2007年3月12日
ケネディ−大統領が来日のとき尊敬してる人はと聞かれた。
「ウエスギヨウザン!」
記者席、インタビュァ−一同に
「??だれ??上杉鷹山??」
まったくマイナ−な存在であった。

一昨日の全国首長のアンケ−トのトップにふさわしき望ましき人でトップに上がった人である。

3月10日 読売新聞
首長の理想リーダー「上杉鷹山」…財政再建の願い表れ
 自治体の首長が理想とするのは上杉鷹山(ようざん)――。

 読売新聞社が全国の首長に対して行ったアンケートで、理想のリーダーを尋ねたところ、
藩財政の立て直しに取り組んだ江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山がトップに挙がった。
厳しい財政事情に直面する地方の苦悩と再建への願いの表れと言えそうだ。

 全自治体(1882、2月1日現在)の首長を対象にしたアンケート(回収率91・3%)で、理想のリー
ダーとして人物名を挙げた899人中、鷹山と答えたのは146人。2位の徳川家康(66人)を大きく上回った
。鹿児島県の西郷隆盛など郷土の歴史的人物を挙げた首長も多かったが、鷹山と回答した首長は43都道府県に
わたる。

上杉 鷹山(、宝暦元年7月20日(1751年9月9日) - 文政5年3月11日(1822年4月2日))は江戸時
代中期の大名。
出羽国米沢藩の第9代藩主。官位は従四位下侍従、官名は弾正大弼のちに越前守。

領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。
諱は治憲(はるのり)だが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名。

そのまんま知事に言いつけるゾ!出自を書け!何処の人?
小藩6藩支配の日向の国宮崎・高鍋・秋月の出である。
養子に行った訳だ。
日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれる。
母は黒田長貞の娘。
母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であった。
このことが縁で、10歳で第8代藩主重定の養子となる。
すなわち、上杉鷹山自身は、実際の血筋で言えば米沢藩初代藩主景勝の昆孫にあたる。
17歳で元服。江戸幕府10代将軍徳川家治の一字を賜り「治憲」と改名する
正室は前藩主重定の長女幸姫は発育障害があったようだ。
子は上杉顕孝(長男)。

堺屋太一の舞台劇「上杉 鷹山」は好評であった。

上杉家は18世紀中旬には借財が20万両
石高が15万石でありながら、かつての会津120万石時代の家臣団6,000人がいた、
このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かった。
名家への誇りを重んずるゆえ豪奢な生活を改められなかった前藩主重定は、
藩土返上のうえ領民救済は公儀に委ねようと考えたほどであった。

上杉鷹山は先代任命の家老らと対立
、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、との民政事業を育成。
天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が
多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。
祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として
細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。
これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した

伝国の辞(でんこくのじ)
伝国の辞とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得で
ある。

内容は下記の通り。

一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有るまじく候事
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。

『為せば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり』で有名な上杉鷹山
ただ、脚光を浴び得る人は鷹山の師・儒学者・細井平州でもあろう。

内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、
その師、細井平州を当代最大の学者として紹介しているぐらいだ。

細井平州は、享保13年、尾張国知多郡平島村の農家の出。
幼年から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、
17歳で中西淡淵に師事。18歳のとき長崎で3年間の留学。
          
師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾「嬰鳴館」を開き中国の古い書物を研究し多くの人材を育て
た学者。                 

実学を重んじ、経世済民を目的とした教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえ、各地の藩の
賓師として迎えられた。        

明和元年、細井平州は37歳
米沢藩の藩主となる当時14歳の上杉鷹山の師として迎えられ、細井平州は全力を注いで
教育にあたる。
17歳で藩主になった鷹山は、平州の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し
現在も語り継がれている。
                  
細井平州は安永9年尾張藩主徳川宗睦の侍講となる。
さらに尾張藩校の初代督学となって 藩学の振興につとめる。
藩内各地で廻村講話を開き庶民教育を実践。
享和元年、江戸で亡くなり、墓は浅草の天嶽院。

浅草振興の中心として昭和50年代であったが、浅草ビュ−ホテルが建設された。
浅草寺境内の花やしきをやりぬき5分もせず国際通り六区街にでる
その突き当たりの国際通りにある浅草唯一の高層ホテル
20メートル室内温水プール。27Fのレストラン28Fの酒場からは下町が堪能でき大衆料金がいい 
ロック座、浅草演芸ホ−ルも歩いて何分。
細井平州の墓所も近くでホテルの3軒となりの感応稲荷、隣が日輪寺その隣が天嶽院
ちなみにその隣は郵便局                                
細井平州はここに眠っている。
ブログから平州の言葉。

「平生躬行正しと申す内にも生まれつき窮屈片気なる人は人の師には致し難し。人の子を教育するは菊好きの菊を作
る様にはすまじく、百姓の菜大根をつくる様にすべきこと。百姓の菜大根を作るには一本一株も大切にし、上出来も、
へぼも、よきも、わるきも、食用にたてること。知愚、才不才、それぞれ畢竟よき人にさえできれば宜し。」

いつも正しく実行する人でも、偏屈な人は人間を教育する師にさせるべきではない。菊作りの人は、とかく自分の好み
に合うように丹精して特殊な花を咲かせ、自分の気に入らんものは全部捨ててしまう。すなわち名人や特別な者を教
育する方法で、菜っ葉大根を作る者はこれに反してどんなものでも良い。大小不揃いそんなことはどうでもよい。
一本一本を大切にし、うまく作って食えさえすればよい。これが大衆的な意味では真の教育であるんだと平州は説いている。

「してみせて 言って聞かせて させてみる」、

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