よみがえり
2005年9月20日社会改革なんテェのは決着点がない。
一生涯かけて利益を抜いたボランテアで心情の問題。
社会に奉仕する固い信念の矜持者
よって人生観も性格も常に明るく失望感のない楽天的全人格の持ち主。
未来はその人々のものである。
今日的言葉で言う「改革を止めるな!」の部類の理解でいい。
今どこでもやっている「がんばろう!」は60年安保と三池の中から生まれた
社会改革者たる三池炭鉱労働組合から生みだされたもので政治党派の社会党系のみがやっていた。
同じ改革者を名乗る共産党系の人々はやらないセクト主義の時期、変遷があった。
ましてや自民党系の保守系列はまったく取り入らなかった。
「がんばろう!}がなんか革命助長ととられていたからである。
それがどうだ。保守組織も今どこでもやってるのを見ると時代の変遷を感じる。
元請さんの担当さんからの「日記を書いとる暇が・・」の侮蔑の攻撃で仕事を干された不安で自律神経をやられた。
どうやって生きていくのかわからなくなったからである。
宮崎一廉価施工の太陽光発電のアパデン宮崎の仲間の生活の破綻をさせられつつあるからである。
それで完全に参った。
ところがお気に入りに登録してる方々の日記でパワーをいただいた。
さらに人生の指針、日記の師匠を見付け出せた。
どん底からの生還である。誰か。
山崎行太郎。その人である。
ご自身のブログから転載させていただく。
文藝評論家(or哲学者)。 慶応大大学院(哲学専攻)終了。
東工大講師を経て、現在埼玉大学講師、日大芸術学部講師、朝日cc「小説講座」講師。
シンクタンク『平河総研』常務理事。著書−『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』その他。
笑いの研究者で青春期読んだベルグソンと評論の草分け創始者とも言うべき小林秀雄に冠する著書がある本物である。
それに加えて三島とくる。
わたしの人生の転換をさせた人・反面教師としての対にある人が三島。
三島の組織した自衛隊入隊体験者で組織した行動する右翼=「楯の会」
私の信念を賭け破壊しなければならぬ組織攻撃の目標であった。
昭和45年の市ヶ谷の自衛隊本部のバルコニーの威風堂々たる最後の武士の韋駄天の如くの立ち姿。
敵ながらアッパレ!と山口の地を引き払い郷里・宮崎に帰り社会改革のまい進する決意を固めた事件。
私の人生の彷徨の始まりでもあった。
よってこの人についてはいずれ触れる。
文芸評論家の小林秀雄は敬愛する江戸人、明治35年(1902年)東京生まれ。
東京帝国大学仏文科卒業後、昭和4年に「改造」の懸賞評論で、「様々なる意匠」が二席に入選
ちなみこのとき第一席となったのは、のちに日本共産党委員長となるズル顕=宮本顕治の芥川龍之介論「敗北の文学」の話は周知のこと。
小林は近代批評の確立者といわれる。まぁ〜このブログの皆様の創始者、神様的存在で大先輩である。
、その評論の対象は文学のみならず、古典、哲学、芸術全般
角川文庫にで「常識について」「 無常ということ」 「人生につい」「私の人生観 」をよんだ、
だれもが行き着く古事記などの発掘者=小林のライフ・ワーク「本居宣長」に行き着くがこれを私は読んでない残念さ。
誰もが悩む「民族」「日本人」というより、「自己」という言葉のほうが小林らしい「本居宣長」である
自己の精神は国家や民族を超えるのは到達点。
小林には自己のほうが国家・民族より大きかったのであるとおもわれる。
昭和六年に鎌倉の由比ガ浜に住み、扇ガ谷、雪ノ下と移り住んだ。
鎌倉では、貸本屋「鎌倉文庫」の活動など、鎌倉文士の中心の一人として活躍し、昭和58年(1983年)に八十歳で逝く。
鎌倉は古刹の次に文学散歩をした。江ノ電を体験したかった不順な動機の後である。
稲村ガ崎の 大内兵衛先生のうちを訪ねた怖いもの知らずの若き日、杉並の向坂逸郎先生宅の帰りであった。
鎌倉は魅惑の地。
種まく人の創始者小牧近江と仲間たちも訪ねた。秋田・土崎のかえりであった。
金子洋文、今野賢三らと、秋田の土崎で『種蒔く人』の土崎版をだした。
現地では顕著会の会長をしておられた当時県議の案内で自費出版の画集をいただいた。
訃報の電報をいただいたときは疾風怒涛の如き中で失礼をしてしまった。労組専従であったからである。
鎌倉文化人を揚げるとそれだけで3000字を超えよう。
三好達治 堀口大學 直木三十五 北原白秋 小津安二郎 萩原 遡太郎 武者小路実篤 広津和郎 小牧近江 中原中也 西脇順三郎 志賀直哉 海音寺潮五郎 大岡昇平 円地文子 立原正秋 吉井 勇 吉野秀雄 芥川龍之介 有島武郎 佐佐木信綱 泉 鏡花 国木田独歩 高山樗牛 高浜虚子 与謝野晶子 夏目漱石 島崎藤村 中山義秀 林 房雄 永井龍男
中村光夫 高見 順 島木健作 久保田万太郎 里見? 大佛次郎 川端康成 久米正雄 小島政二郎
年代を違えてのお歴々が好んだ。
文化人を訪ねるバイブル は新潮日本文学アルバムがいい。
地球の歩き方国内版みたいなもので必須である。
小林秀雄でかれの生家を尋ねた。
東京市神田区猿楽町3丁目3番地=現、千代田区猿楽町2丁目8番5号がそうである。
錦華通りを水道橋に向かうと猿楽町。神田教会の尖塔が目印。
白いマリア像はどこでも厳かである。.
女坂を下ると正面に見えるのがアテネフランス。
生家跡は向かって左の煉瓦色の建物袋小路の突き当たり。右手は、専門学校。
「小林秀雄生誕の地」なる文学碑などもないぞんざいな扱い。
小林秀雄の言う「あらかじめ失われていた故郷」的風景=
殺風景そのもので「故郷」を想起することはできない。
坂口安吾が「文学のふるさと」と呼んだあの「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」そのもの。
小林秀雄は、近代日本が生み出した「故郷喪失者たち」の最初の世代であろう。
わたしのエネルギーの師匠の言葉なら盗んでる石油まみれの限界の社会。
「私の心にはいつももっと奇妙な感情がつき纏つてゐて離れないでゐる。言つてみれば東京に生れながら東京に生れたといふ事がどうしても合點出來ない、又言つてみれば自分には故郷といふものがない、といふやうな一種不安な感情である。」=故郷を失つた文學」昭和8年 小林
なぜ、山崎行太郎を語るのこのようになったのか。
敬愛してやまない事柄だからである。
この総選挙で生きる気力を失せた。
ところが明快なのである。
一年後の「小泉退陣」は確定的になったね?
小泉総理は、今回の予想外の「大勝利」で、心ならずも(爆笑)、続投の「芽」を完全に摘み取られたと言っていい。
大惨敗の責任をとって早々と公約通りに辞任会見をして「男を上げた…」岡田民主党党首に、自分がやるつもりだった見事な「散り際の美学」とやらを、奪い取られてしまったからだ。
これで「小泉続投」では話にならないだろう。
ともあれ、この「自民党圧勝」という選挙結果は、思わぬ効用をもたらしたと言うべきだろう。
国民に、「自民党歴史的大勝利」という「劇薬」を呑まされた小泉自民党の迷走が始まったと見ていい。
つまり、「小泉クン、そんなに改革とやらがやりたければ、何でもいいから、さっさとやってみろよ…」という国民からの脅迫である。明快でいい。
早朝延岡に向かう前に元請さんから車の中まで人間否定の罵声を浴びせられ始めて自分を出してしまった。
NEDOの物件は延岡から見積もりの指示で何とか危機脱出。
http://blog.with2.net/link.php?62076
今日もワン・クリック
有難うございます。
一生涯かけて利益を抜いたボランテアで心情の問題。
社会に奉仕する固い信念の矜持者
よって人生観も性格も常に明るく失望感のない楽天的全人格の持ち主。
未来はその人々のものである。
今日的言葉で言う「改革を止めるな!」の部類の理解でいい。
今どこでもやっている「がんばろう!」は60年安保と三池の中から生まれた
社会改革者たる三池炭鉱労働組合から生みだされたもので政治党派の社会党系のみがやっていた。
同じ改革者を名乗る共産党系の人々はやらないセクト主義の時期、変遷があった。
ましてや自民党系の保守系列はまったく取り入らなかった。
「がんばろう!}がなんか革命助長ととられていたからである。
それがどうだ。保守組織も今どこでもやってるのを見ると時代の変遷を感じる。
元請さんの担当さんからの「日記を書いとる暇が・・」の侮蔑の攻撃で仕事を干された不安で自律神経をやられた。
どうやって生きていくのかわからなくなったからである。
宮崎一廉価施工の太陽光発電のアパデン宮崎の仲間の生活の破綻をさせられつつあるからである。
それで完全に参った。
ところがお気に入りに登録してる方々の日記でパワーをいただいた。
さらに人生の指針、日記の師匠を見付け出せた。
どん底からの生還である。誰か。
山崎行太郎。その人である。
ご自身のブログから転載させていただく。
文藝評論家(or哲学者)。 慶応大大学院(哲学専攻)終了。
東工大講師を経て、現在埼玉大学講師、日大芸術学部講師、朝日cc「小説講座」講師。
シンクタンク『平河総研』常務理事。著書−『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』その他。
笑いの研究者で青春期読んだベルグソンと評論の草分け創始者とも言うべき小林秀雄に冠する著書がある本物である。
それに加えて三島とくる。
わたしの人生の転換をさせた人・反面教師としての対にある人が三島。
三島の組織した自衛隊入隊体験者で組織した行動する右翼=「楯の会」
私の信念を賭け破壊しなければならぬ組織攻撃の目標であった。
昭和45年の市ヶ谷の自衛隊本部のバルコニーの威風堂々たる最後の武士の韋駄天の如くの立ち姿。
敵ながらアッパレ!と山口の地を引き払い郷里・宮崎に帰り社会改革のまい進する決意を固めた事件。
私の人生の彷徨の始まりでもあった。
よってこの人についてはいずれ触れる。
文芸評論家の小林秀雄は敬愛する江戸人、明治35年(1902年)東京生まれ。
東京帝国大学仏文科卒業後、昭和4年に「改造」の懸賞評論で、「様々なる意匠」が二席に入選
ちなみこのとき第一席となったのは、のちに日本共産党委員長となるズル顕=宮本顕治の芥川龍之介論「敗北の文学」の話は周知のこと。
小林は近代批評の確立者といわれる。まぁ〜このブログの皆様の創始者、神様的存在で大先輩である。
、その評論の対象は文学のみならず、古典、哲学、芸術全般
角川文庫にで「常識について」「 無常ということ」 「人生につい」「私の人生観 」をよんだ、
だれもが行き着く古事記などの発掘者=小林のライフ・ワーク「本居宣長」に行き着くがこれを私は読んでない残念さ。
誰もが悩む「民族」「日本人」というより、「自己」という言葉のほうが小林らしい「本居宣長」である
自己の精神は国家や民族を超えるのは到達点。
小林には自己のほうが国家・民族より大きかったのであるとおもわれる。
昭和六年に鎌倉の由比ガ浜に住み、扇ガ谷、雪ノ下と移り住んだ。
鎌倉では、貸本屋「鎌倉文庫」の活動など、鎌倉文士の中心の一人として活躍し、昭和58年(1983年)に八十歳で逝く。
鎌倉は古刹の次に文学散歩をした。江ノ電を体験したかった不順な動機の後である。
稲村ガ崎の 大内兵衛先生のうちを訪ねた怖いもの知らずの若き日、杉並の向坂逸郎先生宅の帰りであった。
鎌倉は魅惑の地。
種まく人の創始者小牧近江と仲間たちも訪ねた。秋田・土崎のかえりであった。
金子洋文、今野賢三らと、秋田の土崎で『種蒔く人』の土崎版をだした。
現地では顕著会の会長をしておられた当時県議の案内で自費出版の画集をいただいた。
訃報の電報をいただいたときは疾風怒涛の如き中で失礼をしてしまった。労組専従であったからである。
鎌倉文化人を揚げるとそれだけで3000字を超えよう。
三好達治 堀口大學 直木三十五 北原白秋 小津安二郎 萩原 遡太郎 武者小路実篤 広津和郎 小牧近江 中原中也 西脇順三郎 志賀直哉 海音寺潮五郎 大岡昇平 円地文子 立原正秋 吉井 勇 吉野秀雄 芥川龍之介 有島武郎 佐佐木信綱 泉 鏡花 国木田独歩 高山樗牛 高浜虚子 与謝野晶子 夏目漱石 島崎藤村 中山義秀 林 房雄 永井龍男
中村光夫 高見 順 島木健作 久保田万太郎 里見? 大佛次郎 川端康成 久米正雄 小島政二郎
年代を違えてのお歴々が好んだ。
文化人を訪ねるバイブル は新潮日本文学アルバムがいい。
地球の歩き方国内版みたいなもので必須である。
小林秀雄でかれの生家を尋ねた。
東京市神田区猿楽町3丁目3番地=現、千代田区猿楽町2丁目8番5号がそうである。
錦華通りを水道橋に向かうと猿楽町。神田教会の尖塔が目印。
白いマリア像はどこでも厳かである。.
女坂を下ると正面に見えるのがアテネフランス。
生家跡は向かって左の煉瓦色の建物袋小路の突き当たり。右手は、専門学校。
「小林秀雄生誕の地」なる文学碑などもないぞんざいな扱い。
小林秀雄の言う「あらかじめ失われていた故郷」的風景=
殺風景そのもので「故郷」を想起することはできない。
坂口安吾が「文学のふるさと」と呼んだあの「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」そのもの。
小林秀雄は、近代日本が生み出した「故郷喪失者たち」の最初の世代であろう。
わたしのエネルギーの師匠の言葉なら盗んでる石油まみれの限界の社会。
「私の心にはいつももっと奇妙な感情がつき纏つてゐて離れないでゐる。言つてみれば東京に生れながら東京に生れたといふ事がどうしても合點出來ない、又言つてみれば自分には故郷といふものがない、といふやうな一種不安な感情である。」=故郷を失つた文學」昭和8年 小林
なぜ、山崎行太郎を語るのこのようになったのか。
敬愛してやまない事柄だからである。
この総選挙で生きる気力を失せた。
ところが明快なのである。
一年後の「小泉退陣」は確定的になったね?
小泉総理は、今回の予想外の「大勝利」で、心ならずも(爆笑)、続投の「芽」を完全に摘み取られたと言っていい。
大惨敗の責任をとって早々と公約通りに辞任会見をして「男を上げた…」岡田民主党党首に、自分がやるつもりだった見事な「散り際の美学」とやらを、奪い取られてしまったからだ。
これで「小泉続投」では話にならないだろう。
ともあれ、この「自民党圧勝」という選挙結果は、思わぬ効用をもたらしたと言うべきだろう。
国民に、「自民党歴史的大勝利」という「劇薬」を呑まされた小泉自民党の迷走が始まったと見ていい。
つまり、「小泉クン、そんなに改革とやらがやりたければ、何でもいいから、さっさとやってみろよ…」という国民からの脅迫である。明快でいい。
早朝延岡に向かう前に元請さんから車の中まで人間否定の罵声を浴びせられ始めて自分を出してしまった。
NEDOの物件は延岡から見積もりの指示で何とか危機脱出。
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有難うございます。
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