理想都市
2006年1月16日宮崎の13時の会議にでないでいたら、南の現場の施工法が又
元に戻っている。
堂々巡りで前にすすまづ小田原評定で、怒髪天をつく怒りの内心である。
ところが、怒ってるのは私でなくお客さんのほうでこれではやってはおれない。
仕事に賭ける情熱!辛らつなる場面がある限り、ここには姉歯問題は存在せづ、フイィザーなど無縁である。
北の現場は会議であったが○○さんに託して私は都城の現場の打ち合わせ。
どうにも多忙すぎる。まだまだ分業がいる。
合間に資金繰りの件で多くの方に依頼。
有り難きスタッフ陣。
お話の中で過去の記述をそのまま再掲した
都城市は,昭和48年に市の木にケヤキを指定している。
市役所近辺には冬の景色を示す見事なケヤキ林の道路沿いである。
化石燃料社会に起因するCO2排出が地球環境を病ませ豪雪台風の異常気象を生んでいるが
このような環境が作られてるのは流石に明治維新を成し遂げたところ。
もちろん市庁舎にも太陽光発電は設置してある。
市長は全国一若い人がご在位なさっている。
古きと先人の知恵と新しき思考方法。未来に残す地球環境そして人造り。
美術館には日本に誇る地元出身の日本画家・山内多門の収集品。ここはいい。
地場産業に、加工品が多く国の生産量の90%を占める大弓や木刀,民芸調の都城家具など伝統的な職人工芸が有名なハズである。
協議の現場はそのところの学校。再掲する事情が起こった。
学校創立は1778 安永 7年 稽古所に由来する伝統あるもの。
体育館には,「香飛翰院(こうひかんいん)」という額がかかげてある。社会人でさえ解せないのが掲げてあるのがすごいものだ。「ここは学問の香り漂うところ」という意味だそうだ。
玄関には明道館学制三章というものがある。
今から200年ぐらい前に,そのころの校長坂元正衡が決めたきまりだそうだ。
これが又凄い!
学校以明人倫為本若悖倫理者不許入此門
(学校は,人倫を明らかにするを以て本と為す。若し,倫理にもとる者はこの門に入るを許さず。)
学校以礼儀為先若蔑礼儀者不許登此堂
(学校は,礼儀を以て先と為す。若し,礼儀をあなどる者は,この堂に登ることを許さず。)
学業以躬行為主若徒言無行者不許臨此席
(学業は,躬行を以て主と為す。若し,徒に言いて行う無き者は,この席に臨むを許さず。)
この教えは,今でもうけつがれていて,校風は
「人倫」「礼儀」「躬行(きゅうこう)」となっている。
ここ実は「小学校」なんであります。
ヒェ〜驚いた。
地域的にも環境が違う。
正門前の通りは「鷹部屋筋」と書いて、「たかべやんすっ」と呼ぶ。
これは鷹(たか)部屋のある筋ということを都城の方言で言っているのだ。
都之城城主・北郷讃岐守忠能が飼っていたタカを訓練する人やえさをあたえる人など、タカを養う人たちがその辺りにたくさん住んでいたといわれている。
タカは政治をしている人の「権力のあかし」。
忠能はタカを島津のとの様へのおくり物にしたり、タカ狩を好んだ。また幕府や将軍にタカをおくっていたという。
武家社会を確立した源頼朝の社会階級は1192〜1867まで695年の長き封建制社会が続いた。
富士の裾野の鷹狩りは三大敵討ちでも知られてるが頼朝の鷹狩り好きの証左でもある。
島津はこの頼朝の落とし多ね出あることは歴史通は周知のお話。
よって代々島津にも鷹好きが尾家に受け継がれたのやも知れない。
すぐ横にこの「たかべやんすっ」が通っているのは、学校を中心に領主館が建てられていたゆえである。
学校の南側道路をへだてた八幡町の小高い丘の上に「旭丘(ひのお)神社」がある。
この神社は何回か名前が変わっている。
約四百年前までは「上野別府天神」。また歴史の本に「氷室(ひむろ)天神」とも書かれている。
明治六年ごろには近くの三神社といっしょになり、現在の旭丘神社と社名がさだまる。
戦争が始まると「ぐんじんさあ(軍神様)」と呼ぶ。戦争に行く人は必ずお参りをした。
この神社には学問の神様菅原道真公も祭ってある。よってこの神様は、厄よけの神様でもある。
功雄霊神(こうゆうれいしん)という神様もまってある。この神様は京都からお連れした「じ」の神様。
昔、じの悪い岡田孫右ヱ門という人あり。
その人は、「私は、このじのために死す。神は後世の人々のために、このじにかかった者を救え」と言って亡くなったそうだ。
その後、その人の友達が「じ」で苦しんだけれど、功雄霊神にお祈りしたらなおったという。
都島町の都島公園は昔、陸軍墓地。
泣く子も黙る勇猛果敢な都城二十三連隊を鎮魂するところ。す。都島公園のおくの方に、その墓がある。
都城二十三連隊は、もともと熊本県の陸軍部隊でしたが、一九二五(大正十四)年に都城に引っこしてきたもの。
軍馬のはかもあり、馬頭観音もご在位。
明治維新を成し遂げた経済力を持った島津藩の一部をなして歴史溢れる町である。
この学校出新の方の力作新聞でも紹介された。
都城市出身のトイレ壁画デザイナー松永はつ子さんが同市天神町一号街区公園の公衆トイレに制作した壁画を、光村図書(東京都)が中学3年「道徳」教科書に写真付きで掲載した。
今年春から全国の中学校で使用される。
松永さんは、以前から同社発行の道徳教科書に
「公衆トイレの行方」と題した文章を執筆している。
改訂版では松村さんが執筆した文に加えて、淡い空色を基調に木々の間を鳥が飛ぶ構図のトイレ壁画と、制作中の松永さんを写した写真二枚が採用された。
掲載面は見開き二ページ。
文で松永さんは「なぜ公衆トイレは汚されるのだろうか」と問い掛け、
「公衆トイレに都市のすべてが凝縮されているといっても過言ではない。公衆トイレを街から失わないためにはどうしたらよいか、みんなで知恵を出し合い考えていきたい」と訴えている。
松永さんはこの明道小を卒業、姫城中1年の時に神奈川県へ転出。
大学卒業後、デザイナーになり、1974(昭和49)年から米国のニューヨーク水族館やJR横浜駅など国内外のトイレに壁画を描き続けている
生命の誕生たるに一番近い環境作りの市ゆえに子供の魂を持続されてると考察する私は単なる空想家であろか。
環境が人を作る。
明治維新を成し遂げた国はこの国を守り抜く環境との調和、人つくり。明治大正の息吹が息づいている。
太陽光発電は生活の垢を少なくする地球に優しい生きる規範でもある。
夜23時30分過ぎまだ携帯で打ち合わせをやっている。
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ところが、怒ってるのは私でなくお客さんのほうでこれではやってはおれない。
仕事に賭ける情熱!辛らつなる場面がある限り、ここには姉歯問題は存在せづ、フイィザーなど無縁である。
北の現場は会議であったが○○さんに託して私は都城の現場の打ち合わせ。
どうにも多忙すぎる。まだまだ分業がいる。
合間に資金繰りの件で多くの方に依頼。
有り難きスタッフ陣。
お話の中で過去の記述をそのまま再掲した
都城市は,昭和48年に市の木にケヤキを指定している。
市役所近辺には冬の景色を示す見事なケヤキ林の道路沿いである。
化石燃料社会に起因するCO2排出が地球環境を病ませ豪雪台風の異常気象を生んでいるが
このような環境が作られてるのは流石に明治維新を成し遂げたところ。
もちろん市庁舎にも太陽光発電は設置してある。
市長は全国一若い人がご在位なさっている。
古きと先人の知恵と新しき思考方法。未来に残す地球環境そして人造り。
美術館には日本に誇る地元出身の日本画家・山内多門の収集品。ここはいい。
地場産業に、加工品が多く国の生産量の90%を占める大弓や木刀,民芸調の都城家具など伝統的な職人工芸が有名なハズである。
協議の現場はそのところの学校。再掲する事情が起こった。
学校創立は1778 安永 7年 稽古所に由来する伝統あるもの。
体育館には,「香飛翰院(こうひかんいん)」という額がかかげてある。社会人でさえ解せないのが掲げてあるのがすごいものだ。「ここは学問の香り漂うところ」という意味だそうだ。
玄関には明道館学制三章というものがある。
今から200年ぐらい前に,そのころの校長坂元正衡が決めたきまりだそうだ。
これが又凄い!
学校以明人倫為本若悖倫理者不許入此門
(学校は,人倫を明らかにするを以て本と為す。若し,倫理にもとる者はこの門に入るを許さず。)
学校以礼儀為先若蔑礼儀者不許登此堂
(学校は,礼儀を以て先と為す。若し,礼儀をあなどる者は,この堂に登ることを許さず。)
学業以躬行為主若徒言無行者不許臨此席
(学業は,躬行を以て主と為す。若し,徒に言いて行う無き者は,この席に臨むを許さず。)
この教えは,今でもうけつがれていて,校風は
「人倫」「礼儀」「躬行(きゅうこう)」となっている。
ここ実は「小学校」なんであります。
ヒェ〜驚いた。
地域的にも環境が違う。
正門前の通りは「鷹部屋筋」と書いて、「たかべやんすっ」と呼ぶ。
これは鷹(たか)部屋のある筋ということを都城の方言で言っているのだ。
都之城城主・北郷讃岐守忠能が飼っていたタカを訓練する人やえさをあたえる人など、タカを養う人たちがその辺りにたくさん住んでいたといわれている。
タカは政治をしている人の「権力のあかし」。
忠能はタカを島津のとの様へのおくり物にしたり、タカ狩を好んだ。また幕府や将軍にタカをおくっていたという。
武家社会を確立した源頼朝の社会階級は1192〜1867まで695年の長き封建制社会が続いた。
富士の裾野の鷹狩りは三大敵討ちでも知られてるが頼朝の鷹狩り好きの証左でもある。
島津はこの頼朝の落とし多ね出あることは歴史通は周知のお話。
よって代々島津にも鷹好きが尾家に受け継がれたのやも知れない。
すぐ横にこの「たかべやんすっ」が通っているのは、学校を中心に領主館が建てられていたゆえである。
学校の南側道路をへだてた八幡町の小高い丘の上に「旭丘(ひのお)神社」がある。
この神社は何回か名前が変わっている。
約四百年前までは「上野別府天神」。また歴史の本に「氷室(ひむろ)天神」とも書かれている。
明治六年ごろには近くの三神社といっしょになり、現在の旭丘神社と社名がさだまる。
戦争が始まると「ぐんじんさあ(軍神様)」と呼ぶ。戦争に行く人は必ずお参りをした。
この神社には学問の神様菅原道真公も祭ってある。よってこの神様は、厄よけの神様でもある。
功雄霊神(こうゆうれいしん)という神様もまってある。この神様は京都からお連れした「じ」の神様。
昔、じの悪い岡田孫右ヱ門という人あり。
その人は、「私は、このじのために死す。神は後世の人々のために、このじにかかった者を救え」と言って亡くなったそうだ。
その後、その人の友達が「じ」で苦しんだけれど、功雄霊神にお祈りしたらなおったという。
都島町の都島公園は昔、陸軍墓地。
泣く子も黙る勇猛果敢な都城二十三連隊を鎮魂するところ。す。都島公園のおくの方に、その墓がある。
都城二十三連隊は、もともと熊本県の陸軍部隊でしたが、一九二五(大正十四)年に都城に引っこしてきたもの。
軍馬のはかもあり、馬頭観音もご在位。
明治維新を成し遂げた経済力を持った島津藩の一部をなして歴史溢れる町である。
この学校出新の方の力作新聞でも紹介された。
都城市出身のトイレ壁画デザイナー松永はつ子さんが同市天神町一号街区公園の公衆トイレに制作した壁画を、光村図書(東京都)が中学3年「道徳」教科書に写真付きで掲載した。
今年春から全国の中学校で使用される。
松永さんは、以前から同社発行の道徳教科書に
「公衆トイレの行方」と題した文章を執筆している。
改訂版では松村さんが執筆した文に加えて、淡い空色を基調に木々の間を鳥が飛ぶ構図のトイレ壁画と、制作中の松永さんを写した写真二枚が採用された。
掲載面は見開き二ページ。
文で松永さんは「なぜ公衆トイレは汚されるのだろうか」と問い掛け、
「公衆トイレに都市のすべてが凝縮されているといっても過言ではない。公衆トイレを街から失わないためにはどうしたらよいか、みんなで知恵を出し合い考えていきたい」と訴えている。
松永さんはこの明道小を卒業、姫城中1年の時に神奈川県へ転出。
大学卒業後、デザイナーになり、1974(昭和49)年から米国のニューヨーク水族館やJR横浜駅など国内外のトイレに壁画を描き続けている
生命の誕生たるに一番近い環境作りの市ゆえに子供の魂を持続されてると考察する私は単なる空想家であろか。
環境が人を作る。
明治維新を成し遂げた国はこの国を守り抜く環境との調和、人つくり。明治大正の息吹が息づいている。
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