 善行館長ゆえいかほどに紙面を割いてもかまわない。 略歴
作曲を信時潔、トランペットを中村冨士雄に師事。主に映画音楽を中心に約300曲作曲。歌謡曲やブラスバンド
曲も作曲している。エッセイなども執筆する。1992年に民族音楽の復興のために琵琶など日中伝統楽器を使った
女性11名のグループ「六華仙」を結成する。

植物と音楽による研究を早稲田大学で行っており、植物の微弱な信号音で小交響詩「依代」を作曲するという活動もしている。

志が違う。!
文化が偏っていると音大に沖縄音楽講座を取り入れる。
才能と財力がないゆえのことと気づき地方に光を当てた。
人材の発掘、文化の伝道者。

沖縄で10年間音楽講座を持った。
10年間で参加者が300人から800人担った。
最近沖縄からミュジシャンが輩出してるのも全体の底上げがあったんだ!う〜ん・・あの盲目の方、神の歌声も・・j結果なんだ

今年は、つくば府中、佐久市で同様の指導講座を設けての宮崎掛け持ちの強行一年のスケジュ−ルである。

宮崎ですること
音楽の一流を宮崎に呼んで2ヶ月一回実施する。

前橋汀子バイオリン
ロシア音楽院j教授
ハ−ブ演奏者
神津カンナ三人の会
渡辺香津美
日野酷正
山下洋輔

クラシック、ジャズにこだわらず邦楽をふくめて音楽全体を楽しめる人材つくりを目指していただけるありがたい人的派遣である。
さすが江戸っ子!”

「福岡から先になると芝居も行かない。
非常に日が当たって日向ぼっこをしている。」

「もう少しなんか真剣に考えてみたらというところがある」
「お客が入らないのが山形と宮崎!音楽界でいわれる。」

200人を少しずつ増やしていけたららできる。
5月末の舞台講演会には中村メイコも含めて何かやりたい。
任期の2年間でレ−ルを引ければいい。

私どもだって言い分がある。
宮崎人が東京の文化発展に尽くしてきたではないかということだ。人材を田舎によこせ!

清武町の安井息軒 (寛政11年(1799)−明治9年(1876)78歳)
東大の前身たる湯島の聖堂の昌平黌学問所の教授にあの幕末、明治期に責任者で教育を残した。
明治を作った谷干城や陸奥宗光を排出。

息軒の夫人は、「岡の小町」と呼ばれた評判の美人。
森鴎外の作品『安井夫人』がそれである。

ペリーの来航で天下が騒然としたとき
『海防私議』を著して、海防策を主張。
藤田東湖を介して水戸斉昭に『海防私議』『靖海問答』を上程
安政の大獄で日の目は見なかった。

日本評論新社「明治文化全集23 思想篇」
、岩波書店「日本思想大系47 近世後期儒家集」に訓訳版が所収)

「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」

文京区根津と千駄木は、下町情緒あふれる地域である。
東京大学が近く、川端康成、北原白秋、高村光太郎、夏目漱石、森鴎外など多くの文人が居を構えた。
東京・千駄木の養源寺に埋葬され、現在東京都史跡

清武の生家は宮崎県で唯一の国指定史跡となっている。
旧宅の庭の隅に「安井息軒先生誕生地」の記念碑があり、
題字は徳川家達!
あの16代目徳川家の当主ではないか。

徳川家は15代慶喜までが歴史に名を成すが,16代を亀之助=家達(いえさと)を擁してお家を守ったのは
薩摩出身の13代家定の御台所天璋院篤姫の尽力である。将軍慶喜の救命の嘆願も認められた。篤姫は芸大裏、寛永寺に眠る
実家指宿にも線香が耐えない。
宮尾登美子の原作「天璋院篤姫」は次回の大河ドラマ。

墨田川を見下ろす築地に慈恵医大の建物がある。
この創立者は宮崎・の高木兼寛その人である。
94歳の現役お医者さん日野原重明は慈恵医大の看板。

高木兼寛(嘉永2年(1849)大正9年(1920) 70歳 )
鹿児島・石神良策について医学を修行する。
明治2年(1869) 20歳  鹿児島医学校(鹿児島藩立開成学校)で英医ウィリアム・ウィリスについて、医学及び英語を学ぶ。
明治8年(1875) 26歳  イギリス留学を命ぜられ、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学する。
明治15年(1882)33歳 8月、有志共立東京病院(東京慈恵会病院の前身)を設立する。
明治16年(1883) 34歳  11月、海軍将兵の脚気予防策として、海軍の兵食を改善する必要があることを明治天皇に奏上する。
明治18年(1885) 36歳  4月、看護婦教育所(我が国初の看護学校)を設立する。
12月、海軍軍医総監に任ぜられる。

「脚気」撲滅までの理論蒼然さからビタミン発見につながる。
陸軍軍医総監森鴎外はドイツ学ゆえ細菌説を唱える。
結果は高木兼寛の努力により不治の病「脚気」を治した。

東京の銀座4丁目に講習所跡の記念碑がある。
兼寛らが教員で、講習所を設立
明治15年(1882)、兼寛は、医学の研究だけでなく、貧しい人でも誰もが治療を受けることができる
施療病院(有志共立東京病院)を設立。博愛精神のもとに寄付を集めてつくる。
 明治20年(1887)、東京慈恵医院と改称され、明治40年(1907)現在の東京慈恵会病院と改称。
 兼寛の言葉「病気を診(み)ずして病人を診(み)よ」

 看護婦は正式な教育を受けていなかったため、イギリスのセント・トーマス病院内のナイチンゲール女史の創設
した看護婦養成所を見習い、我が国初の看護婦教育所を設立。
この学校にも「病気を診ずして病人を診よ」という精神がみなぎっている。
第1回生は、明治18年(1885)、13名が生徒見習いとして採用された。

第何回目かのお笑いブ−ムがきているようだ。
笑いは寄席。
今の一席毎、一日ごと終わるようにしたのが
2代目柳家小さん=武士の出・古藤順三朗・宮崎の人である。

かって寄席は町内ごとにあり、
「今日はここまで」
「一席の読み納めは明日とします」と続き物であった。
明治期におのぼりさんが江戸にやってくる。
大改革をしたのが2代目小さん
その日に一席が終わるようにした、

落語通の軍医総監松本順にして
さえずるような声から禽語楼の称号をもらい
禽語楼小さん、音源もレコ−ドにのこっている。
弟子の三代目小さんは漱石にして
「同じ時代に生きてる喜び」と言わせしめた。

この三人の東京に残してきた功績分の一部でも東京遷都だ!
有り余る「神津善行 」あふれる才能を宮崎に注入移転していただきたい。
文もいい。文章講座もぜひお願いしたい。
神々の国宮崎・是非掘り起こしてほしいものだ。
どんげかせんとといかん!
たんんまっせ!江戸っ子の粋・お祭り小僧・神津善行!

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