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瀬戸内少年野球団?の映画は悲劇の映画人生を歩いた女優・夏目雅子で涙を誘うし、平和のありがたさを思い浮かべるに十分であった。
宮崎ではプロ野球二軍のフェニックス・リーグが開幕。
25日まで行われる。
一足早くハムVSダイエー(ソフトバンク)戦をやっている。
その日に原爆のニュース。とんでもない。
北の原爆は広島型の1/300と言う。
10月3日国威発揚のため北は実験すると宣言していた。
そしてついに悪魔の兵器に実証をした。
平和利用が急遽、軍事用に転換した瞬間であった。
国際社会の懸念、忠告を無視してである。
北のメッセージを米国が無視したことによる強攻策ではある。
今後どのようなるシナリオとなるのか。
臨検、軍事制裁・・全面戦争の恐怖シナリオがみえてくる
似通ったことを我らは知っている。
昭和16年、エネルギーなど一切を経済封鎖された日本は態度を決める。
松岡洋右は国連脱退を演説する。
ソレからは戦争の道をまっしぐら。
ヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアの独裁国家と同盟を結び、戦いの火蓋で明治以来蓄積した国家資本を灰塵に帰するまで闘った。
国土は焦土、焼け野原からの出発であった。
せきやんもその後の、環境からで国家環境を恨んでいる。
二度と戦争はさせてはいけない!
原爆の開発者はどう思っていることか
ブログから引用さて頂くとこうだ。
「キュリー夫人伝」は白水社版なく世界の偉人伝の小学生用講談社版ではなかったか
学校図書をお借りして読んだ記憶がある。
マリー・キュリーは、女性初のノーベル賞受賞者である。
 1903年 ノーベル物理学賞
 1911年 ノーベル化学賞
2度の授賞は、女性ではマリー・キュリーだけである。
その意志は、娘イレーヌ・ジョリオに引き継がれ、彼女もノーベル賞を受賞した。

暗い倉庫の中で、夫人のマリーが「あかりをつけないで」という
蒼白い燐光を発し闇の中で点々と光っている。
夫のピエールもその小片の美しさに驚く。キュリー夫妻がついにとらえた神秘な放射線の源であるラジウムの光だった
キュリー夫妻は、放射線が人体へ与える悪影響を知らなかった。
二女エーヴが述べている。
「若き《放射能》は、これに生命を捧げた物理学者夫妻の精根を徐々にからしつつ、みずからふくれ、花咲いて行く」

放射能の影響を受けて苦しみながら寝食を忘れた研究で原子構造の秘密に迫り、その遺産は核エネルギー開発の扉を開いていく。
1895年12月22日 ドイツのウイルヘム・レントゲンがX線撮影に成功自分の妻の手の撮影の美談がある。
1896年 フランスのアンリ・ベクレルがウランが出す放射線を発見
ベクレルは、物質を透過する力が強いX線が、方解石や岩塩に当たると発する蛍光に着目した。
ウラニウム塩と黒い紙に包んだ写真乾版を日光にもX線にも当てずに放置したところ、乾版が感光したことに気付く。
その原因がウラニウム塩の中の金属元素ウランが発する放射線であることを突き止めた。
  彼は、この放射線を「ベクレル線」と呼んだ
これは、遮蔽物も突き抜ける未知なる発光であった。

マリーは、この不思議な現象を「科学の新たな光」と感じて、放射能の研究を始めた。
そして、ピエールも放射能の研究をすることになった。
こんな中1897年9月12日、妊娠中だったマリーは、妊娠9ヶ月目の早産でイレーヌを出産する。
   
イレーヌの出産後も2人は研究を続けた。
ピエールの作ったピエゾ結晶を利用した電位計を使い、放射能を測定した。
   その結果、トリウムがウランより強い放射能を持つことが分かった。
また、「ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)」が金属ウランの4倍強い放射線を持つことを発見した。
そして、ピッチブレンドには、ウランよりずっと放射性の強い物質が含まれていることに気付く。
ピッチブレンドの成分を分離し、電位計を使って放射能測定を行い、さらに分離していった。
そして、特に強い放射能を持つ2個のサンプルが得られた。
友人ドマルセの撮ったスペクトル写真から、2つの元素が従来と異なることが判明した。
1898年、2人は、2つの新しい放射能元素を発表した。
1つは、ポロニウム。
マリーの祖国ポーランドにちなんだ名前である。
そして、もう1つがラジウム。
本当に大変だったのは、ラジウムを発表してからであった。
他の学者達を納得させるには、純粋なラジウムを分離して、現物を取り出してみせる必要があった。
しかし、ラジウムは、ピッチブレンドにほんの僅かしか含まれていなかった。
キュリー夫妻は、何トンものピッチブレンドを研究室に運び込み、ラジウムを精製する作業に没頭した。
当初、2人は、新元素の量をピッチブレンドの「100分の1」程度と予想していた。
しかし、「100万分の1」の間違いだと分かった。
ピエールはサジを投げかけたが、「自分達が正しいことを証明しましょう」とマリーは夫を励ました。
研究の間は、祖父ウジューヌ・キュリーにイレーヌの世話をみてもらい、マリーはイレーヌと手紙で連絡を取り合った。
そして4年間の悪戦苦闘の末、1902年、ついに0.1gの純粋ラジウム塩を抽出することに成功した。
その後、ラジウムの原子番号が223.3であることが分かった。(現在の226に近い値が得られた)
又、元素が崩壊し始め、1600年で半分が気体元素ラドンに、ラドンも4日でポロニウムに変わることも分かった。
 1903年12月 キュリー夫妻とベクレルが、放射線現象の研究でノーベル物理学賞を授賞
このキュリー夫妻の研究が、後に、核エネルギー、核兵器、ガン治療の研究につながっていくことになる。
しかし、この時、キュリー夫妻は、放射線が人体へ与える悪影響を知らなかった。
後に、ラジウムは、ウランの数百万倍も強い放射線を出していることが判明する。
1904年、ピエールはソルボンヌ大学の教授になり、マリーは実験主任になる。
そして、次女エーブが誕生した。
ラジウムの放射線が、ガン治療に役立つ可能性も高まり、キュリー一家は順風満帆であった。
1905年、ストックホルムでノーベル賞の受賞講演をしたピエールは「ラジウムは知を豊富にし、善に役だった。が、それはもしかしたら悪にも役立ちはしないだろうか?」と危惧した。
ラジウムの発見は、がん治療など人類の幸福に大きく貢献するが、やがて懸念した通り、世界を脅かすもろ刃の剣ともなる。
書き溜めアップロードがしてなかった一部
3日核実験を宣言した北朝鮮が8日か9日にも強行するとの情報をWポスト紙が伝えた。
8日は金正日が労働党総書記に就任した記念日、
9日は韓国の潘外交通商相が国連事務総長に選出される日
10日は労働党の創立記念日
「8日は日中会談、9日は日韓会談があるので可能性は少ない。
労働党の創立記念日である10日にずれ込む見通し」という。
ただ、7月、米国の独立記念日にミサイル連射したように、
相手国の政治日程に合わせて大きな動きを見せる北朝鮮
やるのか。

2度目のノーベル賞授賞
1908年、マリーは、ピエールの後を引き継ぎ、女性で初めてソルボンヌ大学の教授となった。
1910年、マリーは、純粋な金属ラジウムの抽出に成功。
これにより、2回目のノーベル賞候補となった。
ソルボンヌ大学で、マリーは、妻子ある教え子のポール・ランジュバンと恋に落ちた。
この恋は、新聞に取り上げられ、マリーは非難の的となった。
1911年11月26日、ポール・ランジュバンは、ゴシップ記事を書いた記者に決闘を申し込んだ。
当時は、名誉を傷つけられたら、立合い人の前で、銃による決闘をするのが当たり前だった。
記者が銃を構えなかったため、未遂に終わったが、これがスウェーデンのノーベル賞委員会の耳に入った。
マリーは、関係者から辞退を勧める手紙を受け取った。
しかし、マリーは次のように答えた。
  「科学的な業績が私生活における誹謗中傷の影響を受ける考え方には承服しかねます」
 1911年12月 マリー・キュリー ノーベル化学賞 授賞
2度のノーベル賞授賞は、マリー・キュリーが初めてだった。
娘イレーヌ、マリーの最期

1910年2月15日、祖父ウジューヌ・キュリーが亡くなる。
孤独になった娘イレーヌをみかねたマリーは、イレーヌのために青空学校を作った。
そして、マリー自らが化学を教えた。

 1914年7月 第一次世界大戦勃発

マリーは、自家用車を改造して、レントゲン装置を積んだX線車を製造した。
そして、娘イレーヌと共にそれに乗り込み、戦争の最中、傷ついた兵士の診断をするために前線を駆け巡った。
2人は病院に赴き、無償で負傷者の看護にあたった。
戦争が終わると、研究者の道を選んだイレーヌは母マリーの助手となった。
そして1934年、イレーヌと夫ジョリオ・フレデリックが人工放射能を発見する。
これにより2人は、ノーベル賞候補者となった。

このとき、すでにマリーの体は、放射能によりボロボロになっていた。

 1934年7月4日 マリー・キュリー 死去 (享年 67歳)

翌年、イレーヌとジョリオが、ノーベル化学賞を授賞する。

マリーは、娘のノーベル賞授賞を知ることなく、放射線障害の白血病で、67歳の幕を閉じた。
第一次世界大戦時に放射線に被爆したのが死因だと言われている。
ノーベル賞の授賞式で、イレーヌは「この功績を天国のマリーキュリーに伝えたい」と語った。

 1945年 広島・長崎に原爆投下

マリー・キュリーは、生前、次のような言葉を残している。
「ラジウムが犯罪者の手に落ちれば、非常に危険なものになりうるでしょう」
「人類は、自然の秘密を知ることで利益を得るでしょうか」
「人類は、それを使いこなせるだけ成熟しているのでしょうか」
「この知識は、人類にとって、害とはならないのでしょうか」
「そんな疑問が沸いてきます」
「それでも私は、人類は新しき発見から、悪よりも善を引き出すだろうと考えるものであります」

1956年3月17日、娘イレーヌ・キュリーが59歳の若さで亡くなる。
死因は、母と同じ放射能被爆による白血病だった。

1995年4月20日、フランスの国家功労者を埋葬するパンテオンに、キュリー夫妻の棺が移された。
ラジウム発見100周年を記念して、ここに移されたのである。
マリーは、女性として初めて奉られることになった。
当時の仏ミッテラン大統領は述べた。
「学問や公の場で活躍する人の殆どが男性の社会で、マリーは実力を発揮し、素晴らしい業績を残しました」
2人の遺骨からは、人体には無いはずのラジウムの放射線が今だに放出されている。

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コメント

せきやん
せきやん
2006年10月10日6:30

爺と娘が民族の伝統に関しては同じ考えでホットしています。

わたくし思うに、プロレスにはヒールはつきものですが、相撲にはいらないような気がします。
わたくしにとっては、いえ、日本人にとっては、相撲とは国技であり、神聖なものなのです。

外国人力士の活躍はそれはそれで素晴らしい事だと思います。
でも、相撲道、心ももっとしっかり学んでほしいと思わずにはいられません。

イヤァーうれしい限りですご同輩!

せきやん
せきやん
2006年10月10日7:27

資金繰りの悩みほど辛いものはない。
自殺の原因のトップに上がってるのも,うなずける。
約束手形は恨めしく不況の極を思い知らされている。
何が好景気、勝ち組のみがニュース化されるゆえ歪んでいる。
自分を信じて生きる春紫苑 さんのお強さが唯一の支えである。
死にたくても清算できぬでは迷惑がかかる。
北の問題さえ飛んでる状態。
これではいい仕事は出きるハズがない。
太宰の心境はいきなり来たのであろう。自堕落なるになってるのは資金のみ。
精神はまだ大丈夫
しっかりネジを巻き時刻をシッカリ合わせて生き抜き、
いずれ人生の清算をしたい。
死のうにも死ねない環境にいる奴さえいる。

淵瀬春秋
淵瀬春秋
2006年10月10日14:25

韓国の農業試験場のRさんは親日家で、剣道2段。「私は剣道を精神の修行だと思っている。が、多くの道場(training school)は、剣道をスポーツとして教えており、息子もそうなのが残念だ」と言っておられました。
 相撲の道はより国際的になるでしょうし、条件を厳しくしてもきっと外国人力士が親方となる部屋が出来るでしょう。それまでが正念場だと思います。

春紫苑
春紫苑
2006年10月10日20:58

私は悲しくては啼き、辛くては啼き、苦しくては啼き。支えになるほど強くありません。その日一日を悔いなく生き、借金の苦労を痛むくらいしたので、いつもニコニコ現金払い。故に其れが運命なら、明日死んでも構いません。【太宰】がそう望むなら私は黙って従います。いつ死んでも好いと思う者ほど、案外長生きするものです。

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