にわか設計士。

2006年1月11日
アップ・ロードしようとしたら消滅の悲哀を味わって思い起こして二度目の挑戦。
久しぶりに内業の時間のお許しを頂いた。
朝の7時前から現場の上屋工事等の打ち合わせ。
90KM南での1300からの大事な現地協議をお願いした。
結果は改造でなく新築でやると夕方ご返事を頂く。
残るも大変。各種の資料つくりに昼食の時間も15時過ぎ。
お手製のラーメンにご飯。
三階建ての鉄筋造りの建築確認のための図面はバインダー7冊にもなる。
建築年度の違いなどや増築部分もあり複雑怪奇。
ちまたの造語にもなった姉歯の言葉が飛び交う。
門外漢でも泣き泣き図面と根競べ。
基礎強度をめぐり、工法の研究である。
誰が手抜きをしてるというのか。
強度計算に向けての下資料作り。
これほどまで必死であると緊張感も心地よい。
大地震に備えるには、建物を鉄やコンクリートで固めるのがよいのか、それとも柳のように揺れを吸収する方がよいのか。
関東大震災の直後、建築界でそんな議論が起きた。
これを「柔剛論争」と言いこれについて先日触れた。、
「不安感論争」は戦後1950年代に、総ガラス張りのビルが東京や大阪に建ち始めた、
「地震が心配だ」「いやガラスの持つ不安感は芸術性を高める」と応酬である 、
不安感論争の象徴となったのは、皇居わきに建った米出版社リーダーズ・ダイジェストのビル。
ガラス面が大きく、柱が細く見える。建築学者や建設省技官らが「一度揺すってみないと安全かどうかわからない」などと盛んに批判したと建築評論家の宮内嘉久の証言がある。
 設計したのは、チェコ生まれの建築家アントニン・レーモンド。
戦前と戦後に計44年間日本で暮らし、関東大震災も体験。
「地震に強い」と評された建築家には心外な非難で、晩年に出版した自伝でもなお軽井沢の吉村山荘を
憤慨しているそうである。
吉村順三と、前川國男の師である。
新日曜美術館で吉村順三のことを報道した。
建築を志す人の中で知らない人はいない。
森との調和の軽井沢の吉村山荘は聖地扱いである・
奈良の博物館と八ヶ岳の音楽堂、青山タワービル。
福岡の河庄と京都の俵屋の玄関。
 吉村氏は「大震災を見て建築家を志した」と語っている。
前川国男も建物の頑丈さには終生こだわり続けた。
弘前市にいけば弘前中央高校講堂や市役所など10数件がみれる。
東大建築卒後パリでル・コルビュジェのアトリエで学ぶ。
帰国後アントニン・レモンドの事務所を経て、独立。
東京文化会館、紀伊國屋書店もこの人の手になる。
宮崎における日高是一先生みたいなものである。
それらを思いながら図面をみて資料作り。
チョッピリのアルコールもいいではないか。
、神谷傳兵衛の懇親の作「電気ブラン」がいい。
「電気ブランは発売当初は“電気ブランデー”と呼んだそうだ。明治26年(1893)頃、初代神谷傳兵衛によって誕生。
それが面白い。
もともと薬用として売られていた輸入ブランデーに、日本人の口に合う様、改良を加えたナンタるゲテもの。
ブランデー、ワイン、ジン、ベルモット、キュラソーなどをブレンドし、柔らかな口当りと豊かな香りのカクテルとした。
その処方は今なお秘伝。
ネーミングの由来を伝えている。
文明開化の風潮の中で「電気」という言葉にはハイカラなイメージがあり、当時は目新しいものは「電気○○」と呼ぶことが流行していた。
また飲み口の良い、強いお酒なので身体の芯まで心地よくピリリとしびれるように酔いが回る、との評判が生まれた。
「神谷の電気ブランデー」はいつしか昭和初期頃には親しみをこめて「電気ブラン」と呼ばれるようになる。
日の出桟橋から隅田川をのぼり、浅草で下船すると
橋のたもとでこれを傾ける。
明治の香りをかいでから浅草寺参り。
日本最初の遊園地、の花やしきはこの歳ゆえあるまいて。
伝宝院通を抜け日本唯一の講談浪曲定席木馬館か国際通りの浅草演芸場ホール
を楽しむには丁度いい。
巨大なる太陽光発電事業には建築の仕事も絡む。
見慣れぬヅメンを広げいっぱしの建築士気取り。
ホント?いや〜〜悲鳴をあげている。

最後まで有難うございます。
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