宮崎で一、二の都市の宮崎・延岡と首長選挙戦が終わり明日が投票日。
いずれの候補者もサンシュは小粒でピリリとは行かない。
城下町は資本の集積地でもあり、その日南・高鍋に逸材を輩出してはいるがその地でないゆえであろうか。
高鍋で学者ぶるな!はこの地に20年生活した私の半生の経験則でもある。
先哲たちも綺羅星の如し。
ケネディーにして世に知らしめた上杉鷹山をはじめ明治天皇の侍従長を務めた秋月種樹
最後の海軍司令官小沢を生み、ロシア皇太子襲撃の大津事件の最高裁長官三好退蔵、孤児の父石井十次
あげつらうには紙面が尽きない。
四哲之碑は城下町の上級武士が住んでいた高鍋町筏(いかだ)小路にある。
図書館のところの古風な門構えの鈴木馬左也の旧邸宅跡である。
2男黒水長平(1852〜1915)は地方の産業育成、とくに養蚕業の育成に生涯をささげ、児湯郡地方養蚕業の礎を築いた。また石井十次の活動のよき理解者でもあった。
3男・秋月左都夫はオーストリア特命大使、教育界、読売新聞社長、京城日報社長を歴任した。その間、第一次世界大戦後のパリ講和会議では全権顧問をつとめ、太平洋戦争末期には、吉田茂らと早期の講和を図ったが、1945(昭和20)年6月戦争の行方を見ずに没した。
文久元年(1861)2月24日、鈴木馬左也は高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、生を受けた。
明治元年(1868)、激動の明治維新は、当時八歳の馬左也にとっても大変な時期であった。
同年2月5日長兄弦太郎は、獄中の感染によってわずか二五歳で病死した。前年、高鍋藩江戸藩邸にかくまった薩摩藩士を救出に赴く途中、幕府に囚われたのが原因であった。
6月9日には実母久子が四五歳で急逝、8月26日には母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子衞房(もりふさ)も戊申の役に加わり、27歳で戦死した。
翌2年4月2日、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだのである。
その父も明治10年6月23日、西南戦争の西郷軍に幽閉され、獄中の病によって六四歳で病没した。
種節は、旧高鍋藩士の西郷軍への参戦に対し、逆賊になると反戦論を唱えたためであった。
かくして幼少の馬左也は、大義のために死んでいった父兄親族を目の当たりにしたのである
馬左也は9歳で養子となり、13歳まで明倫堂に学んだ。
馬左也は東大を卒業して、内務省、農商務省参事官を務めた。
1896(明治29)年、住友家に招かれ、住友本店の副支配人、別子鉱業所の支配人となり、おりしも社会問題化していた同銅山の煙害問題では、製錬所を四阪島に移し、その近代化をはかった。1904(同37)年、第3代住友総理事となり、住友の経営を銅山を軸にして鉱業、金属工業、林業、化学工業、機械、電力、銀行、倉庫などの総合的な経営組織としてつくりあげた
。1921(大正10)年には総本店を住友合資会社にして、全事業を統括し、わが国の代表的な財閥の1つに成長させた。
ホリエモン、や宮崎の明日投票の首長選挙立候補者の志のなささには呆れるばっかりだ。
とくに本県との関係では、初代総理の広瀬宰平が着目した本県の資源開発、椎葉と富高(現日向市)を結ぶ耳川筋の林業と電源開発を重視し、以後同社がこの地域の開発に深くかかわることになった。
後年のことではあるが諸塚−椎葉間の100万円道路はその具体的なあかしである。
また東北大学鉄鋼研究所、大阪府立図書館の創設などにも貢献している。
1922(同11)年病気のため辞任し、同年兵庫県御影で没した。62歳であった。高鍋町竜雲寺墓地に葬られた。
永井 哲雄はこのように紹介している。
深夜 、師匠からのメール
農村が崩壊しつつある。
産業資本に良い所取りされてしまった地域社会 が壊れちゃうんだ。ただね。この国の農地の生産力で支えられるのは6000万人が限界だろうな。
良いではないか。もう田舎は都市のために生きることなど考えるべきではない。
自給力さえ保てればいいだろう。それすら出来ないことが怖い。
自給できる以上に作れば自分勝手な都市に買い叩かれるだけだのだから ・・・。とつづく長いもの。
感ずるところ資本の蓄積は多くの人材を輩出した紛れもない事実はある。
「住友回想記」は川田順の著書。
川田は戦前の住友本社で常務理事まで務めた経済人であり、佐佐木信綱に師事した著名な歌人だった。
いかにも軟らかな筆で財閥本社の雰囲気を描く。
住友本社は関西屈指の人材集団だった。
俳人山口誓子が人事部の大部屋で仕事する光景がある。
「定家忌や勤め休まず川田順」(誓子)が誇らしげに紹介される。
川田は住友退社後、短歌の弟子である京大教授夫人、俊子とめぐり合う。27歳の年齢差のふたりを描く「虹の岬」(辻井喬)は清冽な恋の物語だ。
回想記の解説は川田の部下で短歌の弟子でもあった日向方斉が筆をとった。
住友金属会長になり関経連会長を務めた日向もまた、少しだが小説に登場する。
「官僚たちの夏」(城山三郎)で通産省の行政指導に抵抗するS金属社長の「日暮」がそれだ。
40年前の実話だが、いまならもっと共感を集めていたろう。
日向と同じ1931年に住友に入社した源氏鶏太はサラリーマン小説を量産し東京の兄の影響を受け文庫本で殆んど読んだ。
死語になった感のある「重役」がしばしば現れる源氏の作品は「英語屋さん」はじめ社内に取材した話も多い。
時流れ、ホリエモンに代表されるヒルズ族の盛衰が関心を呼ぶ。
しかしかっての財閥の持つ人材的余裕は現代の拝金思想にまみれた新興財閥集団にはない。
いわんや政治家においてもや。
昨日は串間に走り、今日は都城。
工事部隊は535枚パネルの電気工事の仕上げに奮闘中。
もちろん明日の日曜日も返上である。
地球環境を守りぬく気概には休日はない。
地球環境を守るためわずかな時間を割いて深夜書いてまして
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城下町は資本の集積地でもあり、その日南・高鍋に逸材を輩出してはいるがその地でないゆえであろうか。
高鍋で学者ぶるな!はこの地に20年生活した私の半生の経験則でもある。
先哲たちも綺羅星の如し。
ケネディーにして世に知らしめた上杉鷹山をはじめ明治天皇の侍従長を務めた秋月種樹
最後の海軍司令官小沢を生み、ロシア皇太子襲撃の大津事件の最高裁長官三好退蔵、孤児の父石井十次
あげつらうには紙面が尽きない。
四哲之碑は城下町の上級武士が住んでいた高鍋町筏(いかだ)小路にある。
図書館のところの古風な門構えの鈴木馬左也の旧邸宅跡である。
2男黒水長平(1852〜1915)は地方の産業育成、とくに養蚕業の育成に生涯をささげ、児湯郡地方養蚕業の礎を築いた。また石井十次の活動のよき理解者でもあった。
3男・秋月左都夫はオーストリア特命大使、教育界、読売新聞社長、京城日報社長を歴任した。その間、第一次世界大戦後のパリ講和会議では全権顧問をつとめ、太平洋戦争末期には、吉田茂らと早期の講和を図ったが、1945(昭和20)年6月戦争の行方を見ずに没した。
文久元年(1861)2月24日、鈴木馬左也は高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、生を受けた。
明治元年(1868)、激動の明治維新は、当時八歳の馬左也にとっても大変な時期であった。
同年2月5日長兄弦太郎は、獄中の感染によってわずか二五歳で病死した。前年、高鍋藩江戸藩邸にかくまった薩摩藩士を救出に赴く途中、幕府に囚われたのが原因であった。
6月9日には実母久子が四五歳で急逝、8月26日には母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子衞房(もりふさ)も戊申の役に加わり、27歳で戦死した。
翌2年4月2日、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだのである。
その父も明治10年6月23日、西南戦争の西郷軍に幽閉され、獄中の病によって六四歳で病没した。
種節は、旧高鍋藩士の西郷軍への参戦に対し、逆賊になると反戦論を唱えたためであった。
かくして幼少の馬左也は、大義のために死んでいった父兄親族を目の当たりにしたのである
馬左也は9歳で養子となり、13歳まで明倫堂に学んだ。
馬左也は東大を卒業して、内務省、農商務省参事官を務めた。
1896(明治29)年、住友家に招かれ、住友本店の副支配人、別子鉱業所の支配人となり、おりしも社会問題化していた同銅山の煙害問題では、製錬所を四阪島に移し、その近代化をはかった。1904(同37)年、第3代住友総理事となり、住友の経営を銅山を軸にして鉱業、金属工業、林業、化学工業、機械、電力、銀行、倉庫などの総合的な経営組織としてつくりあげた
。1921(大正10)年には総本店を住友合資会社にして、全事業を統括し、わが国の代表的な財閥の1つに成長させた。
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川田は住友退社後、短歌の弟子である京大教授夫人、俊子とめぐり合う。27歳の年齢差のふたりを描く「虹の岬」(辻井喬)は清冽な恋の物語だ。
回想記の解説は川田の部下で短歌の弟子でもあった日向方斉が筆をとった。
住友金属会長になり関経連会長を務めた日向もまた、少しだが小説に登場する。
「官僚たちの夏」(城山三郎)で通産省の行政指導に抵抗するS金属社長の「日暮」がそれだ。
40年前の実話だが、いまならもっと共感を集めていたろう。
日向と同じ1931年に住友に入社した源氏鶏太はサラリーマン小説を量産し東京の兄の影響を受け文庫本で殆んど読んだ。
死語になった感のある「重役」がしばしば現れる源氏の作品は「英語屋さん」はじめ社内に取材した話も多い。
時流れ、ホリエモンに代表されるヒルズ族の盛衰が関心を呼ぶ。
しかしかっての財閥の持つ人材的余裕は現代の拝金思想にまみれた新興財閥集団にはない。
いわんや政治家においてもや。
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コメント
都市にいて自分の腰をかがめず、手を汚さずに、美味しい生活ができるのは不自然で傲慢だとは自覚しつつ、このような社会がそう長く続くとは信じられません。
人類の歴史は飢餓との戦いだった時間が長いため、私のような優秀な(?)遺伝子を持った人間は糖尿病になってしまいます。
小学校に上がる以前から牛、馬の農耕の動力源を田畑につれ
作業に従事しました。
明治の父母、男兄弟7人の末っ子ゆえ戦前の教育でいた。
にあんちゃんや綴り方教室の映画でその頃が偲べます。
作業後の小川で身体を洗ってやると喜んでました。馬屋や牛舎を掃除してやると泣き声でお礼を言います。
生き物が共存して作物を作っていたのです。
資本主義のあくなき資本集積は集団就職で田舎から人を奪い、工業生産物を売りつけ農家からン十三重に収奪しました。山が荒れ、田舎の過疎化がすすんでるのは、資本の移動
富の集積に他なりません。
なのもマルクス経済学を借りる必要なく社会を幼き頃から実体験として分析してきました。
いつでも何時でも何処でも食が手にいる国。
飽食というが食料の自給率が50パーセントを割ってる先進国はありません。
水あっての食料ですが温暖多雨の自然条件は先進国で日本のみの見事なる反比例。
総て化石燃料を使い輸入しています。
江戸期の見事なる自立した生活態度はどこに行ったのでしょう。
小学校の太陽光発電工事をしてますが、挨拶とか音感教育の優れてることに気付きます。
ではこの人たちは何で生きていくのでしょう。
食は生物の基本です。
田舎の食料基地があればこそ都会は存在します。
竹中なる博士論文さえ満足に取得できなかったものに国を指導する資格はありません。
マヤカシなる世界表柔。グローバル経済。
ショクトエネルギーは自立がいい。
平和国庫を標榜してるなら当然のことである。
戦争の歴史を紐解けばわかること。
この国の行く末は実に危険極まりない。