お江戸事情5
2007年2月16日背番号{3」の似合う宮崎の名誉市民・長嶋茂雄がみやざきに帰ってきた。
3年ぶりの自らが名付け親のサブマリン球場に元気な姿が実にうれしい。
張本勲とのダブルのおまけ付き
さすがの「カツ!」専門の張本も
長嶋の三度の「勝つぞ!」コールに
「アッパレ!」をくれることであろう。
江戸からのお客さんは元気の元。
資金援助も江戸頼み。
こちらはサッパリのいまだ空手形で首が抜けそうに待っている・
おのぼりさんの準備はキップの手配やお宿の手配は二の次。
東京かわら版の入手から始まる。
東京人などの雑誌は入手が田舎では困難のためでもある。
新宿、池袋、上野、浅草、国立演芸場の出番表をチェック確認するためである。
ここんとこネットの普及で大変便利になった。
寄席の31日は基本的に休演で休みだが、余一会と称して若手の鍛錬の場がある。
日曜朝もそうだ。
一月21日は(日)朝10時開演12時終演木戸銭500円を上野鈴本で楽しめた。
柳家小三治の弟子の小袁治の弟子の女(く)の一改め「こみち」の高座が楽しめた。
佐助、天どん、麟太郎のあとのトリである。
実はこれには裏話がある。
受付の女性と下足番を頂くときお話をした。
普通のキップもぎの方ぐらいの気持ちで話してた。
「九州からでして・・・」三平堂のお話や旧鈴本の場所との会話である。
彼女が生まれる前のことを得意げにおしゃべり。
それがドッコイ高座のほうから先ほどの方である。
「九州の方とお話してまして・・・」とまくらにふってくれてるではないか。
ナント!旺盛なサービス精神。
せきやん思わず
「出演料(わり)よこせ!」
と叫んだとか叫ばなかったとか。
かって末広亭での三平師匠から同じ経験を持つ。
まんだら、センスまで投げいれ宝物であった。
幼児の長男も居合わせていたが記憶になかろう。
安藤鶴夫はアンツルと厳しき辛口寄席評論家。
一居言は真打昇進にも影響した、。
旺文社文庫に二冊の著書が楽しめる。
「こみち」の評。
もともと男の芸の落語故女はどうにも。
浅草・木馬館での浪曲や講談ならいいのかもしれない。
枯れるまでまとう
そのつもりではないが落語の話芸にはかん高い声は不利である。
二代目柳家小さんは医官松本順より、高い声ゆえ「禽語楼」の芸名をもらい禽語楼小さん
を名乗ったが枯れた芸があってのこと。
講談や漫才などの色物に変えたほうがいいのかもしれない。
繰り返しで悪いが噺はいいが声がかん高すぎる。佐助は3月真打になる芸を噺てくれた。
31日は今年鈴本演芸場開場150年の記念のパーティー
七代目鈴木肇は文を良くしこの演芸場の著書を残している。
八代目席亭鈴木寧(54)
「昨今の落語ブームで若い客も増えている
この波にのり大きな波を起こしたい
名跡の復活もそのひとつ。
志ん朝さんから預かっ志ん生の六代目をぜひとも誕生させたい」
一昨年の林家正蔵襲名に続き春風亭柳朝が誕生する3月もまじか、
確か小益師だったハズだが。
前の師匠の芸風を知ってるゆえどうにも・・・
天才小朝師は正蔵、柳朝を継がずしてどうするのか。
この人は人間国宝になるのは絶対の太鼓判。
志ん朝が逝き、談志、円楽、の高座がなくて何が落語界ぞ!
もうこの人しかいない。
寄席は18世紀に誕生
安政年間172軒と活況を極めた。
安政4年(1857)初代鈴木龍助が「軍談席本牧亭」
という講釈場を開いたのが鈴本演芸場の始まり。
現在地の裏あたり。
明治9年(1876)現在地の向かい側に移り、
鈴と本=鈴本亭と改名さらに演芸場とした。
関東大震災、太平洋戦争時の東京大空襲と消失。
何度かビル以前のそのときの寄席に接している嬉しさ贅沢さ。
71年ビルの中の寄席として誕生した。
三平師匠が「福神漬のビルに移りまして」と演ってたものだ。
鈴本の寄席と本牧亭は相向かいして71年まで存在してた。
唯一の講談席として本牧亭が残っていたものだ。
最後のいい経験をしている。
斜陽産業であった落語界も西の巨大お笑いガリバー・吉本の東京進出で活況を呈している。
テレビも何度目かのお笑い番組を編み出した。
NHKさえ芸能番組で
「なんでだろ〜ナンデダロ〜」と芸人を輩出する機関ともなっている。
そのまんま宮崎知事は早速お笑い大会を開くと宣言している。
寄席芸は本来桟敷であった。
最後の池袋演芸場は総畳敷きだった。
ほんの1〜2メートル前で講談、手品、漫才の色物に落語家が演じた。
こちらはお茶をいただきながらのお客さん。
昼席はほとんどガラ〜ンとしていたものだ。
まさに一対一
「お客さんにがしませんよ」とお話なさる師匠連。
まさに江戸情緒そのもの。その香りに酔いしれた。
談志師匠が応援していたが時代の波に勝てず、今はビルの中で復活している。
新宿三丁目・末広通の末広亭の両脇にその残滓を残すのみ。
日本から江戸以来の寄席は消えた。
消防法とかの法規制も追い討ちをかけたのであろう。
懐かしき映画館も含めてそうである。
もっともトイレくささが閉口したものだがこれは格段に今がいい。
そこまでの復活は望んではいない。
大分の豊後高田市の昭和の香りもそこまではない。
蚊に刺されるのもお金がいる時代で懐かしいという談志師匠ぐらいであろう。
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張本勲とのダブルのおまけ付き
さすがの「カツ!」専門の張本も
長嶋の三度の「勝つぞ!」コールに
「アッパレ!」をくれることであろう。
江戸からのお客さんは元気の元。
資金援助も江戸頼み。
こちらはサッパリのいまだ空手形で首が抜けそうに待っている・
おのぼりさんの準備はキップの手配やお宿の手配は二の次。
東京かわら版の入手から始まる。
東京人などの雑誌は入手が田舎では困難のためでもある。
新宿、池袋、上野、浅草、国立演芸場の出番表をチェック確認するためである。
ここんとこネットの普及で大変便利になった。
寄席の31日は基本的に休演で休みだが、余一会と称して若手の鍛錬の場がある。
日曜朝もそうだ。
一月21日は(日)朝10時開演12時終演木戸銭500円を上野鈴本で楽しめた。
柳家小三治の弟子の小袁治の弟子の女(く)の一改め「こみち」の高座が楽しめた。
佐助、天どん、麟太郎のあとのトリである。
実はこれには裏話がある。
受付の女性と下足番を頂くときお話をした。
普通のキップもぎの方ぐらいの気持ちで話してた。
「九州からでして・・・」三平堂のお話や旧鈴本の場所との会話である。
彼女が生まれる前のことを得意げにおしゃべり。
それがドッコイ高座のほうから先ほどの方である。
「九州の方とお話してまして・・・」とまくらにふってくれてるではないか。
ナント!旺盛なサービス精神。
せきやん思わず
「出演料(わり)よこせ!」
と叫んだとか叫ばなかったとか。
かって末広亭での三平師匠から同じ経験を持つ。
まんだら、センスまで投げいれ宝物であった。
幼児の長男も居合わせていたが記憶になかろう。
安藤鶴夫はアンツルと厳しき辛口寄席評論家。
一居言は真打昇進にも影響した、。
旺文社文庫に二冊の著書が楽しめる。
「こみち」の評。
もともと男の芸の落語故女はどうにも。
浅草・木馬館での浪曲や講談ならいいのかもしれない。
枯れるまでまとう
そのつもりではないが落語の話芸にはかん高い声は不利である。
二代目柳家小さんは医官松本順より、高い声ゆえ「禽語楼」の芸名をもらい禽語楼小さん
を名乗ったが枯れた芸があってのこと。
講談や漫才などの色物に変えたほうがいいのかもしれない。
繰り返しで悪いが噺はいいが声がかん高すぎる。佐助は3月真打になる芸を噺てくれた。
31日は今年鈴本演芸場開場150年の記念のパーティー
七代目鈴木肇は文を良くしこの演芸場の著書を残している。
八代目席亭鈴木寧(54)
「昨今の落語ブームで若い客も増えている
この波にのり大きな波を起こしたい
名跡の復活もそのひとつ。
志ん朝さんから預かっ志ん生の六代目をぜひとも誕生させたい」
一昨年の林家正蔵襲名に続き春風亭柳朝が誕生する3月もまじか、
確か小益師だったハズだが。
前の師匠の芸風を知ってるゆえどうにも・・・
天才小朝師は正蔵、柳朝を継がずしてどうするのか。
この人は人間国宝になるのは絶対の太鼓判。
志ん朝が逝き、談志、円楽、の高座がなくて何が落語界ぞ!
もうこの人しかいない。
寄席は18世紀に誕生
安政年間172軒と活況を極めた。
安政4年(1857)初代鈴木龍助が「軍談席本牧亭」
という講釈場を開いたのが鈴本演芸場の始まり。
現在地の裏あたり。
明治9年(1876)現在地の向かい側に移り、
鈴と本=鈴本亭と改名さらに演芸場とした。
関東大震災、太平洋戦争時の東京大空襲と消失。
何度かビル以前のそのときの寄席に接している嬉しさ贅沢さ。
71年ビルの中の寄席として誕生した。
三平師匠が「福神漬のビルに移りまして」と演ってたものだ。
鈴本の寄席と本牧亭は相向かいして71年まで存在してた。
唯一の講談席として本牧亭が残っていたものだ。
最後のいい経験をしている。
斜陽産業であった落語界も西の巨大お笑いガリバー・吉本の東京進出で活況を呈している。
テレビも何度目かのお笑い番組を編み出した。
NHKさえ芸能番組で
「なんでだろ〜ナンデダロ〜」と芸人を輩出する機関ともなっている。
そのまんま宮崎知事は早速お笑い大会を開くと宣言している。
寄席芸は本来桟敷であった。
最後の池袋演芸場は総畳敷きだった。
ほんの1〜2メートル前で講談、手品、漫才の色物に落語家が演じた。
こちらはお茶をいただきながらのお客さん。
昼席はほとんどガラ〜ンとしていたものだ。
まさに一対一
「お客さんにがしませんよ」とお話なさる師匠連。
まさに江戸情緒そのもの。その香りに酔いしれた。
談志師匠が応援していたが時代の波に勝てず、今はビルの中で復活している。
新宿三丁目・末広通の末広亭の両脇にその残滓を残すのみ。
日本から江戸以来の寄席は消えた。
消防法とかの法規制も追い討ちをかけたのであろう。
懐かしき映画館も含めてそうである。
もっともトイレくささが閉口したものだがこれは格段に今がいい。
そこまでの復活は望んではいない。
大分の豊後高田市の昭和の香りもそこまではない。
蚊に刺されるのもお金がいる時代で懐かしいという談志師匠ぐらいであろう。
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