鎮魂の日々
2007年3月10日深夜24:00過ぎに7時間契約でネット喫茶に侵入。
早朝7:00一行も書けず退散。
2メ-トル四方の占有空間は快適でグッスリ寝入ってしまい
結果何をしに着たのかわからずじまい。
東京大空襲を調べてみようとしたのがいけなかった。
疲れきってる身には酷なる作業。
戦後62年この国ってナンだろう。
昭和天皇に関する先月の富田メモは日経で
今度は文芸春秋に元侍従の日記が出てきた。
昭和天皇の戦時中の“肉声”を記録した日記。
開戦の前から終戦にかけて侍従をつとめた小倉庫次(くらじ)の書き残したものである
小倉は東大卒業後に三四年三月に宮内省(当時)に入省。
三九年五月から四五年六月まで侍従を務め、四七年四月に退官した。
激白は真実といってよいであろう。
丁度、福田和夫が文芸春秋紙上にに昭和天皇を連載中である。
パリ時代やキリストの国のバチカン訪問・・
帝王学の厳しき環境制限の中のかなり自由闊達の昭和天皇の生の姿が出て何十年か遅き読み物。、
「北」の馬鹿息子扱いの報道にダブリ、雲の上の人々の生活を垣間見る思い。
3月10日は東京大空襲、そのご宮崎も含め全国の都市が無差別にやられた。
残虐な無差別戦略爆撃の父、ルメイの焦土化作戦のためである。
ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、次の4点である。
高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする。
爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする。
搭載燃料を最小限とし、防御用銃座ははずす。
攻撃は夜間とする。
さらに、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発投下した。
都市の軍需工場、民間住宅問わず全てまとめて徹底的に焼き払われた。
焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、
地方の中小都市までが対象となった。
これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、
残虐な無差別戦略爆撃の父として評価が定まっている
「鬼畜ルメイ」と渾名された。
日本の航空自衛隊創設に際して戦術を指導。
1964年その功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。
これは参議院議員で元航空幕僚長の源田実の推薦によるもの。
なお勲章は本来、授与に当たって天皇から渡されるのが通例であるが
、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。
気骨がと品位知性が示されている。
。
当時ルメイの部下であったロバート・マクナマラ(後のアメリカ国防長官)によればルメイ
標的の破壊と自軍の爆撃機の損失の比率に着目したただ一人の指揮官であったという。
小林多喜二に反戦に目覚め、早乙女勝元の小説で傾向小説に青春小説を絡ませルゆえサラリ−マン小説源氏鶏太や
時代物五味、柴連と早熟中学生は背を伸ばした。
石坂洋次郎、潮騒の三島、忍ぶ川の三浦哲郎
堀辰雄のサナトリュ−ムの上流生活ぶり・・
「若者たち」という映画はたしか第3部までスクリ−ン化された
1967年の映画「若者たち」
、69年の「若者はゆく」
、70年の「若者の旗」
そのときの佐藤オリエが恋心を寄せる人は原爆にあった人。
第一作の一部でなく二作目にスクリ−ン化されたときのことであったと思う。
10万人を焼き殺したその生き残りたる5人の兄弟
大学生たる山本圭が妹の恋を成就させるために励ます。 、
「そうりゃ東京も焼け野が原だ。
ただ、原爆にあった広島は・・東京どこではない。」
次兄橋本や長兄田中邦衛に向かっていく
松山省二は兄弟の仲で一番下の高校生。
貧乏ゆえ進路に悩む。
親代わりの長兄・田中邦衛
粗暴なる言葉に優しさがあふれる・・
「大学にいけ!
そしておしえてくれ!
何故戦争をしなければ成らないのか。」
「こんなに働いても何故貧乏なんだ!」
「大学に行って勉強しておしえてくれ!」
佐藤忠良の娘とも知らずに佐藤オリエに淡い思いをもった
実際的にもその方に似た憂いのある人にほのかな物を持ったものだ。
松原智恵子にもった想いとはチョット違うもの。
文芸春秋2月号は創刊85周年増刊特別号
読者投票による昭和の美女50を企画した。
ベストテンの6名の方すでにご逝去
ベスト20で10名には会えない。
栗原小巻と宮崎で会話した折は、
この世の人とは思えぬ美しさであった。
順位に実に不満足。
・・
嗚呼!昭和は遠くになりにけり。
1吉永小百合
2原節子
3山本富士子
4夏目雅子
5高峰三枝子
6高峰秀子
7若尾文子
8岸恵子
9森光子
10田中絹代
11八千草薫
12美空ひばり
13山口百恵
14京マチ子
15黒木瞳
16司葉子
17佐久間良子
18有馬稲子
19香川京子
20山口淑子(李香蘭)
21山田五十鈴
22山本陽子
23竹下景子松坂慶子
25岩下志麻
26水谷八重子
27曽野綾子
28松原智恵子
29伊東絹子
30浅岡ルリ子
31藤純子藤村志保
33向田邦子
34栗原小巻
35宮沢リエ
36新玉美千代桜井よしこ
38杉村春子久我美子黒柳哲子倍賞智恵子
42入江たか子阿川佐和子
44淡島千景
45白洲正子子越路吹雪三田佳子大原麗子檀ふみ沢口靖子
東京都江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」が今月、新装開館した。
国民学校の教育といった戦時下の庶民の暮らしぶりや、それを破壊した空襲の実相が展示されている。
日記の主な記述は10日発売の月刊『文芸春秋』4月号
日記はノモンハン事件直前の39年(昭和14年)5月から、45年(同20年)8月の敗戦まで。宮内省の用箋600枚余り。
39年7月5日
、満州事変を推進した石原莞爾少将らを栄転させる人事の説明のため板垣征四郎陸相が天皇に拝謁した。
その直後の様子について、
「陸軍人事を持ち御前に出でたる所、『跡始末は何(ど)うするのだ』等、大声で御独語遊ばされつつあり。
人事上奏、容易に御決裁遊ばされず」と記述
。陸軍への不満が人事をめぐって噴き出したとみられる。
39年10月19日、
同盟を推進した白鳥敏夫・イタリア大使が帰国して進講することになると、
「御気分御すすみ遊ばされざる模様なり」と、進講を嫌がった様子がうかがえる。
日独伊三国同盟締結の動きにも不快感を示している。
40年10月12日
「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」
日中戦争についての天皇の思いも吐露されている。
41年1月9日
、「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが尤(もっと)も賢明なるべき」
41年12月25日
「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処(ところ)なれば支障なからむ」
真珠湾攻撃後、日本の戦況が優勢だった当時とまったく違う
、
42年12月
「(戦争は)一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満洲事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。(略)戦争はどこで止めるかが大事なことだ」
「支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである」「戦争はやる迄(まで)は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」
戦争への思いが最も率直に語られているのはこの、伊勢神宮参拝のため京都に立ち寄った時。
「自分の花は欧洲訪問の時だつたと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあつたが、自由でもあり、花であつた」とも語っている。
戦況が悪化するなか、意見具申する弟宮たちに「皇族は責任なしに色々なことを言ふから困る」
などと不満を漏らしたことも記載されている。
62年前のきょう、東京大空襲で10万人が焼死した。
蔵前の横綱町の公園だったか慰霊碑に手をあわせ幾星霜
そのまんま知事は深夜1時から3時
文化放送のオ−ルナイトニッポンでパフォ−マンスを披露してくれる様だ。
鎮魂の姿勢を伝えることはこの人には出来ないであろう。
小泉流にマスコミを操る道化師のそのまんま劇場を視聴してみよう。江戸前のお祭り騒ぎ参加セニャァ〜。
ナンブよだきしてん、キイチェ ミリョカイ!
ネンテェ じゃろけんテゲテゲな ハナシジゃロ
あんた!日本人!日本語?
早朝7:00一行も書けず退散。
2メ-トル四方の占有空間は快適でグッスリ寝入ってしまい
結果何をしに着たのかわからずじまい。
東京大空襲を調べてみようとしたのがいけなかった。
疲れきってる身には酷なる作業。
戦後62年この国ってナンだろう。
昭和天皇に関する先月の富田メモは日経で
今度は文芸春秋に元侍従の日記が出てきた。
昭和天皇の戦時中の“肉声”を記録した日記。
開戦の前から終戦にかけて侍従をつとめた小倉庫次(くらじ)の書き残したものである
小倉は東大卒業後に三四年三月に宮内省(当時)に入省。
三九年五月から四五年六月まで侍従を務め、四七年四月に退官した。
激白は真実といってよいであろう。
丁度、福田和夫が文芸春秋紙上にに昭和天皇を連載中である。
パリ時代やキリストの国のバチカン訪問・・
帝王学の厳しき環境制限の中のかなり自由闊達の昭和天皇の生の姿が出て何十年か遅き読み物。、
「北」の馬鹿息子扱いの報道にダブリ、雲の上の人々の生活を垣間見る思い。
3月10日は東京大空襲、そのご宮崎も含め全国の都市が無差別にやられた。
残虐な無差別戦略爆撃の父、ルメイの焦土化作戦のためである。
ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、次の4点である。
高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする。
爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする。
搭載燃料を最小限とし、防御用銃座ははずす。
攻撃は夜間とする。
さらに、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発投下した。
都市の軍需工場、民間住宅問わず全てまとめて徹底的に焼き払われた。
焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、
地方の中小都市までが対象となった。
これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、
残虐な無差別戦略爆撃の父として評価が定まっている
「鬼畜ルメイ」と渾名された。
日本の航空自衛隊創設に際して戦術を指導。
1964年その功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。
これは参議院議員で元航空幕僚長の源田実の推薦によるもの。
なお勲章は本来、授与に当たって天皇から渡されるのが通例であるが
、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。
気骨がと品位知性が示されている。
。
当時ルメイの部下であったロバート・マクナマラ(後のアメリカ国防長官)によればルメイ
標的の破壊と自軍の爆撃機の損失の比率に着目したただ一人の指揮官であったという。
小林多喜二に反戦に目覚め、早乙女勝元の小説で傾向小説に青春小説を絡ませルゆえサラリ−マン小説源氏鶏太や
時代物五味、柴連と早熟中学生は背を伸ばした。
石坂洋次郎、潮騒の三島、忍ぶ川の三浦哲郎
堀辰雄のサナトリュ−ムの上流生活ぶり・・
「若者たち」という映画はたしか第3部までスクリ−ン化された
1967年の映画「若者たち」
、69年の「若者はゆく」
、70年の「若者の旗」
そのときの佐藤オリエが恋心を寄せる人は原爆にあった人。
第一作の一部でなく二作目にスクリ−ン化されたときのことであったと思う。
10万人を焼き殺したその生き残りたる5人の兄弟
大学生たる山本圭が妹の恋を成就させるために励ます。 、
「そうりゃ東京も焼け野が原だ。
ただ、原爆にあった広島は・・東京どこではない。」
次兄橋本や長兄田中邦衛に向かっていく
松山省二は兄弟の仲で一番下の高校生。
貧乏ゆえ進路に悩む。
親代わりの長兄・田中邦衛
粗暴なる言葉に優しさがあふれる・・
「大学にいけ!
そしておしえてくれ!
何故戦争をしなければ成らないのか。」
「こんなに働いても何故貧乏なんだ!」
「大学に行って勉強しておしえてくれ!」
佐藤忠良の娘とも知らずに佐藤オリエに淡い思いをもった
実際的にもその方に似た憂いのある人にほのかな物を持ったものだ。
松原智恵子にもった想いとはチョット違うもの。
文芸春秋2月号は創刊85周年増刊特別号
読者投票による昭和の美女50を企画した。
ベストテンの6名の方すでにご逝去
ベスト20で10名には会えない。
栗原小巻と宮崎で会話した折は、
この世の人とは思えぬ美しさであった。
順位に実に不満足。
・・
嗚呼!昭和は遠くになりにけり。
1吉永小百合
2原節子
3山本富士子
4夏目雅子
5高峰三枝子
6高峰秀子
7若尾文子
8岸恵子
9森光子
10田中絹代
11八千草薫
12美空ひばり
13山口百恵
14京マチ子
15黒木瞳
16司葉子
17佐久間良子
18有馬稲子
19香川京子
20山口淑子(李香蘭)
21山田五十鈴
22山本陽子
23竹下景子松坂慶子
25岩下志麻
26水谷八重子
27曽野綾子
28松原智恵子
29伊東絹子
30浅岡ルリ子
31藤純子藤村志保
33向田邦子
34栗原小巻
35宮沢リエ
36新玉美千代桜井よしこ
38杉村春子久我美子黒柳哲子倍賞智恵子
42入江たか子阿川佐和子
44淡島千景
45白洲正子子越路吹雪三田佳子大原麗子檀ふみ沢口靖子
東京都江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」が今月、新装開館した。
国民学校の教育といった戦時下の庶民の暮らしぶりや、それを破壊した空襲の実相が展示されている。
日記の主な記述は10日発売の月刊『文芸春秋』4月号
日記はノモンハン事件直前の39年(昭和14年)5月から、45年(同20年)8月の敗戦まで。宮内省の用箋600枚余り。
39年7月5日
、満州事変を推進した石原莞爾少将らを栄転させる人事の説明のため板垣征四郎陸相が天皇に拝謁した。
その直後の様子について、
「陸軍人事を持ち御前に出でたる所、『跡始末は何(ど)うするのだ』等、大声で御独語遊ばされつつあり。
人事上奏、容易に御決裁遊ばされず」と記述
。陸軍への不満が人事をめぐって噴き出したとみられる。
39年10月19日、
同盟を推進した白鳥敏夫・イタリア大使が帰国して進講することになると、
「御気分御すすみ遊ばされざる模様なり」と、進講を嫌がった様子がうかがえる。
日独伊三国同盟締結の動きにも不快感を示している。
40年10月12日
「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」
日中戦争についての天皇の思いも吐露されている。
41年1月9日
、「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが尤(もっと)も賢明なるべき」
41年12月25日
「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処(ところ)なれば支障なからむ」
真珠湾攻撃後、日本の戦況が優勢だった当時とまったく違う
、
42年12月
「(戦争は)一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満洲事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。(略)戦争はどこで止めるかが大事なことだ」
「支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである」「戦争はやる迄(まで)は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」
戦争への思いが最も率直に語られているのはこの、伊勢神宮参拝のため京都に立ち寄った時。
「自分の花は欧洲訪問の時だつたと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあつたが、自由でもあり、花であつた」とも語っている。
戦況が悪化するなか、意見具申する弟宮たちに「皇族は責任なしに色々なことを言ふから困る」
などと不満を漏らしたことも記載されている。
62年前のきょう、東京大空襲で10万人が焼死した。
蔵前の横綱町の公園だったか慰霊碑に手をあわせ幾星霜
そのまんま知事は深夜1時から3時
文化放送のオ−ルナイトニッポンでパフォ−マンスを披露してくれる様だ。
鎮魂の姿勢を伝えることはこの人には出来ないであろう。
小泉流にマスコミを操る道化師のそのまんま劇場を視聴してみよう。江戸前のお祭り騒ぎ参加セニャァ〜。
ナンブよだきしてん、キイチェ ミリョカイ!
ネンテェ じゃろけんテゲテゲな ハナシジゃロ
あんた!日本人!日本語?
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