贋作
2007年3月11日隼人族・出雲族から出発する神話の国・日本。
出雲市大社町に島根県立古代出雲歴史博物館が10日オ−プン
、
敷地面積5万7000平方メートルに、延べ床面積1万2000平方メートルの本館や体験工房。
2003年12月に着工し、総事業費120億円。
荒神谷遺跡からは359本の銅剣、16本の矛、6個の銅鐸が出土
天照大神を困らせた荒らぶる弟・スサノウ尊の国である。
00年巨大柱が「田」の形の3本組み9本づつが伝えられてるとおり発掘された。
「金輪造営図」は大社宮司たる千家に伝わる古代出雲大社の古代の姿。
高さ48Mあったというがどうやら真実性を帯びてきた。
発掘された銅製品類は青銅でなく十円硬貨の如き赤銅色。
銅剣や銅鐸文化の展示品のうち600点が国宝で、30点が国の重要文化財
新人物往来社は「歴史読本4月号」で検証古代出雲王国の特集を組んだ。
昨日触れた小倉侍従日記の文芸春秋4月号昭和天皇戦時下の肉声p118から190の一挙73ペ−ジどこではない
余談であるが昨日書き落とした
10日は陸軍記念日。曜日も昭和20年とビッタシ・ダブリ。
つまり東京大空襲の10日は土曜日であったわけだ。
10日の新聞記事
福岡市博多区竹下・那珂遺跡群から3世紀・奴国、最古の都市計画道路 が見つかったという。
「都市計画」によって造られたとみられる国内最古の「道路」跡で同市教委の発掘調査によるもの。
奴国の道路とみられる遺構。
幅7メートルの道路
これはちょうど「魏志倭人伝」が記す邪馬台国の時代にあたる。
古墳時代初頭(3世紀後半頃)の道路跡で、福岡平野に栄えた奴(な)国のメーンストリート
見つかった道路は長さ100メートル、幅7メートル。
両脇に幅70センチ、深さ60センチの溝を備えている
。那珂遺跡群の北にある同時期の比恵遺跡群など十数カ所で断片的に溝の跡が出土しており、今回の発見で、
全長1.5キロの直線道路が復元できるという
また、道路の脇には前方後方墳1基、円墳2基が見つかった。
同遺跡の北150メートルには那珂八幡古墳があり、これらが道路に沿って並んでいる。
市教委は「弥生終末期から古墳時代に変わる時期、奴国において計画的な都市整備が行われていたことがうか
がえる」と話している。
問い合わせは同市教委埋蔵文化財第1課(092・711・4667)。
那珂遺跡群は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡。
あの志賀の島の金印のことである。
「後漢書」には、
「漢委奴國奉賀朝貢 光武賜以印綬」
奴国が西暦57年、中国に使いを送ったとあり、その時皇帝から贈られたのが志賀ヶ島出土の金印とされる。
「志賀ヶ島」用地買収の研修はここの国民宿舎で行われる。
いわば、聖地。
金印公園は何度と無く足を運んでいる。
宮崎でスナックを営んでおられる方の故郷。
島中の親戚の方々がワンサと集まっていただき酒盛りをした楽しい記憶がよみがえる。
三浦佑之著「金印偽造事件」(幻冬舎新書)なる著書を読んだ。
金印発見の状況は「甚兵衛口上書」という奉行所が作成し
た文書にもとづく
甚兵衛が発見したとされる金印は、甚兵衛の兄という人物から博多の豪商の手を経て黒田藩の奉行に
提出された。
それを藩の儒学者、亀井南冥(なんめい)が鑑定し、「後漢書」の記述を引用して、これは後漢の光武
帝が倭国の使者に与えた金印であると論証した
当時、黒田藩には、修猷(しゅうゆう)館と甘棠(かんとう)館という二つの藩
校があった。
亀井は甘棠館の館長。
修猷館も鑑定をしたが、亀井の鑑定に軍配が上がり、甘棠館の名声は大いに上がった。
著者三浦佑之は、修猷館にライバル意識を燃やす亀井が、旧知の豪商や奉行と組んで金印を偽造し、歴史的大発見をでっちあげたと推理する
では1956年、中国雲南省の古墳から「てん(さんずいに眞)王之印」が出土した。
志賀島の金印とうり二つの金印との類似性はどう説明がつくのか。
本書でも触れておられるが長くなるので削除する
写真を見比べると、先に発見された日本の金印が偽造品だとは信じがたい。
よい鑑定方法はないものだろうか。
三浦佑之著「金印偽造事件」では金印がニセモノというわけである。
詳しくは読んでほしいが概ね理由は次の通り。
1、1700年前なのに無キヅは不自然。
2、つまみの彫りがち列拙
3、鑑定した亀井南冥が塾頭になったときのタイミングのよさ。
4、疑わしき中国印で国王と普通は使われていない。
5、18世紀篆刻がはやった。
6、印聖・高芙蓉、藤点幹
7、漢学の知識をもとに古代中国の偽印を盛んに彫った時期があった。
8、そうした時期にタイミングよく漢魏晋の周辺異民族に国王との彫印は他にない。
9、出土地や状況発見者のあいまいさの点
どうであろう。九州国立博物館イ展示してある。
伸助の何でも鑑定団よろしくせきやん流の鑑定法
宮城と岩手以外の県は実印欲しさにすべからず、踏破した
新潟・佐渡ヶ島さえ行った。
その感覚での金印の特徴。
印面が中央に向かって、凹へこんでいる状態。
この時代は印紙に押印でなく粘土に封厄。
その点から見ると逃がさない工夫がしてある。
手元の印鑑を横から見られるが良い。
印肉がつきやすい様に印面が中央に向かって、凸突起している状態のはずだ。
すべては自分の真眼力がいい。
真贋論の一番は「永仁の壷事件」
文化財保護委員会の技師であった小山富士夫と陶人加藤唐九郎
「私はプロレスの味方です」で作家デビュ−した芥川賞作家・村松友視
「永仁の壺」新潮社で全貌ががわかりやすい。
「ゴッドハンド」、藤村新一の「遺跡捏造」は考古学を根底から覆した。。
宮城県築館町の上高森遺跡は現在、高校教科書の日本通史を扱う「日本史B」19種類のうち10種類に、
日本最古の石器の発掘場所として登場している。
1998・99年版から新たに書き加えた教科書がほとんど。
「ゴッドハンド」藤村新一をマスコミは追うのをやめた。
薄っぺらな日本国家の恥ゆえストップのようである。
捏造事件を最初に報じたのは毎日新聞である。
取材チームは2000年10月22日早朝
宮城県の上高森遺跡の現場で一人の考古学者が
石器を自ら地中に埋めるところの一部始終をビデオに収めた。
この考古学者は自ら埋めた石器を後日掘り出し
、報道陣を前に70万年以上前のものであると公表した。
同年11月4日取材チームに対し自ら遺跡を捏造したことを白状した。
丸山三内遺跡さえ怪しきなって来る
どのくらいの贋作が出回っているのか、
かつて東京美術倶楽部が調査した、
客の依頼を受けて鑑定した作品の
うち贋作は全体の約4割。有名な大家にはほとんど贋作があった。
作家本人が見れば偽物はすぐ見破れるので、贋作といえばこれまでは圧倒的に物故作家のモノが多かった、
最近現存作家の贋作も出てくるようになった。
技術が進歩したということもあるのだろう。
現存作家の贋作が出回るのは、外国では珍しくはない。
偽物が出てこなければ一流の画家とは言えないという言葉もあるぐらいだ。
贋作が出るたびに作家はある種の快感を覚えるらしく、ピカソの贋作の最大のコレクターはピカソ自身だった、という
朱泥の小さな急須・孟臣作といわれる。
恵孟臣は,宜興の人で,萬暦から清初康煕(約1598年から1684年)
本物であるはずがない。
出雲市大社町に島根県立古代出雲歴史博物館が10日オ−プン
、
敷地面積5万7000平方メートルに、延べ床面積1万2000平方メートルの本館や体験工房。
2003年12月に着工し、総事業費120億円。
荒神谷遺跡からは359本の銅剣、16本の矛、6個の銅鐸が出土
天照大神を困らせた荒らぶる弟・スサノウ尊の国である。
00年巨大柱が「田」の形の3本組み9本づつが伝えられてるとおり発掘された。
「金輪造営図」は大社宮司たる千家に伝わる古代出雲大社の古代の姿。
高さ48Mあったというがどうやら真実性を帯びてきた。
発掘された銅製品類は青銅でなく十円硬貨の如き赤銅色。
銅剣や銅鐸文化の展示品のうち600点が国宝で、30点が国の重要文化財
新人物往来社は「歴史読本4月号」で検証古代出雲王国の特集を組んだ。
昨日触れた小倉侍従日記の文芸春秋4月号昭和天皇戦時下の肉声p118から190の一挙73ペ−ジどこではない
余談であるが昨日書き落とした
10日は陸軍記念日。曜日も昭和20年とビッタシ・ダブリ。
つまり東京大空襲の10日は土曜日であったわけだ。
10日の新聞記事
福岡市博多区竹下・那珂遺跡群から3世紀・奴国、最古の都市計画道路 が見つかったという。
「都市計画」によって造られたとみられる国内最古の「道路」跡で同市教委の発掘調査によるもの。
奴国の道路とみられる遺構。
幅7メートルの道路
これはちょうど「魏志倭人伝」が記す邪馬台国の時代にあたる。
古墳時代初頭(3世紀後半頃)の道路跡で、福岡平野に栄えた奴(な)国のメーンストリート
見つかった道路は長さ100メートル、幅7メートル。
両脇に幅70センチ、深さ60センチの溝を備えている
。那珂遺跡群の北にある同時期の比恵遺跡群など十数カ所で断片的に溝の跡が出土しており、今回の発見で、
全長1.5キロの直線道路が復元できるという
また、道路の脇には前方後方墳1基、円墳2基が見つかった。
同遺跡の北150メートルには那珂八幡古墳があり、これらが道路に沿って並んでいる。
市教委は「弥生終末期から古墳時代に変わる時期、奴国において計画的な都市整備が行われていたことがうか
がえる」と話している。
問い合わせは同市教委埋蔵文化財第1課(092・711・4667)。
那珂遺跡群は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡。
あの志賀の島の金印のことである。
「後漢書」には、
「漢委奴國奉賀朝貢 光武賜以印綬」
奴国が西暦57年、中国に使いを送ったとあり、その時皇帝から贈られたのが志賀ヶ島出土の金印とされる。
「志賀ヶ島」用地買収の研修はここの国民宿舎で行われる。
いわば、聖地。
金印公園は何度と無く足を運んでいる。
宮崎でスナックを営んでおられる方の故郷。
島中の親戚の方々がワンサと集まっていただき酒盛りをした楽しい記憶がよみがえる。
三浦佑之著「金印偽造事件」(幻冬舎新書)なる著書を読んだ。
金印発見の状況は「甚兵衛口上書」という奉行所が作成し
た文書にもとづく
甚兵衛が発見したとされる金印は、甚兵衛の兄という人物から博多の豪商の手を経て黒田藩の奉行に
提出された。
それを藩の儒学者、亀井南冥(なんめい)が鑑定し、「後漢書」の記述を引用して、これは後漢の光武
帝が倭国の使者に与えた金印であると論証した
当時、黒田藩には、修猷(しゅうゆう)館と甘棠(かんとう)館という二つの藩
校があった。
亀井は甘棠館の館長。
修猷館も鑑定をしたが、亀井の鑑定に軍配が上がり、甘棠館の名声は大いに上がった。
著者三浦佑之は、修猷館にライバル意識を燃やす亀井が、旧知の豪商や奉行と組んで金印を偽造し、歴史的大発見をでっちあげたと推理する
では1956年、中国雲南省の古墳から「てん(さんずいに眞)王之印」が出土した。
志賀島の金印とうり二つの金印との類似性はどう説明がつくのか。
本書でも触れておられるが長くなるので削除する
写真を見比べると、先に発見された日本の金印が偽造品だとは信じがたい。
よい鑑定方法はないものだろうか。
三浦佑之著「金印偽造事件」では金印がニセモノというわけである。
詳しくは読んでほしいが概ね理由は次の通り。
1、1700年前なのに無キヅは不自然。
2、つまみの彫りがち列拙
3、鑑定した亀井南冥が塾頭になったときのタイミングのよさ。
4、疑わしき中国印で国王と普通は使われていない。
5、18世紀篆刻がはやった。
6、印聖・高芙蓉、藤点幹
7、漢学の知識をもとに古代中国の偽印を盛んに彫った時期があった。
8、そうした時期にタイミングよく漢魏晋の周辺異民族に国王との彫印は他にない。
9、出土地や状況発見者のあいまいさの点
どうであろう。九州国立博物館イ展示してある。
伸助の何でも鑑定団よろしくせきやん流の鑑定法
宮城と岩手以外の県は実印欲しさにすべからず、踏破した
新潟・佐渡ヶ島さえ行った。
その感覚での金印の特徴。
印面が中央に向かって、凹へこんでいる状態。
この時代は印紙に押印でなく粘土に封厄。
その点から見ると逃がさない工夫がしてある。
手元の印鑑を横から見られるが良い。
印肉がつきやすい様に印面が中央に向かって、凸突起している状態のはずだ。
すべては自分の真眼力がいい。
真贋論の一番は「永仁の壷事件」
文化財保護委員会の技師であった小山富士夫と陶人加藤唐九郎
「私はプロレスの味方です」で作家デビュ−した芥川賞作家・村松友視
「永仁の壺」新潮社で全貌ががわかりやすい。
「ゴッドハンド」、藤村新一の「遺跡捏造」は考古学を根底から覆した。。
宮城県築館町の上高森遺跡は現在、高校教科書の日本通史を扱う「日本史B」19種類のうち10種類に、
日本最古の石器の発掘場所として登場している。
1998・99年版から新たに書き加えた教科書がほとんど。
「ゴッドハンド」藤村新一をマスコミは追うのをやめた。
薄っぺらな日本国家の恥ゆえストップのようである。
捏造事件を最初に報じたのは毎日新聞である。
取材チームは2000年10月22日早朝
宮城県の上高森遺跡の現場で一人の考古学者が
石器を自ら地中に埋めるところの一部始終をビデオに収めた。
この考古学者は自ら埋めた石器を後日掘り出し
、報道陣を前に70万年以上前のものであると公表した。
同年11月4日取材チームに対し自ら遺跡を捏造したことを白状した。
丸山三内遺跡さえ怪しきなって来る
どのくらいの贋作が出回っているのか、
かつて東京美術倶楽部が調査した、
客の依頼を受けて鑑定した作品の
うち贋作は全体の約4割。有名な大家にはほとんど贋作があった。
作家本人が見れば偽物はすぐ見破れるので、贋作といえばこれまでは圧倒的に物故作家のモノが多かった、
最近現存作家の贋作も出てくるようになった。
技術が進歩したということもあるのだろう。
現存作家の贋作が出回るのは、外国では珍しくはない。
偽物が出てこなければ一流の画家とは言えないという言葉もあるぐらいだ。
贋作が出るたびに作家はある種の快感を覚えるらしく、ピカソの贋作の最大のコレクターはピカソ自身だった、という
朱泥の小さな急須・孟臣作といわれる。
恵孟臣は,宜興の人で,萬暦から清初康煕(約1598年から1684年)
本物であるはずがない。
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