江戸事情4

2007年1月26日
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あちこちに銅像のある西欧特にフランスならともかく東京駅丸の内側の中央駅前に充分すぎる広さの中に像が立っている。
公共用地にある銅像を説明できぬでは東京駅に勤めてる資格はなく、給料泥棒と呼ぼう。
試してみるとわかるがほとんどの職員がそうだからあきれ返ってしまう。
江戸検定の免状も始まったようなので窓口駅員は合否は別にして受験だけはさせるべきではないのか。
東京駅を丸の内口から見ると古式レンガ造り二階建てが目に引く。
戦争で焼け野ヶ原ゆえ復興されたものとの予測はつく。
それでも風格のある建物である。
霞ヶ関に古式風前と威厳を保つ日銀みたいなもの。
それもそうのはず。設計者を当たるとこうである。
佐賀県唐津の人・辰野金吾の設計になる。
明治3年、17歳の時に藩の英語学校に入学。教師は高橋是清
 明治13年2月8日、ロンドンに学ぶ。
建築教育界をリード。工部大学校教授に就任
日本銀行と中央停車場建築設計をした
日本銀行が竣工するのは明治29年3月22日
中央停車場明治41年に着工し、大正3年に竣工。
辰野金吾は常円寺に眠る。
新宿駅に近く青梅街道を挟んで超高層ビル群が林立
する場所で、昔の地名では淀橋区柏木1丁目。

東京駅は今度、もとの三階建てに改装されるようで準備で慌ただしい。
中央口を除く南口、北口の八角柱での円形屋根を内部から見上げると
人ごみの騒々しさもしばし忘れる異様なる圧倒される景観を醸し出している。
もちろん堕落しきった接客業の方々は円形の上の回廊から下は見ていない。
「職員でさえ入れません」とのたまう。
バカな!”一喝したいがグッ〜ト堪えた。
ステーションホテルは二年前に一時閉鎖してるので回廊を廻れないかもしれないが、
もとはホテルの一部ではないか。
話にならない。

東京駅前の銅像は鉄道の父、井上勝。
天保14年(1843)長州・萩に生まれ、文久3年(1863)藩命によって
ロンドン大学に留学、ただこれって鎖国破り?
鉄道技術を習得し明治元年(1868)に帰国
、明治5年10月14日新橋〜横浜間に我が国初の鉄道を完成、
近代日本の先駆けとなった立役者。
十二分にここに鎮座する資格があるといわんばかりの活躍をした。
ただ、歴史教育がここでも露呈してるだけのこと。。
2003年は生誕160年。功績を称えてのことゆえ一等地にご鎮座なさってるわけだ。
ブログからお知恵を借りた。
新橋〜横浜に列車が走った時、明治天皇に「どうぞ」と言って、天皇にご乗車頂いた人なんだそうな。
16歳のとき、長崎に遊学し、オランダ士官から兵学を学んだ後、江戸にて砲術を学んだ。
文久3年(1863)藩命により、伊藤博文、井上馨、山尾庸三(やまおようぞう)[工部卿]、
遠藤謹助(きんすけ)[造幣局長]、とともにイギリスに密航し、ロンドン大学にて鉱山・鉄道の技術などを学んだ。
明治元年(1868)に帰国したとき、実家に復籍して井上勝と称す。
造幣頭兼鉱山正をへて明治4年(1871)には、鉱山頭兼鉄道頭となり、鉄道局長、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任した。
明治5年(1872)9月12日には、日本初の鉄道、新橋〜横浜間を開通させた。
この列車は9両編成で、時速は35キロ前後。
これを手始めに神戸〜大津、長浜〜厚賀間と開通させ、明治22年(1889)にはついに、東海道線を開通させた。
とりわけ、京都〜大津間の施設には、初めて日本人の手だけでこの難工事を完成させ、わが国の鉄道技術自立の契機となった。
この事と平行して私鉄、日本鉄道会社の施設事業にも携わり、明治24年(1891)には、東京〜青森間724キロを開通させた。
この間、井上勝は常に現場にて工事の陣頭指揮にあたった。
その後、帝国鉄道協会会長に就任し、大陸各地を視察。
明治43年(1910)鉄道院顧問として欧州鉄道視察中に病気で倒れ、若き日に過ごしたロンドンにて息をひきとった。
その生涯を鉄道に傾け続けたゆえに「鉄道の父 井上勝」と呼ばれ、
東京駅丸の内中央口前の広場の銅像が今も鉄道を見守りつづけている。
「吾が生涯は鉄道を以て始まり、すでに鉄道を以て老いたり、まさに鉄道を以て死すべきのみ」
はは〜んそいでここにいらっしゃるわけだ。
案内の看板は美観を損ねるとでも言うのかない理由がわからぬ。

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